大樹の種
程よく陽が差し、心地よく吹き抜ける風で木漏れ日が揺れる。
精霊の森。そう呼ばれる由来は、森の中を気持ち良さげにふよふよと浮き漂う光の粒か。
森の中では、こうして光の粒を見かける機会が昔よりも増えたように思う。
街中では姿を隠す精霊らも、森の中では気ままな姿を見せてくれるようになった。
それも、精霊の森がこうして、本来の姿を取り戻しつつあるおかげなのだろうか。
昔見た風景とを思い比べながら、柔く差し込む陽にパリスは手をかざした。
彼の首に
「パリスよ、皆に置いて行かれるゆえ」
人の姿へと転じ、初老に差し掛かる頃合の男がパリスを振り返った。
陽がヒョオの淡紅色の髪を透かす。
「――ん、すぐ行くよ」
その声に頷き、パリスは陽に透ける枝葉を見上げると、嬉しそうに顔を綻ばせて足を速めた。
風にさわざわと木々が揺れる中、じゃりと砂利道を踏みしめる一行の音が響く。
白の砂利が敷かれた砂利道は、真っ直ぐに森の祠へ続いている。
草が生い茂ることがないよう手入れは行き届いているので、誰の上にも乗っていないミントでも、視界を遮られる心配は無用で砂利道を闊歩出来る。
ふふんと機嫌の良いミントは、小さな足で大きく歩く。その後ろを微笑ましげな白狼のスイレンが続き、少し距離を開けてヒョオとパリスの姿が続く。
少し興奮気味に辺りを見回していたジャスミンは、気付けば最後尾になっており、彼女は慌ててその後を追いかける。
そして、この一行にシシィの姿はない。
*
銀狐の精霊が守役の森の祠を通り過ぎ、一行は森の奥深くにまで足を踏み入れていた。
祠の道までは砂利道が敷かれていたが、さすがに奥深くまでは敷かれていない。
祠には街で暮らす人々も祈りを捧げに訪れるため、騎士隊で定期的に整備を行っているが、街人が森の奥深くへ足を踏み入れることはないためだ。
だが、騎士隊は巡回に足を踏み入れる機会も多いため、ここまでの道のりも荒れていることはない。
しかし、それは背丈のある人だった場合で、背丈の低いミントにとっては険しい道だった。
自分の背より高い草に、文字通りに手足を取られながらもがき進む。
気付けば絡まっていたところをスイレンに助けられながら、ミントを含めた一行は大樹を目指す。
「ほええ……」
それは誰がもらした声か。
荘厳な空気に包まれた大樹が、ここまで歩き進んできた一行を迎える。
樹冠を広げた大樹は、ようこそと言わんばかりに、ざわざわとその身を揺らした。
吹き抜ける風が清浄な冷たさをはらんで心地よい。
「相変わらず大樹は圧巻だよなあ」
逆くの字に身体を反らして見上げるパリスの横では、ジャスミンが呆けた様子で、口を半開きのまま大樹を見上げていた。
「……私、こんな間近で初めて見た」
荘厳な空気に呑まれ、圧倒されている様子。
ちらりと、横目でその様子をうかがったパリスが苦笑を浮かべる。
「街で暮らしてる程度だと、ここまで来る機会もないしね」
「……小さかった頃ね、精霊の森には、わけあって遊びに来ることも多かったんだけど、こんな奥までは、嫌な気配とかして行けなかったんだ」
「嫌な気配……?」
パリスが訝しげな視線をジャスミンへ向ける。
彼女はその視線に気付きつつも、大樹から視線を外せなかった。
「今思えば、あれは魔物の気配だったんだと思う」
「――へえ、気配とかでわかっちゃうんだ」
興味深そうに頷きつつ、パリスももう一度大樹を見上げる。
ジャスミンは魔族との合の子だ。人よりもその感覚は敏感。
本能的に危険と判断していたのだろう。
そんな感覚が敏感な彼女が、今こうしてこの場に訪れ、荘厳な空気に呑まれて呆けている。
その事実が、パリスは何よりも嬉しかった。だって、これは。
「精霊の森が、かつてのような静かな森へと戻りつつある証拠よな」
ジャスミンとは反対側。パリスの隣に並んだヒョオが口を開いた。
「そうだな」
それに頷きつつ、パリスは揺れる木漏れ日に目を細めた。
◇ ◆ ◇
朝。
森の生き物らはまだ起き出さない頃。
夜に起きていた生き物らは眠りに着き始める頃。
そんな頃合い。
静かな朝の空気に包まれた森に、大樹がさわりと遠慮がちに震えた。
それからややして、ふんわと小さな気配が顕現する。
小さな耳を立て、辺りをきょろりと見回したあと、彼女は後ろを大きく振り仰いだ。
『もしかして、ミントを呼んだのは大樹さんなの?』
さわわと大樹が微かに身を揺らす。
けれども、大きな樹冠を掲げる大樹ゆえにさわわと微かに揺らしても、結局はざわわと森に響く。
呼応したように森の木々もさわざわとざわめいた。
ミントが耳を小さな前足で抑える。
朝の静かな森には、少しだけうるさかった。
突として、大樹が大きく身を震わせる。
ざわと森に葉擦れの音が響き渡ると、途端に森はしんっと朝の静けさを取り戻す。
風が吹き、からからと静かに落ち葉を鳴らした。
