触れる冷たさに灯る熱


 ――唇を重ね、ティアへと気を流す。


 シシィはそれに集中するため、碧の瞳を切に揺らすとそっと目を閉じた。

 彼女の存在を唇越しに感じ、その奥をさらに意識し気をる。

 双方から気をった方が扱いやすいのではと思いたち、シシィの手はティアの服をまさぐった。

 彼女の服の中へ手を差し入れ、傷口上へと手を這わせると、そこからも気を流し込んでいく。

 オドとマナは同じ魔力でも、互いに反するもの。

 そこを利用し、上手く気をることが出来れば、相殺することも出来る。

 シシィがその気のりに集中すればするほど、触れる唇のそれが深まっていく。

 ティアの頬に添えていた指は頬を滑り顎に添えられ、よりやりやすいようにと角度を変える。




   *




 熱にうなされ火照った身体に、熱冷ましにと、水で濡らした布をあてがわれたみたいな――そんな心地。

 ひんやりした冷たさは心地よく、怪我の奥――入り込んだオドが抜けていくのがわかった。

 意識を浮上させられるだけの余力ができ、ティアのまぶたが震えた。




   *




 ティアはまぶたが震わせ、薄ら目を開けた。

 ぼやける視界に、未だ鮮明とはいえぬ思考。

 意識を浮上させられるだけの余力はできたが、それもまだ完全とはいえない。

 しかし、己の置かれている状況を解するには十分だ――とティアは思ったが。


『……――っ??!』


 己の唇に触れるそれ。

 ティアのまぶたが一気に持ち上がる。

 見開かれた琥珀色の瞳に映るのは、どこか必死な顔のシシィ。

 彼は目を閉じたままで、ティアの様子に気付いた気配はない。

 しかし、そんなものは今のティアには粗末に過ぎず、思考の大半はその近さの事実に圧迫されていた。

 慌ててシシィの身体を叩くティアは、既に処理し切れぬ状況に目を回していた。

 シシィの身体を叩けば、びくっと彼の身体が大きく跳ねる。

 次いで、持ち上げられたまぶたから碧の瞳が覗き、その瞳がティアの顔を認めた途端、切な色を滲ませて揺れた。

 ゆっくりと互いの顔が離れ、ティアは解放された安堵から、大きく息を吸って気持ちを落ち着ける。


『――って、ちょっと待って』


 同時に自身の服の中に入っているシシィの手の存在にも気付き、慌ててその手を掴んで引き抜き顔を上げた。

 羞恥が一気にティアの中を駆け抜ける。

 一体どういうつもりなのか。

 そう問い質そうと思った――のに、彼の浮かべる表情に、言葉が全て飛んでいってしまった。

 揺れる碧の瞳に、今にも泣きそうなシシィの顔。

 いくらか冷静になってきた思考が、己が置かれていた状況を思い出させる。

 そして、自身の唇と腹に残る力の残滓を感じ取り、シシィが必死に癒やしの気を与えていてくれたことを理解した。

 ティアは掴んでいた彼の手を離すと、彼の頬へと手を伸ばす。

 先程と変わって、羞恥が穏やかなものに色合いを変えていく。

 彼の目尻を指の腹で拭いながら、涙で濡れる碧の瞳をひたと見つめた。


『……泣かないでよ』


『――……っ、泣いてないもんっ』


 シシィは口を引き結び、頬に触れるティアの手をそっと握る。

 その慎重な手付きに、心が震えた。

 そこに在るのを確かめるように、彼はティアの手に自身の頬を擦り寄せた。


『シシィ、心配かけてごめんさない』


『……全くだよ』


 湿っぽい彼の声に、ティアはきゅうと胸が締め付けられる心地を覚えた。

 すんと鼻を鳴らす様はどこか子供っぽいのに、切に痛く、なのに、その痛みすら愛おしく感じてしまって、あたたかな気持ちが胸に広がって――無性に泣きたくなった。


