それは誰かの望み通りに
夜の静けさに満ちる室内。
聞こえるのは隣室――寝の間で眠るニニの寝息と、己の息づかいだけ。
静寂が満ちる中、微かな気配の動きを感じ、身を丸めていた白狼――シシィの耳が立ち上がる。
エルザはとうに隣の棟の自室に下がった。
気配は部屋の外からであり、廊下を行き交う複数の気配があった。
警備の私兵か使用人だろう。
こんな夜更けにも関わらず仕事とは、大変そうだなと他人事に思った。
シシィは顔を上げると、ふわあと眠たげなあくびをひとつもらす。
不慣れな場所で惰眠をむさぼれる程、神経は図太くはない。
『……そろそろ、かな』
耳を四方に動かし音を探る。
夜更けだ。この棟には最低限の人数しか動いていない様子。
日が昇り、人々が起き出す前に動き出したい。
のっそりと立ち上がり、寝の間の手前まで行く。
続き間になっているために、寝の間に扉はない。だが、目隠しの意味合いでレースカーテンがかけられている。
薄い布地といえど透けにくい素材らしく、シシィが様子を覗うために寝の間を覗くも、ニニの姿は見えなかった。
けれども、穏やかな寝息が聞こえた。
ぐっすりと眠っているらしい。
『……ごめんね』
申し訳なさそうに呟き、シシィは寝の間を後にする。
自分の身を案じ、それゆえに結びを請うた彼女の懸命な姿を思い出し、知らずシシィの尾は垂れる。
案じてくれたことは、素直に嬉しかった。
だが、結びは既に決めた相手がシシィには在る。
だから、結ぶわけにはいかないし、なにより――。
『――ニニは何かを感じ取ってるんだ。彼女は敏いから』
それだけで、やはりこの屋敷に何か在るのは確かなのだと思える。
フウガらの駒として、ここへ向かうようにと仕向けられたような気がしないでもないが、それならばそれで、範疇の中でシシィは自分が思うままに動くだけだ。
『……でもまずは、この部屋をどう出るか、だけど』
すとんと扉前に座り込む。
扉を開けることは人の姿に転じれば可能だ。
だが、最低限の人数しか起きていないとはいえ、警備の目は至るところにあるだろう。
その中でひとりでに扉が開いてしまえば、騒ぎになるだろうことは容易に想像が出来る。
悩むこと数呼吸の間。
諦めたような深い嘆息がシシィからもれた。
『………………転移術、使おうか』
不得手ゆえに使いたくはないが、仕方あるまい。
練習しても一向に上達の気配はないが、不得手と胸を張れるくらいには上達した。
日中は小川に落ちた。
他にもこの領へ向かう道中で、木に引っ掛かったり、崖から滑り落ちそうになったり、泥にはまったり、馬車に撥ねられたりもしたが、まあ、何とかなるだろう。
『――――――よしっ』
たっぷりの間を用いて気合を入れたシシィは、転移術を発動させた。
次の瞬間には、部屋からは無事に脱することは出来た。
静寂の満ちる部屋。
聞こえるのは寝の間で眠るニニの寝息だけ。
そんな部屋に、白の体毛を優雅に揺らして降り立つ気配があった。
降り立った老狼は、常に閉ざされたままの瞳で室内を見回し、残念そうに目尻を下げる。
『おや、ニニが招き入れた精霊殿とは、どうやら入れ違いになってしまったようだねぇ』
ゆったりとした口調で、彼女は朗らかに笑った。
『それにこれは――』
室内に残る気配の残り香のようなものを、老狼はくんと鼻を鳴らして嗅ぎ取る。
そして、ぴくと老狼は耳を立ち上げ、まぶたを震わせた。
『……やっぱり、精霊王の血を引いた精霊殿のようだ』
そして、にたり――先程とは変わった笑みを浮かべた。
『……こりゃ、あたしの望み通りな展開だねぇ。どれ、ちょいとおばばが道をつくってあげようか』
水の清浄な気が老狼から漏れ出ると、室内はひんやりとした冷たい空気に包まれる。
隣の寝の間では、肌寒さにニニが無意識下で掛布にくるまった。
