青年、その腹括り
翌朝。鏡台の前でメイドに髪を梳くってもらっているニニの元に、エルザが慌てた様子で部屋に駆け込んで来た。
ばたばたと慌ただしく、メイドが咎めるように眉をひそめてエルザを見やる。
それに気付いたエルザがはっとして非礼を侘び、出直そうと踵を返したところに、ニニがその存在に気付いて彼女を引き止めた。
ニニは髪を簡単にまとめてもらってからメイドを下がらせると。
「えるざ、もしかして」
エルザの肩へきらきらとした瞳を向けた。
頬をぱんぱんに膨らませたリスは、もごもごと何かを咀嚼している様子。
「はい。昨夜、庭園にいらっしゃったところを留まっていただきました。――精霊様かと気配から察したのですが、お嬢様がお探しの方でしたでしょうか?」
エルザは膝を床に付けて屈むと、目線が同じになったニニの顔を覗き込む。
「こちらの精霊様は、人の言葉を操ることも解すことも不得意のようでして、なんとか説得して留まっていただいたのですが」
もごもごと口を動かす愛らしいリスの姿を眺めていたニニは、エルザの顔へ視線を動かした。
「……これは、えづけじゃなくて?」
「餌付けとはとんでもありません。夜の厨房に忍び込み、少々失敬した食べ物を差し上げただけです」
「…………それは、りょうりちょうにおこられない……?」
「お嬢様が内緒にしてくださるのならば、みつかりませんよ」
人差し指を口元にあて、悪戯に笑うエルザをしばし見つめていたニニも、やがてにしと歯を見せて笑う。
「にににはえるざがひつようだもん。しかたないからないしょにしてあげる」
ふふと楽しそうに笑い合う彼女達を、エルザの肩に乗るリスは不思議そうに眺めながら、もごもごとしているのだった。
*
もぐもぐ、ごくん。
美味しくいただき、飲み込む。それを繰り返すこと幾度目か。
食べ終えれば、新たな食べ物が目の前に現れる。
それはたいへん美味しそうで魅力的で、油断すれば誘惑に負けそうになるも、ミントにだってやるべきことがあるのだ。
ミントは意を決して顔を上げる。
『おいしいものはありがとうなの。でも、ミント行かなくちゃいけないの』
テーブル上にはクッキーやクラッカーが所狭しと並べられ、その真ん中にミントは鎮座させられていた。
顔を上げたミントへ、ジャムを乗せたクラッカーが差し出される。
それはたいへん魅力的な代物であり、けしからんくらいの美味しい匂いが彼女を誘惑する。
けれども、ふるふるとミントは首を横に振る。
『ミント、行かなくちゃいけないの』
屋敷の外に広がる乾いた地。
その地がミントが行くべき場所を教えてくれる。
「えるざ、せいれいさまのいっていることわかる?」
「申し訳ありません、お嬢様。私にも精霊様の言はわかりません。もしかしたら、クラッカーには飽いてしまわれたのかもしれませんね」
「そっか。さっきからくらっかーばかりだったもんね。つぎはくっきーなんてどうかな」
二人が何事かを囁やきながら、今度はクッキーがミントの前に差し出された。
このクッキーも焼き立てだろう香ばしい匂いがミントを誘惑するが、その誘惑に負けるもんかと顔を背けた。
「これもいらないみたい」
「では、こちらなんていかがでしょうか――って、これではまるで、本当に餌付けのようですね」
「……そういわれるとそうだけど、おばばさまにも、おにいさまにもみつかっちゃったらだめだもん。ににのさがしてるせいれいさまではないけど、ににがまもらなくちゃ」
「お嬢様、それはどういう意味で――」
ああ、だめだ。
この二人には自身の言葉が通じていない。そして、自身もまた二人の言葉がわからない。
そう気付いてしまったミントは、甘い香りに包まれる中で肩を落とした。
ならばもう、美味しい物をくれたこの二人には悪いが、ここでこれ以上ご馳走になっているわけにはいかない。
抜け出すならば、二人が会話に夢中になっている今が機だろう。
たっ、とミントは高く跳躍した。