『……ありがとね』


 何とかして発した声は、涙をはらんで揺れていた。

 シシィの碧の瞳が一点にティアを見据えて、彼女もまた、逸らすことなく琥珀色の瞳を向ける。

 吐息が重なった。

 先に動いたのはどちらだったのか。それとも、どちらからともなくか。

 再び顔を寄せ、触れ合うだけの口付けを交わす。

 薄ら目を開けると淡く微笑み合い、今度は互いの存在を確かめ合うように、今度は深く口付ける。

 想いが重なった心地に、ティアの目尻から透明な雫が滑り落ちた。




 妙な雰囲気に、ジルは何をするでもなく、ただ空気に徹していた。

 固く目を閉ざし、いい子に口も一文字に引き伸ばし、さらにいい子に耳も塞いでいた。

 なのに背後からは、桃色を帯びたような甘い雰囲気をどうしても感ずる。感じてしまう。

 だからジルは、胸中で叫んで気を紛らわしていた。

 だがしかし、それも限度というものがあるのを、背後のふたりは存じているのだろうか。

 いよいよ妙な空気に耐えきれなくなったジルは、わざとらしく咳払いを響かせ、背後の気配を探った。

 一気に周囲の空気が張る。強張ったような空気感に、ジルは心底ほっとした。


「――……なあ、もう振り返っていーか?」


「うん、いいよ」


「――ちょ、待ってっ、まだっ」


 あっけらかんとした声はシシィで、慌てた声はティアだ。

 思ったよりも元気な声でティアからの返事があり、その点にもほっとする。

 何やらごそごそと衣擦れの音がしたのち、少し上ずった声でティアからも、もういいよ、という声が返ってきた。


「……なあ、妙な雰囲気は、その、こうもっと、お前らだけの時とか……にさ……」


 ごにょごにょと後半になるにつれて口ごもってしまうのは、やはり、ジル自身が“そーいうこと”に慣れていないから。

 たぶんきっと、感触は柔らかで、それでいて、たぶんきっと、ああで――。

 さらにその先も想像、否、妄想しかけて、ぶんぶんと慌てて頭を激しく振った。

 振りすぎて、少しだけくらくらとする。

 何となく振り返るのが恥ずかしく、なけなしの勇気を掻き集めて振り返ると、ティアに真っ先に謝られた。


「それはごめんっ、本当にごめんっ。雰囲気に流された……」


 俯き、両手で顔を覆ったティアは、耳まで熟れた果実のように色付いていた。


「……我に返ると、途端に恥ずかしくなるやつだ、これ」


「恥ずかしい……? 別に口付けてたのは、ちあへ癒やしの気を流すための手段だったし、その後のだって、僕とちあなんだから問題ないじゃん」


「そうだけど、そうじゃないっ!」


 両手で顔を覆ったままのティアと、不思議そうに首を傾げて彼女を見やるシシィ。

 両者のある意味な温度差と、そこに感ずる両者の精神的近さに気付き、ジルは堪らず顔を逸した。

 そして、ちらりとティアの様子を覗う。

 なんだよ。以前の自分に対する態度と随分違うじゃないか。

 あの時のティアは、気にする素振もあまりなかったのに。

 そしてなにより、釣られるようにして、頬へと熱が集まる自身が解せなかった。

 熱は伝染する、らしい。

 この熱をどう逃がそうかと思ったところに。


「あれ、ジルの顔赤い」


 異変に気付いたシシィが近寄ってきた。

 ジルの顔を覗き込み、シシィは眉根を寄せる。


「ジル、体調良くないなら早く言ってよ」


 叱咤するような響きの彼の声に、ジルは誰のせいでのぼせてるのかと悪態をつきたくなった。

 だが、顔を上げたところで、ふらりと軽いめまいのようなものを覚え、身体がふらつく。

 そんなジルの身体をシシィが抱き留めると、彼をそのままゆっくりと寝かせた。