老狼から漏れ出た気は刹那に煌めくと、たちまち散りゆく。
そして、老狼は満足な笑みを浮かべたのだった。
◇ ◆ ◇
気が付けば、シシィは屋敷の屋根上に居た。
砂などを含んだ埃っぽい夜風がそんな彼を出迎える。
湿気などない乾いた大地が広がる土地柄、風が塵を含むのは仕方ない。
だが、最初にこの地へ着いた時と比べ、いくらか風が強く吹くようになった気がする。
自身の体毛に絡む微細な塵に、身を震わせることで落とすと、嘆息をひとつ落とした。
『……まあ、わかってたけどさ。なんで外に出ちゃうかなあ』
ここからもう一度屋敷内に忍び込んで、ティアを探せねばならないのか。
振り出しに戻ったような気がして、さすがのシシィも気分が沈んだ。
耳はしょんぼりし、尾もだらりと垂れ下がる。
『……ルゥを印にして転移が出来れば外すこともないんだけど、ルゥの位置が把握出来ないんだもん』
まるで何かに遮られているような。
彼女の存在は確かに認識は出来ている。
だが、それを何処に居るのか把握が出来ない。
その事実に気付いてから、シシィは不安を駆り立てられ、早く早くと気ばかりが急く。
『ああ、もうっ。ここでうだうだしてても何も解決しないんだからっ』
かぶりを振って、その気持ちを追い払う。
まずは屋根から降りよう。そう思い、足を踏み出した時だった。
『――っ!』
シシィの意志に反して転移術が働く。
戸惑いでシシィの碧の瞳が揺れ動くも、それは瞬時に警戒の色に塗り替わる。
『……違う、これ。誰かに引っ張られてる――っ』
抗おうと身を捩ったり、力を行使したりもしたが、シシィの宿す力よりも、さらに大きな力によって捩じ伏せられてしまう。
『――うわっ』
抵抗虚しく、シシィはその大きな力によって呑み込まれていった。
◇ ◆ ◇
誰かの力に引きづられたものだからか、どこかに引っかかることも、落ちることもなく、シシィは普通に降り立った。
下草を踏む感触に、敷地の外へ出てしまったのかと辺りを見回す。
夜気に包まれて日が落ちたからか、少しだけ湿気ばんだ空気。
木々が静かに夜に眠っているのか、静かだった。
だが、異質なのは肌にぴりつく感覚。
これは、この辺りの魔力が濃いことを示す。
その濃い魔力のせいで惑わされやすく、この辺りの気配が把握しにくい。
一体ここはどこなのか。
意志と関係なく発動した転移術。
あれは引きづられたというよりも、引き寄せらた、案内された、という表現の方が近い気がした。
それならば、一体誰が――。
そう思考を巡らそうとしたところに、風の動きを感じてシシィは顔を上げた。
何となくその行き先へ視線を投じる。
その先でシシィは居るはずのない姿を見つけ、碧の瞳を軽く見開いた。
「――ジルっ!」
銀灰色の髪の少年へと駆け寄る。
その少年が、必死な形相でシシィを振り返る。
一瞬彼は紅の瞳を驚きで見開くも、次いで、今にも泣きそうな顔でシシィを見やった。
「ジル、どうし――」
「シシィっ、ティアが――っ!」
そこで初めて、シシィは幹に寄りかかるティアの存在に気付いた。
彼女は目を固く閉ざし、意識を失っているように見えた。
急速に腹底が冷える。
どっどっ、と鼓動が逸って煩い。
気配が魔力濃度のせいで把握しにくいとはいえ、こんな近くに居て気付かなかったとは。
否。理由はそれだけではない気がする。
瞬きひとつの間で青年の姿へと転じたシシィは、ティアの隣に膝を付くと、軽く彼女の頬を叩いた。
しかし、彼女からの反応はない。やはり意識を失っている。
それに、ティアに別の何かが絡み付いている気配がした。
そっと手を伸ばし、だらりと垂れ下がる彼女の手を取ると、シシィの碧の瞳に険が宿る。
「……なんでちあに、オドがこんな濃く絡んでるの」
不快げに眉を寄せた。
その隣で、ジルが何かを思い出したように呟く。
