閑話 老狼の昔話
それじゃあ、おばばの昔話でもしようかねぇ――。
◇ ◆ ◇
そこは国と国が隣接する端にある領だった。
その地の自然は豊かであり、また精霊も息づく地でもあった。
いつの間にか人も住み始め、気が付けば、村というものが幾つも出来ていた。
作物はよく育ち、自然の恵みも豊かなその土地は、人も精霊も育んだ。
だが、そんな豊かな暮らしは長くは続かなかった。
戦だ。
豊かな地だったからこそと言えよう。
国と国が隣接する地だったそこは、よく隣国が欲しがっていた。
その度に戦は起こり、時に属する国も変わったりもした。
けれども、その地に暮らす人々にとっては、そんなことなど関係はない。
虐げられ、支配され、そして、嘆き悲しみ――苦しんだ。
ぽつりぽつりと、その地を離れて行く者が現れ始めたのも、自然な流れで当たり前な流れだったろう。
人が離れれば、人に惹かれ集まる精霊も次第に離れて行った。
幾つもあった村は廃れ、残った人々で生きていくことにした。
◇ ◆ ◇
それが今の領都の始まりさ。
その頃だったかねぇ。おばばにとある出逢いがあったんだよ。
◇ ◆ ◇
人々がその地に住み始めた頃、時を同じくして辿り着いた白狼の精霊がいた。
人の営みを見るのが好きだった白狼は、その地に腰を落ち着けると、人々の暮らしを見守るようになる。
栄える様。国同士の戦で壊される様。もう一度立ち上がろうとする様。そして、時をかけて再び栄え、また戦で壊されていく様。
それを白狼は、ずっとずっと見守っていた。
遠くから、離れたところから、ずっと見守っていた。
だが、その白狼は決して人の暮らしに関わることはなかった。
白狼は己が持つ影響力を知っていたから。
人々もまた、白狼の存在には気付いていた。そしてまた、人々も白狼に関わることはなかった。
けれども、その関係、距離感が、白狼と人々には丁度良く心地よかった。
そんなある日だった。
一人の青年が白狼に声をかけたのだ。
◇ ◆ ◇
その人が領主一族の始まりの一人さ。
そうさねぇ。つまり、ニニのご先祖様ってことさ。
最初はおばばもねぇ、素っ気なくしてたんだよ。関わる気はこれっぽっちもなかったんだから、鬱陶しいったらありゃしないよ。
なのに、あの子ときたらしつこくてねぇ。本当、困ったものだったよ。
◇ ◆ ◇
それからというもの、青年は暇をみつけては白狼の元へ足を運んだ。
ある時は、朝の採れたて作物を持参したり。
ある時は、昼に釣れたんだと魚を持参したり。
ある時は、月を見上げなら付き合ってよと酒を持参したり。
始めは鬱陶しく適当にあしらっていた白狼も、青年が訪れる度に少しずつその態度も軟化していった。
青年の与太話くらいになら付き合ってやってもいいかな。ある意味、白狼の諦めだったのかもしれない。
青年は持参したものを自ら飲んだり食べたり、そして、傍らで寝転ぶ白狼に、その日の出来事を語ってきかせる。
それは朝だったり、昼だったり、夜だったり。
人々がその光景を目にする機会も増えていった。
そして四季が一巡する頃には、白狼にとっても、青年とのそんな時間を当たり前に感じるようになっていた。
◇ ◆ ◇
ああ、あの子のことは大好きだったさ。大切だったさ。愛しかったさ。
けどねぇ、その頃のおばばは忘れていたんだよ。
人の一生は、脆くて儚いってことをねぇ。
◇ ◆ ◇
白狼が青年と過ごす日々を当たり前に感じるようになってからも、季節は幾度も巡った。
穏やかで、優しい日々。それがたまらなく愛しかった。
だが、白狼は知っていた。
人は簡単に精霊を置いて行ってしまうことを。
それでも、愛しい日々は穏やかに流れ、自身を撫でる手がしわになっていくのを緩かやに見守っていくのだろう、と。
そう、白狼は思っていた。
けれども、人は白狼が思っているものよりも遥かに脆い存在だった。
とある季節の、とある日。
青年の暮らす村が戦の場となった。
逃げ惑う村民の悲鳴じみた声。
鬱憤を晴らすためか、戦利品にと女子供を捕えるためか、蹂躙する者共の怒号や罵声。
村は赤く染まった。熱気を風が煽り、火の粉は舞い散り、家屋を燃やし尽くす。
その時初めて、白狼は村へと足を踏み入れた。
不安に駆られるままに戦場を駆け抜け、邪魔な存在を蹴散らし、青年を探し回った。
そして、自身も泥と血で汚れきった頃に、ようやく白狼は青年を見つけ出すことが出来た。
しかし、青年は既に虫の息だった。
あれだけ優しく白狼を撫でた手はなく、緩やかにしわが増えていくのだろうと思っていた青年の面影もなかった。
白狼はただ、青年の姿を呆然と見下ろすだけだった。
人はなんて脆い存在なのか。
その場に立ち尽くす白狼に、青年は来てくれたのかと笑う。