「ジルだって、細かな怪我たくさん負ってる。それなのにこんな長時間魔力の濃いとこに居たら、いくら魔族でも消耗するのは当たり前だよ」


「そうよ。無理してこの結界の中に押し入って、それで怪我して……それにジル、あなたその前から怪我してなかった……?」


 いつの間にか瞬時に立ち直ったらしいティアも、シシィの隣で寝かされたジルを覗き込んでいた。


「自分のことに手一杯で、あなたのこと気にしてあげられてなかった。ごめんなさい」


 琥珀色の瞳が心配げに揺れる。

 その間にも、シシィがジルの身体を診ていく。


「……これはたぶん、その結界に押し入った時のだよね。それでこれは――」


 癒やしの気を流して治癒力を促すにしても、傷の状態を把握してからの方が気はりやすい。

 ゆえにシシィはジルの身体を診ていたのだが、服の袖口に隠れていた手首の痕に気付き、シシィの手が止まった。

 嫌な予感がしたシシィは、ジルへ一言断ってから、彼の足首も服裾を捲って確かめる。

 ひりとした擦れる痛みに、ジルが軽く顔をしかめた。

 ティアもまた、不安げな顔でシシィの手元を見下ろす。


「――ねえ、ジル」


 抑揚のないシシィの声がジルへと問いかけた。


「この痕、縛られたものだよね――?」


「……まあ、そーだな」


「いろいろあって後回しにしちゃったんだけど、ひとつ訊くね。――ジルは、どうしてここに?」


 シシィとティア、双方の視線がジルに突き刺さる。

 足首と手首にひんやりとした心地がするのは、シシィが癒やしの気を流してくれているからか。

 隠すことでもないか、とジルは口を開く。


「……魔族として捕まったんだと思う。魔族狩りって言ってたのは聞こえた。オドを絞るんだと」


「オドを……?」


「他にも捕らえられた魔族も居た。そんでも俺は脱け出せて、予感がしてここに辿り着いたら、ティアをみつけた」


 淡々とジルが紡ぐ言に、そのままシシィらには沈黙が落ちた。


「……ティア、俺の方こそごめんな。忠告してくれてたのに、結局こうなっちまった」


 申し訳無さげに苦笑を浮かべるジルに、ティアは琥珀色の瞳が揺れ動く。


「……だから、一人にならないでって言ったのに」


「……ああ、ごめん」


「でも、ジルがここに居てくれて良かった。また会えたんだもの、それでいいわ」


 揺れる声音に、ジルもここに居られて良かったと思えた。

 そして、ふいに思い出す。

 捕らわれた直後、魔族狩りの他にも、精霊狩り、という言葉を耳にしていたことを。

 めまいはだいぶ落ち着き、身体の痛みも和らいでいる。

 既に大半はシシィが癒やしてくれたらしい。

 起き上がるには十分だ。

 そう思い、よっこいせと身体を起こそうとしたジルに、シシィが待ったをかけた。


「待った、ジル」


「んだよ、シシィ」


 肩を押され、またもや寝かされたジルが不満げにシシィを見やる。


「なんだよ、じゃない。まだめまいは治まってないでしょ」


「……いやまあ、確かにまだちょっと、ぐわんって回っちゃいるけどさ」


「だったら、まだ大人しくしてること。ジルの傷は深くなかったから、僕の癒やしでもなんとか治癒出来そうだけど、治癒力を促すってことは、その分だけ身体に負担を与えてるってこと」


 真剣な眼差しのシシィに口を挟む度胸はなく、ジルは黙って彼の言葉を聞くしかなかった。


「だから、まだめまいがしてるわけ。君の怪我は深くはなかったけど、細かなものが多すぎた。今は大人しく寝るのが、君にとっての薬だよ。……僕の力だって、万能じゃないんだから」


