首を突っ込むことにしたねずみ(2)
牢の格子と格子の間。
そこに銀灰色の手の平大のねずみが一匹、縦に挟まってもがいていた。
身体を出来るだけ潰し、器用に反転させて縦から横に体勢を変えると、そこから抜け出ようと小さな前足で床を掻く。
「……ねずみの身体の軟さ、舐めんなよ」
ねずみの力では床に傷をつけることは敵わない。
だが、彼は必死に前足で床を掻きもがく。
どこからか呆れたような嘆息がもれたが、ねずみは構うことなく必死にもがく。とにかくもがく。
「……ねえ、君。おつむがあれなのかい?」
「っるせぇ! 黙って見てろっ!」
「――と言われてもね。僕には愛くるしいねずみちゃんが、憐れにも格子に挟まってるようにしか見えないよ」
もう一度呆れの嘆息。
しかも、先程よりも深い嘆息だった。
「……う、うるせぇなっ。ちょっと思ったより、あいつらとの生活で肥えてただけだ……」
「肥えられるだけの生活なんて、野良暮らしだった僕と比べても、なんて羨ましい生活なんだろうね」
「なんか皮肉聞こえんぞっ!」
「……ねずみなのにきゃんきゃんと煩い」
「ぽそっと言ったって聞こえてんだかんなっ!」
「おっと、それは失礼を」
その間もねずみのジルは必死にもがいている。否、もはや足掻いている。
彼が思っていたよりも、腹のお肉は肥えていたらしい。
予定ではするりと抜けられるはずだったのだ。
「……ねずみはな、意外と潰れて薄くなるんだからな」
気合いを入れ直したジルは改めて足掻き直し、ようやくずるりと格子から抜けることに成功した。
とととと、ねずみの鼓動が走っている。
ジルはどうだと見返す気持ちで振り返り、息をつきながらクッションを見上げた。
「へっ、抜けれただろ」
「そうだね。頑張ったんじゃないか、ねずみちゃん」
ジルを見下ろすクッションの目は、どこか小馬鹿にしていたのだった。
*
その後ジルは、クッションの助言を受けながら、もう使われてはいないだろう錆の目立つ配管から部屋を出た。
その際、気をつけたまえよ、と偉そうな口調で、クッションなりの応援を背に受けた。
言われなくとも、と内心で意気込みながら配管を伝う。
配管を伝っていけば、そうそう見つかることもないはずだ。
やがて廊下に出る。壁上に這わされた配管をそのまま伝い進んでいく。
宛があるわけではない。だが、ジルはねずみの本能のままに、迷いなく歩を進める。
危機察知には敏い方だと思う。だから、本能が逃げろと警鐘を鳴らす方向へ進んでいけばいい。
それは勘だが、不思議と間違っている気もしない。
本能は逃げろと告げるのに、ジルは揚々と廊下を静かに進んでいく。
◇ ◆ ◇
地下牢。鳥籠を模した大きな不可視の牢。
牢内は天窓から射す陽射しで光は溢れ、緑は茂り、湿気も程良い。
緑が育つということは、どこかに水源もあるということだろう。
まさに箱庭。痩せた大地にとっては理想郷。
牢の中央部に鎮座する大きな紅魔結晶。
それがこの箱庭の要だ。
オドの気配が濃いそれは、透き通る程に純度の高い紅の色。
光の粒が牢内を漂う。下位精霊の彼らは、己がどうしてここに居るのか。そして、己が誰なのか――もはや、わからない。
それは彼女も同じだった。
『――……違、うわ。わた、し、は……ティア、よ――』
先程から、そればかりを繰り返す少女の姿。
彼女はぎりぎりのところで踏み留まる。
けれども、それもいつまで保つのか。
それは彼女自身が一番よくわかっていた。
◇ ◆ ◇
ジルは本能が警鐘を鳴らすままに、そこへとたどり着いた。
途中、何度か小さな隙間を掻い潜りながら、警備だろう騎士服を着た人をやり過ごしたりもした。
「――んだよ、ここ」
伝って来た配管を滑り下りると、ジルはただ、呆然とそれを見上げた。
ジルの小さな身体が震える。
鳴り響く本能の警鐘は、ここに来てから、より大きく鳴り響く。
震える要因はわかっている。
そびえるように中央部に鎮座する、紅い結晶のようなものだ。
見上げているだけで身体が震える。これはもしや、悪寒というものなのか。
離れているここからでもはっきりと視認出来るそれは、その事実だけで大きさぶりが伝わる。
大きすぎて、やはり呆然とするしかなかった。
そして、拍車をかけるように奇妙なのが、目の前に広がるその光景だった。
光は溢れ、緑は生い茂る。
「――土まであんじゃねぇか」
下草は茂り、木々まで生き生きと葉を揺らしている。
そこまで見て、ジルは違和を抱いた。
どうして屋内に風の動きがあるのか。
それほど力強い風の動きがあるわけではない。だが、風の動きがあるのは確かだった。
その動きはひとつの方向に流れており、気になって風を追おうとした時。
「……結界が張られてる?」
焼けるような痛みと共に、ばちと弾かれた。
反動だろうか。身体の軽いねずみゆえ、勢いを殺せず後方へ数度転がるはめになった。
鋭い音を響かせてジルを弾いた結界はたわみ、一瞬その形を視覚化させる。
「……鳥籠……?」
唖然とその形を見つめ、呆ける。
これはまるで、牢ではないか。不可視の牢だ。
そうしている間にも風がまたひとつ、結界をすり抜けて行く。
それを目で追いかけて。
「は――? ティア……?」
見知った姿を見つけ、瞠目する。
