誰求める声に
――地下牢。
ここは変わらず緑が茂り、湿り気を保った土の匂いが場を包む。
「変わらずティアは眠ったままだな」
「しかたないよ、ジル。ちあはもともと消耗していたところに、相当の負荷をかけられたんだから」
身を丸めた白狼のシシィは、鳥の姿のティアを自身の懐に抱えた。
その動作はひどく怠そうにジルの目には映った。
「僕だって目は覚めはしたけど、身体は回復に努めようとしてるみたいで、人の姿は保っていられなくなっちゃったもん」
それだけで疲れてしまい、シシィはぺたりと地に伏せる。
ふすうと薄い息がもれた。
「……そんなで、そのおばばって奴に勝てんのかよ」
あぐらをかくジルが、険しさの滲む紅の瞳をしかめた。
さわざわと揺れる木々は、ジルに同意を示すものか、否定を示すものか。
ざわめく木々を見つめ、風の強さが増してきているなとジルは思う。
「勝つ必要はないよ」
シシィの声に視線を戻す。
「そもそも、あの方には僕もちあも敵わないよ。重ねた時が違いすぎる。……現に意識へ負荷を与えることで昏倒させられて、数日経っても身体は重いし、ちあは眠ったままだし」
億劫そうにシシィが顔を上げた。
割られた天窓から別の風が入り込み、彼を取り巻くように渦巻く。
シシィからマナがもれると、風はそれを抱えて再び天窓から去って行った。
どっと疲れたらしいシシィは、先程と同じ体勢に戻るなり目を閉じてしまう。
「僕、疲れたからちょっと寝るね」
「寝るって……誤魔化すなよ。今のなんだったんだ?」
「下準備」
「は?」
疲れは本当だったらしく、すぐにシシィからは寝息が聞こえ始める。
不服そうな顔をしていたジルも、諦めたように小さな嘆息をひとつ落とした。
「……ここは魔力が濃すぎるかんな。回復も遅いのかもしんねぇな」
ジル自身はシシィのおかげもあり、すっかり本調子だ。
本調子ならば、魔族であるジルは魔力に対しての耐性もそれなりにある。
「ちょっくら様子を探ってみっか」
立ち上がったジルはゆっくりと周りを見渡す。
漂う光の粒――下位精霊の様子も相変わらずで、そこに自我が宿っている気はしない。
がしがしと頭を掻き、ターバンのない頭にもすっかり慣れてしまった。
まずは何処からか――やはり、あれからだろうか。
視界に納めるだけで震えそうになるそれ。
ジルは紅魔水晶を見上げ、ごくりと喉を鳴らすと一歩踏み出した。
◇ ◆ ◇
屋敷の屋根上。そこに老狼の姿があった。
高台に建てられた屋敷からは領都が一望できる。
そして、領都を眼下に据えながら、老狼はさらに遠くへと視線を投げた。
砂塵を含む空気に遮られ、その視界ははっきりとはしない。しかし、老狼は遠くを見晴らす。
ひとつの風が老狼を過ぎて走っていく。
白の体毛をなびかせながら、老狼は常に閉ざされる蒼の瞳を細めた。
『――来さねぇ。風が連れて来たのさねぇ』
それは老狼が望むこと――。
◇ ◆ ◇
紅魔水晶の前に立ったジルは、その大きさぶりに驚くしかなかった。
「……いや、でかすぎだろ」
呆気にとられ、見上げたまましばし呆けた。
近付くまではあれほどに震えそうだった身体が、今はなぜだか落ち着いていた。
ともすれば、呼ばれている気さえするほどで――ゆえに、警戒が薄れていたとも言える。
それは少しの好奇心か、はたまた引き寄せられたのか。
ジルは紅魔水晶へ手をのばす。
触れてみようと思った。目的は、たぶん、なかった。
ここに向かうまでに考えていたことは忘れ、ただ、触れるためだけに手を伸ばした。
ジルの手が紅魔水晶に触れる。
手を伝って感ずるのは、何か。最初は――怖気だった。
「――やばっ。つか、なんで俺触ってんだよ」
身体を駆け抜けた怖気は、一気にジルを正気に戻す。しかし。
「……は、はぁ? 手が離れねぇしっ」
いくら自らの手を引いても、紅魔水晶に触れた手は離れなかった。
ぐいぐいと力任せに引いても引き抜けない。
否。引き抜けない、という表現がそもそもおかしいのだ。
始めはただ触っていただけ。なのに、そこから次第に手が紅魔水晶へと沈み始めている。
今は肘近くまで沈んでいる――取り込まれている。
「いやいやいや、ちょい待てよっ。おかしいだろっ、変だろっ、やばいだろっ!」
ジルの声に焦燥が滲み、両足を踏ん張って手を引き抜きにかかっても、どんどんと沈む。
逆に引きづられ、踏ん張る足が地に線を引いていくばかり。
やばいとジルの顔に焦りの色が濃くなっていく。
紅魔水晶から流れてくる怖気が色を変える。
怖気が悪寒になり、ぶるりとジルの身体が震えた。
「な、なんだよっ。なんか流れてくんだけどっ!」
嫌な汗がジルの頬を伝う。
彼へと流れる声は、冷たくて暗くて――寂しくて。
“寂しい” “寂しい” “寂しい” “寂しい”
その声は、男のようであり、女のようでもあって、子供のようで老人のような声だった。
それがどろりとジルの心を舐めあげる。
既に紅魔水晶には肩まで沈んでいた。
「寂しいってなんだよっ。そんなん、俺は知らねぇよっ」
“本当に……?”