もう、その瞳に白狼を映すこともないのに。
それでも青年は変わらぬ顔で笑う。
「……なあ、ソフィア。おいらの、子を……たの、めるか……?」
青年が何も映さぬ己の瞳を遠くへ投げやる。
白狼がその視線を追った先に、傷つきながらも己のが子を守った女の姿があった。
女は既に息絶えていたが、抱き込まれた幼児にはまだ息がある。
青年がもう一度、言う。
「…………たのむ、な……そ、ふぃあ……おいらの、子、と……この、地を……おい、らの……かわ、りに……」
――護って欲しい、ソフィア。
青年の想いは、雪片の如く儚いものだった。
けれども、儚かったからこそ白狼を――ソフィアを。
戦火舞う中、白狼の遠吠えが木霊した。
◇ ◆ ◇
それからは大変だったねぇ。
なにせおばばは人の子なんて育てたことはなかったもんだから、必然と生き残った人の手を借りたもんさ。
それから幾度も戦はあり、その度におばばも頑張ったんだよ。
子を護ったり、村を護ったりね。
なんせ頼まれちまったからねぇ、あの子に。
おばばもあの子が居た証を壊されたくなかったし、必死だったんだよ。
あの子の頼みには抗えないしねぇ――。
さわと控えめな風が白狼の毛並みを撫でる。
その心地が、懐かしい存在の手付きに似ている気がして、白狼はそっと顔を上げた。
常に閉じられている瞳を懐かしむように細めた。
と。自身の腹を背もたれ代わりにしていた存在が、ころんと寝返りを打った。
「おや、ニニ。寝ちまったのかい?」
そっと見下ろせば、すうすうと可愛らしい寝息を立てながら、ニニは安心しきった顔で眠っていた。
ニニにせがまれてしていた昔話だったが、少女には少々退屈だったらしい。
あれま、と声をもらしながら、白狼は穏やかにくつくつと笑った。
幾度の戦で疲弊し、痩せた大地。
剥き出しとなった地表は、微風が軽く吹くだけで砂塵が舞う。
白狼とニニがいる辺りは、長い時をかけて白狼が癒やしの気を与えてきたおかげで、控えめ程度に草地となっていた。
近くを流れる小川のおかげもあり、近年では小さな愛らしい花を咲かせることもある。
ここがいつも、白狼とニニが寝そべる彼女たちの気に入りの場所だ。
そして。
「……あの子の話を、おばばもいつもここで聞いていたものさね」
白狼にとっては思い出の場所である。
同じ場所で、あの子から何世代も命を継いだニニとまた、こうして穏やかに話が出来ているのは、なんとも感慨深い気がした。
「戦もない、穏やかな時間だねぇ。……こうして、穏やかに、緩やかに、ニニと過ごすのも悪くはないのかもしれないねぇ」
けどねぇ、と。
白狼の蒼の瞳が穏やかにニニの寝顔を見つめる。
「けどねぇ、おばばも歳だからねぇ。精霊としては、もう十分に生きたもんさね」
ニニの頬へ、白狼は自身の額を寄せた。
そして、静かにそっと蒼の瞳を閉じると、小さく笑みを浮かべる。
「おばばは最後に一頑張りするよ。ニニには笑っていて欲しいからねぇ」
己がいなくなってしまえば、誰がこの地を癒やし続けるというのだろうか。
少しずつでも癒やし続けなければ、この地はまた乾いた地に戻るだろう。
そうなってしまえば、今度こそ人はこの地を去らなければいけなくなる。
「このおばばがさせないよ」
薄く開いたまぶたから、白狼の蒼の瞳が覗く。
そこに宿る意志の光は、老いをも知らぬ力強いそれが宿っていた。
「おばばは――ソフィアの名の下に、あの子から頼まれているからねぇ」
――この子を頼むよ。この地を頼むよ。
――護って欲しい、ソフィア。
その頼み――縛りがある限り、白狼は――ソフィアは抗えない。
「――安心おしいよ。どんな手段を用いても、この地は護ってみせるからねぇ。そうすれば、ニニもいつまでも笑っていられるさね」
うっそりと、ソフィアは呟いた。
そしてまた常のように目を閉じた彼女は、眠るニニを寄り添って共に眠り始めるのだった。
直ぐ傍から穏やかな寝息が聞こえ始めた頃、ニニは静かに目を開いた。
ころんと寝返りを打つと、ニニにとってはとても大きく感じる白狼の顔に手を伸ばす。
が、寸前のところで躊躇って手を引っ込めてしまう。
だが、しばし逡巡したのちに、ニニは身を寄せて再び目を閉じた。
白狼に埋まるように身を丸めて。
「にには、むつかしいことはまだわからないけど……。ににはね、おばばさまがいれば、それでいいんだよ」
微風が優しく白狼と少女を撫で去って行く。
*
それぞれの向かう先がひとつの結末を誘う。
終へと続く道先は、すでに交わり始めている――。
――第三部、完――
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