樹木にもたれて座り、ぼおと視線を落としたままの少女の姿。
「なんでお前、そっちにいんだよ……?」
結界の手前まで近寄り、彼女を呼ぶ。
「おいっ、ティアっ! ティアっ!!」
ジルの必死な叫びに、ティアがゆっくりと顔を上げた。
だが、彼女の琥珀色の瞳はジルを映さない。
光のない瞳を向けられ、ジルは怯む。
「――おまっ……俺がわかんねぇのか……?」
感情の読めない、凪いだ瞳。
反応がなく、ただ、彼女の周りで風が物悲しく鳴くだけだった。
「――ティアっ!」
焦れたように叫ぶ。
ジルが彼女の名を呼び始めて幾度目だろうか。既にもう、わからない。
その間光のない瞳がジルを見続けるだけであり、さすがの彼も心が折れかけた頃だった。
「――……じ、る……?」
ぽつり。彼女の唇が微かに動いた。
はっとジルは紅の瞳を見開く。
「そうだよ、俺だよ。ジルだっ!」
「……じ、る。じる、ジル――」
「俺がわかるか? ティア」
彼女は己に言い聞かせるように繰り返す。
「……てぃあ? ティ、ア……そうよ、わたしは――ティア」
ふるふるとかぶりを振り、彼女はジルを見やった。
その瞳に、光が宿る。
「ティア……?」
「ごめんね、ジル。それから、ありがとう」
ティアが力なく笑う。その動作だけで、ジルには彼女が辛そうに見えた。
「……そんなことはいいんだ。けど、どーしてお前がここに? 出られねぇのか?」
そっちはあまり良くない気がする。
急くような色を瞳に滲ませ、ジルはティアを見やる。
「…………出られ、ないかな。何となく、私が喚ばれた理由は……わかる気がするんだけど――」
ティアが一息入れる。
話すというだけで、ジルには彼女の息が上がって見えるのは気のせいか。
「――私は、風に喚ばれたのよ」
「風……?」
応えるように、ティアの周りを駆ける風が小さく鳴いた。
「そうそれで……たぶんだけど、おじさんには、いい感じに使われた気がする……」
鈍い動作で、ティアは後頭部を幹にあずける。
繰り返す呼吸は浅い。
「……おい、ティア」
「……風の、大精霊シルフのもとに、身を寄せるということは、そういうことで……別に、そこは始めから、わかってたわ……」
「――ティアっ」
「でも、わかってても……こういう状況に、置かれるっ……ていうのは、思ってもみない、ことじゃない……?」
「……ティア」
「……それは、ちょっと……腹立つわよね……。何とか、また、人の姿に……転ずる……ことは、出来た、けど……」
ティアがひとりでに話を続ける。
彼女の言葉の間にジルが声を挟むも、彼女は構わないようだった。
まるで、そうでもしていないと己を保てないようで。
ジルはただ、結界越しにそんな彼女を見ていることしか出来なく、歯痒さに小さな拳を握り込む。
だが、ふと思い付いた。
「……俺、一度は魔物に堕ちたんだよな」
ならば、もしかしたら、もしかして――。
「――イケんじゃね?」
ある種の期待に、ごくりと息を呑む。
弾かれることは承知の上で、ジルはもう一度結界に触れた。
ばちっと弾かれ、反動で身体の軽い彼は後方へ数度転がる。
だが、体勢をすぐに立て直すと、がばと結界を仰ぐ。
瞬的に可視化された結界は、たゆんで鳥籠の形をジルに晒す。
そして、彼は確信する。
「……鳥籠に形成された結界。やっぱり、見えなくても格子があるんだ」
ならば。あとは結界を織り成す陣の隙間を突けば――。
「――抜けられる」
にやり。ねずみには有り得ぬ顔で、ジルは悪い笑みを浮かべた。
ばちっ、鋭い音が響く。
弾かれた反動で、ジルは結界の内側へ転がる。
たわんで姿を見せた結界対し、ジルは振り返ってから、得意げな顔で鼻を鳴らしてやった。
「どーよ。ねずみ、舐めんなよ」
幾度か結界に弾かれたことが、小さな身体には少々きつかったらしく、少しばかり銀灰色の身体に赤が滲む。
だが、痛みを気にすることなく、ジルはティアの元へ駆け寄る。
制止する元気もなく、ただ大人しく見守ることしか出来なかったティアが、咎めるような瞳を向けていた。
「……無理、して」
「いいんだよ。始めから身体は、わりかしあちこちと痛かったんだ。今更一つや二つ増えたとこで」
肩をすくめる雰囲気を持ったジルに、ティアは申し訳なさそうに笑って。
「……ごめんね、私の、ために。……話し相手に、なってくれようと……したんでしょ……?」
「邪魔、だったか……?」
「ううん。……ありがと」
ふにゃりと笑った。
「ここまで来ちまったんだ。もう、堂々と首突っ込むことにしただけで、お前は気にしなくていい。――それより、何か話そうぜ」
話すことでティアの気が紛れるなら。
それで彼女が自身を保つことに繋がるなら。
それなら、ここで自分は自分の出来ることをするだけだ。
自分は一度、マナ溜まりによって魔物へと堕ちている。
そしてそれに耐え、魔族として昇華した身。
結界内がどれだけ魔力で濃く染まっていようと、それに対する耐性は持っているのだから。
精霊と魔族。違う種だとしても、同じ屋根の下で暮らしている。
だから、やはりと言うべきか。
ただ待つだけなんて、ジルには出来そうになかった。
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