その道筋はどこへ向かう


 ふたり分の寝息が聞こえ始めた頃、シシィはむくりと身体を起こした。

 しんと静かな夜の森。

 風は微風ながらに吹くので、ささやくように木々はさわめいている。

 下草はころんと横になるには十分に柔く、眠るふたりを見ても寝心地が悪そうな雰囲気はない。

 ジルを挟んでティアと並べば、川の字になって簡易的なマナ避けになる。

 精霊を両側に配すれば、ジルの傍はそれほど魔力が濃くなることもないだろう。

 ほっと息をつき、天を仰ぐ。

 天窓から覗く星々は変わらず霞んで見えた。

 天窓がなければ、ここが森だと勘違いをしそうになる。

 それだけここは穏やかな緑で溢れ、空気感も森のそれだ。

 ただ、異様なのは漂うマナの濃さと――。


『……ジルは気付いてないみたいだったけど、たぶん、ちあは気付いてる』


 シシィの碧の瞳がふよと泳ぐ光の粒――下位精霊を追いかける。


『だから、ちあは食い下がったんだ』


 なかなか諦めて寝ようとしないから、真名で縛って眠らせてしまったのだけれども。

 これは彼女が目を覚ました際に、小言をもらうかもしれない。

 苦笑を浮かべ、シシィは眠るティアの寝顔を見つめる。

 目の届く距離にいて、手を伸ばせば触れられる距離にいる。

 その事実が、こそばゆいくらいに嬉しかった。そして同時に、安堵も覚える。

 そこで、ふと思い出す。


『……そーいえば僕、まだちあにごめんねって謝ってないや』


 謝るどころではなかったのだから、仕方ないといえば仕方がないが、次にティアが目覚めた時にはきちんと謝りたい。

 互いの想いが通じ、触れ合い、ティアもシシィも、互いに言わんとしていたことは伝わったと思う。

 けれども、シシィがティアを傷つけたことには変わりない。

 それは、ひとつのけじめとしても謝るべきだ。


『――それにしても』


 ぽつりと言葉をこぼし、シシィは視線を落とした。

 膝を立て、そこに額をつけて顔を埋める。

 ティアへと想いを馳せて思い起こされるのは、先程まで触れていた彼女の感触。

 “そーいう”意図がなかったとはいえ、柔い彼女の感触を思い出すと、自然と顔が緩む気がするのはどうしてか。

 ちらりと眠る彼女を盗み見る。

 そこに彼女が居る――在る。

 その事実が堪らなく嬉しかった。

 ティアを己の手で助けられた安堵が、その嬉しさに繋がっているのだと思う。

 もう、幼い頃のように、自分の無力を嘆くようなことはしたくない。

 今の自分は少なくとも、幼い頃に無力で泣いているだけだった、あの頃の自分とは違うはずだ。

 成長というものを実感し、緩んでいたシシィの顔も、自然と引き締まる。


『――僕は確かに成長してる。自信を持て、シシィ』


 顔を上げ、静かにぺしんと自身の頬を打った。




 それからしばらく。

 幹に寄りかかりながら、腕を組んで目を閉じていた。

 眠ってはいない。手負いのふたりが居るのに、見知らぬところで眠るわけにもいかない。

 刹那。空気が揺れた。


『――』


 ゆっくりと、閉じていたシシィの目が薄ら開く。

 時を同じくして、結界の外では気配が音もなく舞い降りた。

 夜闇に包まれた暗がり。白の色がぼんやりと浮かび上がる。

 ついとシシィの碧の瞳が動いた。

 組んでいた腕を解き、体勢を整える。

 ぴんっと緊張で張り詰めた空気が息苦しい。

 シシィは静かに息を吐き出し、片手を払うと、たぷん、と水の揺蕩う音が響き、眠るティアとジルを水の膜が包んだ。


『――おや、警戒されちまってるようだねぇ』


 くすりと忍び笑いを含んだ声に、ゆったりとした口調。

 その気配は和やかな雰囲気をまとうも、対面するシシィは冷や汗が噴き出しそうだった。

 圧迫されそうな存在感。それだけで、シシィの肌はぴりぴりと痺れる錯覚を覚える。


 ――敵わない。


 たったこれだけで、力量差ははっきりとしていた。

 じりと無意識に半歩引いてしまっているのも、それのせいか。


『そんなに警戒しないでおくれよ? 危害を加えようだなんて、これっぽっちも思ってないんだからねぇ』


『……そーなんだ。でも、僕をこっちに引きずったのは、あなたの力、ですよね――?』


 シシィの顔が引きつる。

 ティア達を背に庇うようにさり気なく移動する。

 けれども、対面する彼女には気付かれているだろう。


『おや、わかるのかい? これは驚いたねぇ。離れていたから、誤魔化せたと思っていたのに』


『……案外、波長は誤魔化せないものですよ。この周囲の空気に紛れ混ませるには、あなたの力は澄みすぎている』


『褒められるのは嬉しいねぇ。……さすがは、感知に関して優秀と謂われる、渡しの精霊殿の子といったところか』


 瞬。碧の瞳が険しく細められ、警戒の色が濃くなる。


『……どーして、父を? 恐れながら、あなたは交流を絶ったとされる老狼殿とお見受けする』


 冷や汗が頬を伝う。

 痛いほどに張り詰める空気の中、気配が動いた。

 一歩、また一歩と、ゆったりした歩調で進み、やがて天窓から差し込む月明かりに照らされる。

 それは思わず息を呑む程の洗練された“白”を持つ狼だった。

