閑話 シルフとフウガ


 夜空に風の声が響く。

 天窓を抜け、地下牢から脱したばななは走った。

 向かうは風の主のところ。

 彼らは役目を果たした。なれば、今度は風が役目を果たす番だ。

 目には映らぬ道を見つけると、風はその道を渡って一気に向かった。




   ◇   ◆   ◇




 海街。空は白み始め、海からは早起きな海鳥の声が聞こえる。

 ざざんと海は静かに鳴くも、時折何かを訴えるように、飛沫を上げながら激しく鳴いた。


 精霊の隠れ家。二階。

 普段は皆で集まり、卓を食で囲み賑わう食堂。

 だが、今はがらんと静まり返り、姿はフウガだけだった。

 否。少し離れた位置に、椅子を移動させて座ったのだろう、金茶の髪を持った少女の姿もあった。

 窓から射し込む朝陽に、目を閉じて椅子に座していたフウガが顔を上げる。

 眩しそうに枯れ葉色の瞳を細め、深く息をもらした。


『――ばななはまだか』


 そこに滲むのは苛立ちか。

 駒にと勝手にティアらを使ったくせに、逸る焦燥のようなものは何か。

 さすがに勝手が過ぎるのではないだろうか。

 自嘲気味に口の端を持ち上げた。

 ふうと細く長く息を吐き、緩くかぶりを振る。


「――ねえ、ジルを探してよ」


 縋るような声にフウガの視線が動いた。

 向けられた視線の先。彼よりも小さな肩がびくと跳ねる。

 枯れ葉色の瞳に見竦められて身体は強張るも、フウガを見やるカッパー色の瞳は強い。

 まるで挑むようにも見えるその瞳に、フウガは面白げに笑みを浮かべた。


「まあ、そう慌てるな。猫の嬢ちゃん」


 軽く肩を竦める。


「風に丸一日探らせたが、猫の嬢ちゃんが言うように、ジルが拐われたっつー言に偽りはなさそうだ」


「だから、そう言ってんじゃないっ」


「……だがな。あの晩、慌てた様子で駆け込んで来た嬢ちゃんには悪いが、そうだとわかっても、はいそーですかと俺は動くことは出来ねぇんだ」


 瞬間。フウガを見やっていたカッパー色の瞳に、激しい怒りの色が宿った。

 がたんと座していた椅子から荒く立ち上がった少女は、堪らずフウガへと詰め寄り、睨むその瞳は鋭い。


「ジルなんて、どーでもいいってこと……? あいつが、どれだけあんたらを想ってるのか、心を砕こうとしてるかなんて知らないくせにっ!」


 叫ぶ彼女に、怯みも臆す様子もなく、冷静な瞳でフウガは彼女を見返す。


「どう受け取ってもらっても構わない。だがな、ひとつだけ言わせてもらおうか」


 フウガが瞳を細めると、怯みの様子を見せたのは少女の方だった。


「ジルがどーでもいいと思ったことはない」


 微かな揺らぎを見せた枯れ葉色の瞳。

 その動きを少女は確かに認め、口を横に強く引き結んだ。

 ぐっと握り込んだ手の平に握られているのは、彼のターバン。

 落ちた沈黙が重く、それきり、フウガは口を閉ざす。

 やがて、ぴりつき始めた沈黙に耐えかねて、少女もとぼとぼと自分が座っていた椅子へと戻った。



 落ちた沈黙を埋めるのは、何かを訴えるように波を荒立てる海の声。

 ぼんやりと少女――シオは窓へと視線を投じた。

 人が入れそうな程の麻袋が詰まれたゴンドラを見つけたあの夜。

 付近に落ちていた彼のターバン。

 そんなのは状況証拠にならないと、震える足で精霊の隠れ家へ向かい戸を叩いた。

 そしてそこに在るはずのジルの姿がなく、思わずフウガに泣きついた。

 ジルを探して。そう訴えて、気付けばが一日が経っていた。

 足を椅子の座面に上げて抱えると、膝に額を付けて顔を埋めた。募ったのは寂しさ。

 いつもは自分が膝に乗る側であり、撫でられる立場。

 そして、ぬくもりが背を撫でてくれるのだ。

 なのに今は、その背を撫でるぬくもりはなく、それがひどく寒く感じた。

 恋しく想うぬくもりは、果たして誰のものか。



 重苦しい沈黙を突として破ったのは、かたかたと揺れ鳴る窓だった。

 びくんと大きく身体の跳ねたシオに対し、フウガはそれを予期でもしていたのか、落ち着いた様子で立ち上がると窓を開けた。

 開けられた少しの隙間から風が滑り込む。


『ばなな、戻ったか』


 フウガの声に応えるように、風が彼の周りを一巡する。

 そして、肩口で小さく渦を描いたかと思えば、手の平大の真白の小鳥が顕現した。

 突然のそれに、シオのカッパー色の瞳が驚きで丸くなり、ぱちくりと瞬きを繰り返す。

 けれども、彼女は驚きはすれど警戒する気配はない。

 それは小鳥の放つ気配が、獣のそれでなく自然のそれだったから。

 あの小鳥は自然霊だ。知識はなくとも、本能が知っていた。

 そんなシオをフウガは一瞥するにとどめ、肩口の小鳥を見やる。