耳から前足を放したミントが、そんな大樹を見上げてきゃっきゃと笑う。
『大樹さん、すごいのっ! めっ! ってするの、上手なのっ!』
ぱちぱちと前足を叩いてはしゃぐミントに、大樹はふるりと震えた。
照れてしまったのだろうか。
ミントがこてんと首を傾げたところに、彼女の頭にごつんと重みのある小さなものが落ちてきた。
『あいっ』
妙な声がもれ、落ちてきた衝撃にミントはころりと転がる。
朝露に濡れた下草がミントの身体を湿らすも、彼女は構わずにむくりと起き上がり、うんしょと落ちてきたものを抱え上げた。
ぶつかった頭はじんじんと痛みの余韻をはらんでいるも、それに構ってはいられない。
それはミントが両の前足で抱える程に大きな楕円形の何かで、触れた途端に、彼女は本能でそれが何かを知った。
それは彼女が精霊だからか、あるいは土の精霊だったからか。
それは彼女自身にもわからなかったが、本能でわかった。
ミントは大樹を振り仰ぐ。
『これ、大樹さんの種さん……?』
肯定するように、大樹は一度大きく身を揺らした。
朝ということへの気遣いか。反応があったのはそれだけで、あとはしんと朝特有の静けさが横たわるだけ。
ミントはきゅっと大樹の種を抱き込んだ。
この種をどうするべきかは、なぜだが知っている気がした。
そんな彼女の隣へふいに舞い降りる気配。
ミントに警戒の色はない。
『精霊王さま』
ミントが振り向いた先。
耳上で左右にわけて束ねた白の髪がふわりと浮かび、地に足を付けた余韻でワンピースも揺らいだ。
少女と呼ぶには幼い風体の彼女は、ミントの目線に近付けるためにゆっくりと屈むと。
『はい、精霊王です』
柔く微笑む。
『精霊界の大樹が、何やらざわついていると思いましたら――』
精霊王ヴィヴィは大樹を一度振り仰いでから、ミントの方へまた視線を戻す。
『……なるほど。“外”の大樹は次の地を定めたようですね』
瑠璃の瞳がミントを――大樹の種を静かに見つめる。
『……次の、地……?』
こてんと小首を傾げるミントに、ヴィヴィは柔く微笑んだ。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
『――“外”の大樹は、次へ命を繋ごうとしているのです』
『…………それって――』
ヴィヴィの言外を察したミントが、きゅうと種をさらに抱き込んだ。
『いますぐ、ということではありません。大樹はまだ生きています。……ですが、これからは緩やかに生の終へと向かっていくのでしょう』
ヴィヴィは大樹へと歩み寄ると、大樹の太い太いその幹に手を触れ、目を閉じた。
命の息吹は力強い。けれども、そこに衰えを微かに感ずるのも、また事実だった。
そしてそれは土の精霊であるミントが、より鮮明に感じ取っているのかもしれない。
ヴィヴィがミントを振り返る。
『大樹はミントさん――あなたに種を託した』
はっとミントは顔を上げる。
『……頼まれて、くださいますか――?』
ヴィヴィの瑠璃の瞳が、真っ直ぐにミントを見据える。
真摯に揺れる瞳をミントはしばし見つめ、そして、ややしてからこくんとひとつ頷いた。
彼女はまかせてと胸を張る。
『ミントはデキルオンナなの。ミントにおまかせなの』
ふんすと荒い鼻息がミントのやる気を表すように見え、ヴィヴィはくすりと小さく笑って口を開いた。
『――大樹が示す先ですが』
『それは大丈夫なの。ミント、知ってる気がするの』
『……知っている――』
含みを持った声音で繰り返すヴィヴィに構わず、ミントは彼女を力強く見返した。
ミントはうんしょと種を背へと背負い直す。
草花が傍まで伸ばしてくれた蔓を掴み、落ちないようにしっかりと結んだ。
そうしてから、改めてミントはヴィヴィを見上げて。
『それにね。迷子にならないようにって、森が教えてくれるみたいなの』
にこりと笑むミントに呼応して、森がさわざわと静かに木を揺らす。
音の方を向き、ヴィヴィは目を細める。
森が木を揺らす。夜道を照らす灯りのように、大樹が示す方向に森が木を揺らす。
『そうですね。ならば、森が告げる方角へとお行きなさい』
さあ、と風が駆け抜けた。
木の葉がからからと地を転がって鳴き、木々はこっちだよと案内のために身を揺する。
むふっ、とミントは期待に満ちた息をもらすと。
『――あいっ!』
元気よく声を上げ、脇目を振ることなく駆け出していく。
そんな彼女の後ろ姿をヴィヴィは眺めやる。
『――この先を真っ直ぐ行けば、あの子が居る地に……』
さあ、と静かに朝焼けの森が鳴く。
『時代がひとつ、動こうとしているのでしょうか』
大樹が命を繋ぐ地として定めたのは――。
――第四部、続――
―――――――――
来週の更新はお休みします。
一週はさんで、いよいよ最終部の開幕です。
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