鳥籠の鳥


 とある領、とある屋敷の――地下牢。


 かつん、地下牢に気高な靴音が響く。

 そこは天窓から陽が差し込み、陽射しが束になる様まで目に出来る、およそ地下牢という言葉が似つかわしくない、光溢れる場だった。

 ロンドは地下牢に来るなり、不可視のそれの手前まで歩み寄ると、静かに牢へと手を伸ばす。

 牢と言うのに、それは不可視な牢だった。

 ロンドの指先が触れる。瞬間、ばちっと鋭い音が響き、ロンドの手を弾く。

 焼け付くような痛みに、ロンドは顔を少しばかりしかめるだけに留め、数歩下がって不可視の牢を見上げた。

 彼の手を弾いた反動で不可視の牢はたわみ、一瞬だけ可視化する。

 不可視の牢は巨大な鳥籠を模したそれだった。


「結界はきちんと働いている、か」


 険の宿った眼差しで牢を見上げていたロンドが、今度は牢内を見やる。

 牢内には天窓から差し込む陽射しを受け、のびのびと育った草木が茂っていた。

 およそ屋内だとは思えないくらいに茂る緑に、未だロンドは慣れない。

 だが、事実ここは屋内だ。

 結界に囲われた緑。まるで箱庭だ。

 緑があるということは、緑が根を下ろすための豊かな土があるということ。

 ロンドの鼻先を湿った土のにおいがくすぐる。


「……この風景を、領地に広げることが叶えば――」


 先代である父、さらにその前の代から受け継いで来た悲願を。


「ぼくの代で達せられる」


 さすれば、次代へは豊かな風景を残せるだろう。

 ロンドは感極まわった息をこぼした。




   *




『……広いわ。まるで小さな森って感じね』


 さくと下地の草を踏む音を響かせ、ティアは近場の樹木を背にして寄りかかった。

 浅く息を吐くと、枝葉から降り落ちる陽を見上げる。

 枝葉が何処からか入り込んだ風に小さく揺らす。


『結界に沿って歩いてみたけど、ここどう見たって屋内で、でも、天窓からの陽は柔らかい』


 じんわりと汗ばむ額を手で拭い、ぼんやりとその手を見つめる。

 汗ばんでいるのが、天窓から注ぐ陽射しのせいでないのには、もう気付いていた。

 ここはマナが濃すぎる。もう少し濃ければ、マナ溜まりと呼ばれるそれになりそうなのだが――視界の端、何かが掠める。


『マナ溜まりにならずに済んでいるのは、こうして精霊がマナを散らしているから』


 ティアの視線の先。光の粒――下位精霊がふよと浮き漂う。

 呼ぶように手招きしても、光の粒はすいとティアの横を通り過ぎてしまう。

 上位精霊の呼びかけに下位精霊が応えないことはあまりない。

 ふうと深くティアは息を吐く。


『……やっぱり、普通じゃないわ。このマナの濃さ、あの子達にとっては結構堪えるはずよ。私だってそれなりにきついのに』


 汗ばむ額を再度拭う。

 浅くなる呼吸を意識的に、慎重に深くするくらいには堪えている。

 身体もだるく重く、嫌な汗が頬を伝った。


『私の場合は、癒えてもないオドの傷のせいもあるだろうけど』


 自虐的な笑みがほんのりと口の端にのる。

 背に持たれた幹に沿い、ずりずりと滑り座った。

 横を過ぎていった精霊へ眼を向け、凝らして視やれば、その精霊の奥までティアの眼は視通す。

 しばしして、やはりかと納得したように視線を落として瞑目する。

 ――あの精霊は縛りを得ていた。

 それはつまり。


『……真名を暴かれたか』


 ふつふつと怒りのようなものが胸に燻っては苛立ちに混ざり、前髪を掻く。


『何なのよ、ここは――っ!』


 ティアが顔を上げ、睨み上げた先。

 そこには結界の頂点にまで先を伸ばした紅の結晶――紅魔結晶が鎮座していた。

 先程歩き回った距離感覚から、おそらく結界中央部に位置する場所。

 あれはもはや、魔結晶というよりも魔水晶と呼ぶべき規模のものだろう。

 醸し出す気配は不気味で、本能的に近寄ることを忌避している。あれは近寄っただけで呑まれる。

 この不気味さに覚えがあった。

 シシィやミントらと共に海街で拾ったあの魔結晶。

 あんなのものよりも、もっと深く、もっと色濃いそれ。

 あの紅魔水晶はどれだけの負の念をまとっているというのだろう。

 見上げているだけで身体が震え、ティアは無意識下で己の身体を掻き抱く。

 もう視界にも入れたくない――ぷいっと視線を外す。