 月明かりを弾いて白銀に見せるその白は、シシィはもとより、スイレンよりも、まして王であるヴィヴィよりも洗練された純白。

 いったいどれほどの時を重ね続ければ、これほどの“白”を持てるのだろうか。

 惚けたように凝視するシシィを、老狼は可笑しそうにくすくすと笑う。


『おばば自慢のこの“白”に見惚れる精霊を見るのも、随分と久方だねぇ。この“白”の違いがわかるのも、同じ“白”じゃあないとねぇ』


 姿を現してから閉じられたままだった老狼のまぶたが、ゆっくりと持ち上げられる。

 覗くは蒼の瞳。

 その瞳に見据えられ、氷塊がシシィの背に滑った気がした。

 本能が警鐘を鳴らす。それは、けたたましく。

 奥底を暴かれるような、全てを見透かされるような。

 土足でシシィの奥底を暴こうとする無遠慮な視線に、彼は縫い付けられたかのようにその場を動けなくなった。

 老狼の威圧により、指先ひとつ動かせない。


『――そう抵抗しないで大丈夫さね。ちょおっとばかし、おばばに名前を教えておくれ?』


 真名を暴こうというのか。

 ここで縛られてみろ。自分がここに来た意味がなくなるではないか。

 自分の役目はここで――。


『――……それはちょっと、困る、かな』


 口の端を少しだけ持ち上げ、シシィは薄ら笑う。

 口の中で何事かを呟いた、刹那。


『――ばななっ!』


 水の膜が弾ける音と共に、シシィの背後から声が上がり、老狼が驚いたように蒼の瞳を見開く。

 次いで間を空けることなく天窓に突風が叩きつけられ、割れた音を響かせながら風が舞い込んだ。

 それはシシィらを取り巻き、割れた硝子は、きらきらと月明かりを弾きながら降り落ちる。

 渦巻く風を従え、ゆらりと立ち上がったのは。


『縛りで勝手に眠らせた上に、また縛りで勝手に起こすのもどうかと思う』


 不機嫌な色を琥珀色の瞳に浮かべるティアだった。


『それはまたあとで謝るよ。ありがと、ちあ。助かった』


 苦笑しながらシシィが振り返る。


『ちあ、状況は――』


『把握してるわ。おおよそのことはばななから』


 威圧から動けなかったのが、老狼の気をティアが逸らしてくれたおかげで、シシィを縛っていたそれが緩む。

 それを見逃さず負けるなと己を叱咤して立ち上がると、シシィは老狼と距離を取って、ティアの横へ立ち並んだ――ジルを背に隠して。


『……じゃあ、僕らの役目も』


 シシィの碧の瞳が、ちらりとティアを伺う。


『――それもわかってる。些かこの状況とか何やらが腹立たしいけど、私の身がここに在る経緯も、何もないのもなんとなくは察してる』


 これはシルフらへの――布石だ。

 フウガではなく、シルフへの。だってそれは――。


『私達は――駒だから』


 ささやくティアに、シシィが静かに首肯する。

 わかっているのならばいい。

 それは確かなことだろうから。

 その証拠なのだろうか、ティアの周りで渦巻いていた風は顕現し、真白の小鳥が彼女の肩口に留まる。

 この場で初めて姿を見せたばななに、老狼が軽く目を丸くした。


『おやまあ。こんな自然も寄り付かない地に自然霊まで居るとは――ますます、おばばの望み通りになるよ。……となれば、ちぃとやり方を変えようか』


 朗らかに笑う老狼に、ティアもまた警戒の色を強める。

 ちらりと横目でシシィを見やると、その視線に気付いた彼も彼女を見やった。


『あのおばあちゃん、誰……?』


『……交流を絶ったとされる、老狼殿』


 声を潜め、認識を共していく。


『でも、それにしては、僕のことを知っている風だった』


『――ああ、そういえば』


 二者の会話に老狼の声が割り込む。

 鋭い視線が向いたにも関わらず、彼女は相変わらず朗らかに笑っていた。


『そこの坊やの問いに答えてはいなかったねぇ』


 開いていた蒼の瞳は、すでにまぶたの裏に隠されていた。


『あたしは皆からおばばと呼ばれている老いぼれさ。もう名は忘れっちまってねぇ、おばばで構わないよ』


 ふふと楽しげに笑い、老狼は洗練された動きで突として頭を下げた。


『精霊王のお子殿、風の愛し子殿』


 突然の老狼の動作にシシィとティアは怯む。しかし。


『ここはしばらく、この老いぼれのためと思って、大人しくしていてはもらえないかねぇ』


 老狼が顔を上げた際、薄ら開かれた蒼の瞳に射すくめられる。

 シシィとティアを襲うのは、自身を――意識を圧迫するほどの圧。

 一睨みでここまで圧するのは、それだけ時を重ねているという事実であり、それは大精霊以上なのかもしれない。

 息を詰まらせ、己では処理仕切れぬほどのそれに、苦しいと思う間もなく彼らは意識を失っていた。

 重なり合うように倒れ込む彼らを、老狼は満足げに見下ろす。

 そして、彼女は旋回する小鳥をついと見やって。


『さあ、お行き』


 ささやいた。

 それはまるで、懇願するような響きをはらみ、老狼の言を受けてか、そうではないのか。

 再び風に溶けたばななは、自らが割った天窓から出ていく。

 その風の軌跡を目で追いながら。


『――道筋はつくられた、かねぇ』


 ぽつりと呟いた。

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