「――は?」
沈む腕を引き抜くため、未だ自由に動く反対の腕で紅魔水晶を押し返す。
しかし、引き抜くどころか、その手さえも紅魔水晶へ沈み始める。
焦りがジルの心をじりりと妬き、それは次第に恐怖もはらみ始める。
「っ! 冗談じゃねぇっ!」
意味もなく首を左右に振るも、腕は引きずり込まれるだけ。
両足で踏ん張るも、ずるずると地に引かれた線は伸び、やがて紅魔水晶に達する。
“おいで” “おいで” “一緒に居よう”
「行かねぇよっ! 一緒に居ねぇよっ! 俺は俺の帰る場所があんだからっ!」
“本当に……?”
「うっせぇ、離せよっ!!」
足で紅魔水晶を必死に押し返す。
“本当にそこは、あなたの帰る場所?”
「――っそーだっ! だから、離せっ!!」
“あなたの帰りを待っているの?”
「そーだっつってんだろ!?」
足の先が紅魔水晶へと沈み始めた。
“彼らは精霊。あなたは魔族。種が違うのに?”
“あなたを待ってくれていても、それはずっとじゃない”
“そこはあなただけの場所じゃないから”
幾つもの声がジルにささやく。
どくんっ、鼓動が大きく跳ねた。
脳裏を過ぎるのは、フウガやシシィやティアの顔。
彼らはジルの帰る場所で、帰って来てくれる場所。
なのに、声がささやく。
“あなただけに手を差し伸べてくれる存在は、もういない”
それはそうだろう。
シシィにはティアが居て、ティアにはシシィが居る。
彼らが笑って居てくれるのは、ジルも嬉しい。それは本当だ。
ジルにそんな存在はいないから、羨ましさがほんのちょっぴりあるのは秘密だ。
フウガは拾ってくれた恩人だ。
だが、彼は決してジルだけを見ていてくれる存在ではない。
だって彼は、立場ある存在だ。
それでも、彼らは精霊であるのにジルを迎えてくれた――一緒に、傍に居てくれる。
それで十分だとジルは思っている。
“本当に……?”
声がジルの心の隙間に入り込む。
“本当は寂しいんじゃない?”
違う。そんなことは。
“認めちゃいなよ” “認めなよ” “認めてしまえ”
“君はひとりぼっちだ”
“だって、君の家族はもう何処にもいないのだから”
どくんっ。鼓動が響く。
「……お、れは……ひとり……」
“そう。君はひとりぼっち”
“だから、おいで”
“一緒に居よう。そうすれば君も、もう、ひとりぼっちじゃないよ”
「……ちが、う……おれに、は……」
意識の向こうに、三毛の柄が見えた気がした。
手を伸ばしてみても、その手を掴んでくれるものなかった。
とぷんっ。揺蕩う音がひとつ。
紅魔水晶だけが、そこに高くそびえ立っていた。
――――――――
今年も一年お付き合いいただき、ありがとうございました。
物語は綴りはじめて二年となります。
来年は三年目。来年こそは物語の終着にたどり着きたく思いますが、はてさて苦笑
来年もまたお付き合いいただけましたら嬉しく思います。
それでは、よいお年……!
年始もいつも通りに土曜更新となりますので、次回は一月七日更新となります。
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