二人がミントの様子に気付いた頃には、彼女は部屋の出入り口を目指していて。
そして、丁度頃合いよく、ニニにお菓子の追加を頼まれていたメイドが部屋の扉を開けた。
それに紛れてミントは隙間から廊下へ飛び出る。
けれども、駆け出す刹那に振り返り。
『ありがとなのっ!』
小さな前足を上げて元気に振った。
そして、くるりと背を向けるとミントは駆け出した。
背後から静止を求めるニニの声が追いかけて来たが、ミントが振り返ることはなかった。
◇ ◆ ◇
執務机にて、ロンドは侍従の持ってきた情報に項垂れていた。
侍従は畏怖からか身を縮こまらせている。
それを手で払う仕草をして下がらせると、部屋にはロンド一人になった。
「……王都から騎士隊が編成され、こちらへ向かっている、か」
机に肘をつき、組んだ手に額を乗せる。
王都からということは、それなりの証拠というものが揃ったということなのだろうか。
どこかが甘かったのだ。
行方がわからなくなった精霊狩りや魔族狩りを任せていた者達。おそらく、そこからロンドへと辿り着いたのだろう。
「……おばば様の仰る覚悟とは、これを意味していたのか」
ぼんやりと呟き、いや、とかぶりを振る。
「覚悟じゃない。――腹を括れ、ロンド。捉えようによっては、これは好機だ」
伏せていた顔を上げた。
人任せにしていた――この場合は精霊任せか――にしていたから、計画半ばで、それを達する前に辿り着かれたのだ。
己が未熟だったゆえに招いた結果だ。
常から想定して考えていたことではないか。
出来る限りを持って、王都騎士隊を迎えようではないか。
そのためにはまず――。
一瞬で考えを巡らせてロンドは立ち上がると、下がらせた侍従をもう一度呼び、命を下す。
「ニニを呼べ。……あれに動かれると面倒なんだ」
下されたその命は、速やかに伝達された。
近頃は屋敷内で頻繁に姿を見かける妹。
兄の目には、何かを探しているような姿に映り、万が一にも精霊や地下牢の存在に気付かれでもすれば、面倒なそれになる。
大切だからこそ、遠ざけ囲う。彼女は何も知らなくていいのだ――知ってはいけないのだ。
それからすぐにニニは自室に幽閉されることとなり、接触が許されるのは世話役数名となった。
◇ ◆ ◇
己もニニの護衛を兼ねた世話役なのだからと主張したが、エルザには彼女への接触は許されなかった。
エルザの主がいくらニニなのだとしても、所属はロンドの統べる騎士隊。
その権限はロンドにあるのだ。彼が許すからニニの傍に居られた。だから、否と言われればそれまでである。
指示があるまで自室待機と言い渡され、今に至る。
「くそっ、どうすればいい」
自室に戻ったエルザは、苛立たしげに壁へ拳を打ち込んだ。
じんじんと痛む拳を見つめ、引き離される直前の幼き主の姿を思い出す。
――えるざ、ににはだいじょーぶだから、さがしてあげてほしいの。
探して。それは何を指すのか。
ニニが探していたのは精霊。それを知っているのは、きっと屋敷の中でもエルザだけだろう。
気付かれたらいけないのかもしれない。
だから、ニニはあえて何かは言わなかったのだと思う。
これだけでエルザに伝わると信じて。
「……お嬢様は聡い方だから、きっと何かを感じておられたんだ。なら、私がすべきことはひとつ」
窓から差し込む夕日を睨む。
砂塵含む風が荒々しく、その夕日は霞んで見えた。
このところ数日、風が吹き荒れることが多い気がする。
風が吹き荒れる程の風を、この地で生まれ、この地で育ったエルザは見たことがない。
まるで何かに呼ばれて風が集まったように感ずる。
それは薄ら気味の悪さを運び、エルザにざらりとしたざらついた不安を呼び寄せる。
砂塵含む荒れる風。これは何の予兆か――。
「まずは隊長に言質をいただこうか――すべきことをしろ、と」
そうすれば、エルザが動けるだけの大義名分とやらはつくれるはずだ。
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