『……あの魔水晶、オドの気配が濃すぎる』


 どれだけのオドを体外へと抽出したのか。

 その方法を想像すら出来ない程に怖気が走る。


『これだけ近くに魔水晶があるのに魂が壊れないのは――』


 時折視界に入り込む光の粒を眺めながら、震える息を吐き出す。

 眼でしかと精霊を視、その顔を嫌悪に歪める。


『――やっぱり、真名を暴かれたことでの魂に縛りがあるから』


 意に従わせる縛り――言葉を変えれば、支配するということ。

 さらに言葉を変えれば――それは囲うということ。つまりは保護に近い。

 この結界内にてティアが未だ呑まれていないのも、シシィによる縛りがあるからだ。

 ふいに左目に残る縦一文字の傷痕が疼いた気がした。

 その疼きが護られている証拠な気がして、知らず口元が緩まった。

 しかし、それもすぐに引き締めると、琥珀色の瞳が上部を振り仰ぐ。


『ここから脱けないと』


 結界に囲われた、まるで箱庭のような場所。

 豊かな土。草木も茂り、十分な湿気もある。

 程よく射し込む陽に、今はどこか不気味だ。


『私がここへ風によって呼ばれたのも、何か理由があるはず』


 助けて、と助けを求めていた。

 その理由を見つけるためにも、ここを抜け出さなければ。

 ティアは気が付いたらここに居た。

 直接結界内に風によって呼ばれたのか、呼ばれ意識のないうちにここへ別の存在によって運ばれたのか。

 それは定かではない。


『結界の源は下に描かれた陣。だとすれば――上部の方ほど効力は弱くなっているのかも』


 そう考えるのが定石だろう。

 見上げる上部の、さらにその天頂を見据えて瞳を細めた。

 よし、と勢い込んで少女の姿から真白の鳥の姿へと転じ、両翼を広げる。

 ばさりと強く打ち、天頂へととりあえずは突っ込んでみようと飛び上がった――刹那だった。


『――く……っ!』


 息が、詰まった。

 琥珀色の瞳をこれでもかという程に見開き、大きく震えた。

 ティアを襲ったのは突如の痛み。

 あまりの痛みに羽ばたきはままならず、そのまま彼女の身体は落下を始める。

 地へと落ちる前に、何処から入り込んだのか、風が渦を巻きその衝撃を殺す。

 だから、打ち付けられた痛みはなかった。

 なかったのだけれども、突として襲われた痛みに、ティアはその場でのたうち回る。

 もはやそれは、痛みなどとは評せぬ激痛だった。

 全ての思考が激痛によって奪われ、ティアには何が起きたのかを理解出来る思考も、理解しようとする思考もなかった。

 呻き声も出せぬ程の激痛にのたうち回るだけ。

 そしてまた、その激痛も突如として終わりを迎える。

 ひやりとした清浄な水の気を肌に感じたと思った頃には、激痛は鳴りを潜め、ティアはようやっと解放されたままに喘ぐように息を吐いた。

 じくじくとなおも燻る痛みが生易しく感じた。

 鳥の身体は汗などかかぬはずも、羽毛はぐっしょりと濡れて張り付き、瞳からは涙が溢れていたことをここで初めて知る。

 荒く浅い呼吸に燻る痛みの出処が、未だ癒え切れぬオドによる傷だと思い至った時には、ティアの意識はすとんと落ちていた。





『悪いねぇ。地下牢の結界は頑丈だと自信はあるんだけど、万一ということもあるしねぇ』


 ゆったりとした口調がその場に落ち、ふわりと白が舞い降りた。

 意識を失った鳥の精霊を見下ろす。

 常の如く閉ざされたままのまぶたが薄ら開き、慈愛に満ちた蒼の瞳が覗く。


『おばばもねぇ、若い子にこんな仕打ち、決して心が痛まないわけではないんだけどねぇ。お前さんにはここに居てもらわないと、ちぃーとばかし、おばばは困っちまうんだよ』


 真白の鳥の羽毛からはじわりと赤が滲み始めていた。

 つんっと鼻奥を刺すにおいが漂い始める。

 水の精霊は、精霊の中で唯一癒やしの手段を持つ。

 そしてまた、癒やしの手段を持つということは、その逆の手段も知っているということだ。


『是非とも風を呼んどくれよ』


 白の体毛を持つ老狼はうっそりと微笑む。

 遠く、倒れる鳥の精霊の元へ駆け寄ろうと風が甲高く鳴いた。





―――――――――

今週は二話更新。明日も閑話を更新します。

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