「それに今は夜だもの。眠るには丁度いいじゃない。――ほら、空にだって星が……」


 シシィの援護に出たティアが天を仰ぐ。

 ジルも視線を投げれば、天窓から瞬く星が見えた。

 けれども、何となく霞んで見えるのはどうしてか。


「……か、霞んで見えるけどね」


 あははと誤魔化すような、乾いた笑いがティアの声からもれた。


「ああ、それはたぶん。この地域は土地が乾燥していて、それで空気中に砂埃とかが舞っているからじゃないのかな」


「え、ここってそんな土地だったの?」


 ティアが琥珀色の瞳を丸くしてシシィを見やる。


「うん。僕は陸伝いにここに来たからね。どこも乾いた土地が続いてる」


「そう、なんだ。でもそれなら、この異様な箱庭もなんか納得出来るわ」


 ティアは、この牢の中央部に鎮座する大きな紅魔結晶へ視線を向ける。


「……ここは何かの目的があって、意図して造られものとしか思えないもの」


 険しい目付きで睨むティアの横顔を、ジルは不思議そうに見つめる。

 シシィはなにやら考え込むように顔を険しくさせた。


「てか。お前らこそどーしてここに? 俺を捕まえた奴らが言ってたけど、精霊狩りってやつに巻き込まれたのか?」


 ジルの残りの傷を癒やしていたシシィの手がぴくりと反応し、ゆっくりと顔を上げた彼はジルを見やる。


「――精霊狩り……?」


「ああ。確かに奴らはそう言ってた。だから、ここにお前らも居るかもって思ったのもある」


 そこで一息ついたのち、ジルは意を決してシシィらに訴えた。


「それと俺、なんか巻き込まれてんし、首突っ込むことにしたから。俺が魔族だからって蚊帳の外はなしな」


 息巻くジルに瞳を瞬かせたシシィは苦笑を浮かべた。

 彼は癒やしを終えた手を戻すと、ぽつりと言葉をこぼした。


「やっぱり、元凶はここなのかもしれないね」


 何か確信めいた顔をするシシィを、ティアとジルは一瞬だけ互いの顔を見やって、そして、彼へと視線を投じた。

 詳しく話せと彼女らの瞳が語っている。


「つまりは、この大きな紅魔水晶を用いて、海街での現象を大掛かりにしようとしてるのかもってこと」


 首を傾げるジルに対して、それだけでティアには合点がいってしまった。

 そして同時に、微かに身体が震える。

 痩せた土地。精霊もいなく、溜まったマナを流す存在もいない。

 それを、紅魔結晶で精霊を集め、さらに大きな物――魔水晶を作り出して、それを維持しようというのか。

 規模が大き過ぎて――自分たちの手には負えない。


「正直言うと、僕らの手には負えない規模ってこと」


「……え?」


 同じことを考えていたティアは顔を上げる。

 シシィはそんなティアへ、にこりと笑みを浮かべた。


「てことで、今考えても仕方ないよ。今夜はもう遅いだろうから寝よう。ジルは寝るのが薬だって、さっき言ったばっかりだよね」


「…………そーだけど」


 急に話の方向を変えられたことに対し、不満げ表情を浮かべるジルを眺めて、ティアはそうかと納得する。

 まずは、シシィとティアだけの話だ。

 巻き込め、とジルは先程言外に訴えていたが、そうそう簡単に巻き込めるはずもない。

 ティアたちの推測が事実ならば、精霊の事情に既に巻き込んでしまっているのだ。出来るなら遠ざけたい。

 別段、ジルを突き放す意図はない。

 彼が大切だからそうするのだ。

 言い訳をすれば、まだ推測の域の事柄だし、なにより今は彼を休ませたい、と思うのはティアも同じだった。

 だから彼女も、シシィを援護するつもりで、そうよ、と口を開いたのだが。


「それはちあもだよ」


「へ……?」


 思わぬ言葉に、随分と間の抜けた声がもれた。


「ちあからオドは抜いたけど、それだけ。傷まで治そうとすると、ちあの身体に負担がかかりすぎそうだったから。ただでさえ消耗してるのに、これ以上の負担はよくない」


 だから、今はもう休もう。

 そう諭すシシィにティアは、でも、とどこか不服そうに呟きを落とす。


「……今の流れって、私と話をするような流れだったじゃん」


 話の行方が掴みきれていないジルは、二者間で視線を彷徨わせる。

 当のシシィは、静かに首を横に振った。


「言ったでしょ、僕らの手には負えないって。それに、僕らの役割はこの問題を片付けることじゃないよ。目的を履き違えたらだめ。――さあ、怪我人……じゃなくて、怪我精霊と怪我魔族は寝ようね」


 それでもティアは、横にならせようとするシシィに抵抗を見せる。


「それはわかってるけど、でもっ、それで考える必要がないっていうのは、違うでしょ?」


「――……もう、しょうがないなあ」


 さすがのシシィもそんな彼女に辟易したのか、はあと浅めの嘆息をひとつ落としてから。


『《ルイティア》、寝なさい』


『あ、ちょ、……真名で、しば、る……のは……ずる、い……』


 ジルには何を言っているのかはわからなかったが、ティアの瞳が次第にとろんとし始め、やがて耐えきれなくなったのか、すとんと彼女のまぶたが落ちた。

 シシィの方へ倒れ込んだ彼女から、穏やかな寝息がしたのはそれから間もなくだった。


『……まったく、どれだけ消耗してるのか自覚がないんだから』


 シシィは呆れたように息をつき、そっとティアを横たえる。

 彼の碧の瞳が心配げに揺れ、指がティアの頬を撫でると、彼は身を屈め――彼女の唇へ自分のそれを重ねた。


『うん。もうだいぶ、ちあの状態も落ち着いてる』


 唇を重ねることで、相手の状態を確認したのだろうか。

 ともかく、己の唇を舐めるシシィが妙に艶っぽく見え、知らずジルの頬が朱に染まる。

 今度はばっちりと見てしまった他人の、しかも親しい奴らの“そーいうこと”を見てしまって、慌てて彼は寝返りを打って背を向けた。

 どきどきと胸が鳴るのはどうしてだ。

 前にシオからそれに近いことをされた際には、それほど慌てることもなく落ち着いていたはずなのに。

 所詮あれは戯れのそれに過ぎなかったのか。

 本物の“そーいうこと”の感触は――。

 声にならぬ声で叫びそうになり、ジルは固く目をつむった。

 もう寝る。寝るしかない。

 くすりと苦笑する気配が背後からするも、ジルは構うことなく目をつむった。

 ただ、ひとつだけ解せないことがあった。

 どうしてシシィとティアの間に、自分が挟まる形になっているのか。

 落ち着かぬ川の字に、果たして眠れるのだろうかと、ジルは不安を抱くのだった。

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