『――どうだ』


 そう問いかけながら、彼は小鳥を伴い食堂を出て行ってしまう。

 ぽつりと残されたシオは、彼らが出て行った方をしばし見ていたが、すぐには戻って来る気配がないことを察すると、そっと息を吐き出した。


「……聞かせたくない話なのかな」


 再び足を抱えた。

 手にはずっと握りっぱなしのジルのターバン。

 握り過ぎて、しわになってしまっていた。


「どうせあたしに精霊の言葉はわかんないんだから、別に他所に行かなくてもいいじゃん」


 気持ちがささくれる。

 そこに混ざる心細さは、不慣れな場所、不慣れな相手だからか。

 それらを振り払うようにシオはかぶりを降ると、瞬きひとつで猫の姿へと変じた。

 その際に落としてしまったターバンを咥え、椅子の座面へと飛び上がる。

 咥えたそれを座面に落とすと、鼻面を押し付けた。


「――ジルの匂いだ」


 それを吸うだけで、ささくれた心が落ち着く気がする。

 ターバンの上に遠慮なく乗っかり、身を丸めたシオは静かに目を閉じた。

 ジルの匂いに身を包んだだけなのに、どうして安心するのか。

 シオがまどろみ始めるのに、そう時間はかからなかった。




   *




『――は? ジルも、居た……?』


 フウガの自室に入るなり、ばななは机上に舞い降りた。


『じる、つかまった』


『……捕えられ、そんでティアと同じ場所に連れてかれたってことか?』


 フウガは唖然としてばななを見下ろす。


『まぞく、たくさん、いた』


 ばななは淡々と見聴きして来た事を紡ぐ。


『おど、しぼって、おおきな、おおきな、まけっしょう、ちかろう、あった』


『地下牢……?』


『てぃあ、はこにわ、みたい、いってた』


 ばなながついとフウガを見上げた。

 次いで、彼から小さな風が巻き上がり、情報の波がフウガを襲う。

 風からフウガへ情報が雪崩れ込む。

 ばななが見聞きしてきたそれを、彼は軽く顔をしかめながら整理し、風の情報を読んでいく――やがて、ふうと深く息を吐き出した。

 知らぬ間に寄っていた眉間のしわを伸ばしながら、静かに口を開く。


『そうか。俺らが動けるだけの理由はつくれた、か』


 枯れ葉色の瞳がばななを据えた。


『――ばなな、スイレンの元へその情報を持って行け』


 命ぜられたばななの姿形が風に溶ける。


『精霊灯つーのも、なかなかに興味深い』


 かつかつと靴音を響かせながら、フウガが窓辺へと歩み寄り、それに風が追随する。


『それに、魔結晶の話もスイレンが渡しの守り役殿へ持っていくだろう。……人の国にて、魔族がそんな無惨な扱いを受けてんだ。黙ってるわけにもいかねぇし、国同士の諍いにも繋がりかねねぇ』


 窓枠に手をかけ、押し開けた。

 瞬。フウガの横を風が過ぎて行った。

 朝風に紛れ、風に身を溶かしたばななが朝焼けの空へ駆け上がる。

 それを瞳を細めて見送り、ぼんやりと朝焼けの空を眺めやる。


『……朝焼けは琥珀に見えんな』


 同じ色の瞳が脳裏を過ぎ、開け放った窓を閉めた。

 窓枠に浅く腰掛け、ひとつ瞑目。


『……ティアはオドの怪我を負ってたんだ。シシィが何とかしたみてぇだけど――すまねぇな』


 シルフを冠する精霊の元に身を寄せる、未だ幼いと言える若い精霊らが囚われた。

 そのうちの片割れは己の姪だ。

 動けるだけの理由は出来たはずなのに、シルフという立場がそうはさせない。


『――王の言なしに、精霊の領域でない場には勝手に乗り込めねぇもんな』


 はっと身近な吐息がこぼれる。


『……やっぱ、俺は勝手な奴だ。シルフとして駒に利用したくせに、一丁前にフウガとして心配してやがる』


 自嘲気味な声が部屋に響いた。

 シルフとして、情なんてものは不要だ。

 だから、自身の姪だろうと駒にも容易に使う。

 だが、“フウガ”はやはり捨てきれない。割り切れない。


『……落ち着けよ、フウガ。なら、出来るだけ早く動けるよう、事を進めておけばいい話だ』


 持ち上げられたまぶた。そこに覗く枯れ葉色の瞳が、ちろりと仄暗い焔を宿す。


『――シルフなら、それが出来るだろう?』


 口の端を薄く引き、冷たく笑う。

 その彼の顔は先程までフウガとしての顔ではなく――時に冷酷にもなる、シルフとしての顔だった。


『ティアが舟を転覆させて海へ葬ろうとした輩の残りは、未だ俺が預かってんだ』


 ゆうらりと立ち上がる。


『……んなら、雇い先が何処か吐かせればいい』


 瞬きひとつ。彼の姿はその場から掻き消えた。

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