「……そーいえば、理由は知んねぇけど、ティアは怪我してんだ。そんで、傷自体はフウガが手当てしてたみてぇだけど、オドまで抜けきれねぇとか何とか言ってた」
俺にはよくわかねぇけど。
と、ジルは不安げにシシィを見上げる。
「ここ、魔力が濃いだろ。俺は魔族だから耐えれんけど、精霊にとってはそーでもないんだろ? だから、ティアが自分を保てればって、話をずっとしてたんだけど、それでも段々こいつの反応が鈍ってきて……それで――」
情けなさに震えるジルの肩に、シシィが手を置いた。
ジルが顔を上げる。シシィは仄かな笑みを浮かべてひとつ頷いて見せる。
「一生懸命ちあを支えてくれてありがとう。大丈夫、ジルが繋いでくれてたから間に合うよ――間に合わせる」
最後の一言を力強く、さながら己に言い聞かせるように告ぐ。
碧の瞳がティアを視ると、迷うことなくシシィは彼女の服裾を掴んだ。
彼が何をしようとしているのかを瞬時に察したジルは、慌てて彼らから距離を少し取り、背を向ける。
それを横目でとらえながら、ティアの服を少しばかりたくしあげると、包帯の巻かれた腹部が現れる。
そこにそっと手をかざすと、シシィの手からは癒やしの気が降り落ち、怪我の具合を探り始める。
「……傷そのものは治り始めてる。でも、治り具合が遅い……」
ぶつぶつと呟きながら慎重に診ていく。
そうしている間も、シシィの眼はしかとティアそのものを視る。
彼女の存在自体が揺らいでいるのも、また彼の眼には映っていた。
それでもシシィは取り乱すことなく、冷静に判断をくだしていく。
「オドの絡まりが深くまでいってる――外部からじゃ、上手く気を操れない」
彼女の傷に奥深くまでオドが絡み付いていた。
この絡み付いたオドが原因で、彼女自身の存在は揺らぎ、意識を失うまでに陥っているのだろう。
逆にいえば、このオドの絡み付きを解くことが出来れば、上位精霊で“白”を持つ彼女は、この程度の魔力濃度は耐えられるはずなのだ。
だが、外部からでは限界がある。
オドが深くまで絡み過ぎている。
このままでは、“ティア”という存在が――。
「……どうすればいいの。ちあに会ったら、謝るって決めたのに」
これじゃ、ごめんねが彼女に届かない。
悔しげにシシィの碧の瞳が歪む。
ぐっと無意識に握った手の平が震えた。
どうしよう――ぎゅっと目をつむった時。
「――なあ、状況がわかってねぇけど、外がダメなら内からはダメなのか?」
シシィがはっとしてジルの背を見やる。
「……内」
「おう。押してダメなら引いてみろって言うじゃん」
しばし考え込むように、シシィの瞳が伏せられる。
口の中でもごもごと呟いたのち、碧の瞳が希に閃く。
「ジルっ、ありがと! それでやってみるっ!」
「ん、あー、よくわかってねぇけど、役に立てたんならよかった、んかな」
ジルの背に叫んでから、シシィはティアと改めて向き合う。
忙しない鼓動を落ち着けるため、呼吸を意識する。
外が駄目ならば、内から。内から気を送るなどやったことがない。
緊張からか汗が頬を伝った気がした。
落ち着け――と自分へ唱えてから、シシィはティアの頬へ遠慮がちに手を伸ばす。
ひとつ、思い付いた方法がある。
けれどもこれは、以前彼女に突き飛ばされたそれでもある。
自然と苦笑がもれた。もしかしたら、また突き飛ばすために彼女が目を覚ますかもしれない。
それでもいい。彼女が琥珀色の瞳に自身を映してくれるのならば。
彼女の頬へ自身の手を添え、指の腹でその頬を撫でてから、彼はゆっくりと顔を寄せ――唇を重ね合わせた。
その感触は少しだけ強張っていて、それは暫く熱が通っていないからなのか。
柔くするように、少しばかり彼女の唇をほぐしながら、彼の気が彼女へ流れ込み始める。
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