秘事、ゆえに臆病で
明かりもない、夜に満ちた部屋。
すやと穏やかな寝息と、暗がりの中でも爛々としたカッパー色の瞳。
ベッドの中で眠むセオドアを見つめ、その枕元に座するシオは緩く息を吐いた。
ようやく落ち着き寝落ちたところだ。
そして、空になったバスケットを見やって嘆息を落とす。
ティアらが去ってから、セオドアを宥めるのに一苦労した。
「……おねーちゃ、なんで――」
もう、姉は亡いはず。
混乱に乱れる思考に、普段は奥底に沈む拙い心が震えて起き出し、熱を帯びて感情を激しく揺さぶる。
とめどなく溢れる熱いものが、深い森の色をしたセオドアの瞳を濡らす。
胸を抑え、立つこともままならずに膝を付く。
うつむいた拍子に瞳から大粒の涙が零れ、床に斑点のしみをつくった。
もう慣れたと思った。
流行り病で両親は儚くなり、そして姉も間もなく儚くなった。ひとりぼっちになった。
けれども、あれから時は流れて、何でもなく日常は送れている。
だからもう、慣れたと思った。なのに。
「……ふぅっ……くっ……ぅ」
漏れそうになるおえつを、口に手の甲をあてがって堪える。
慣れてなんかいなかった。
普段は目を背けるように、内の奥底へ押しやっているだけだった。
だから、こうして何かの弾みに、降り積もった埃を払い除けながら、忘れるな、と言うように浮かび上がっては感情を揺さぶるのだ。
必死におえつを堪えていると、ふいに視界の端に三毛柄がちらついた。
のろのろとその柄を見やる。
カッパー色の瞳が、心配そうに顔を覗き込んでいた。
深い森色の瞳を見開く。瞬的に涙が止まった。
みゃーん。気遣わしげに、柔い声でシオは鳴く。
いつの間にかうずくまっていたらしいセオドアの腕に、彼女はその頭部を押し付ける。
何度も身を寄せ、擦り付け、時折みゃんと柔く鳴く。
ここに自分も居るよ、と己の存在を告げるように。
「……し、お」
わななく唇が、拙く彼女の名を紡いだ。
違う。ひとりぼっちじゃなかった、ふたりぼっちだった。
深い森色の瞳が震え、くしゃりと歪み、そして。
「――っ!」
シオの身体を引き寄せ、抱き込み、わあんっとセオドアの声が響き渡った。
泣き腫らした目元をシオがざりと舐めると、ざらつく舌の感触にセオドアが身じろいだ。
一瞬起こしてしまったかとひやりとするも、こてんと寝返りを打っただけだった。
ほっと安堵し、シオは音もなくベッドから下りると、そのまま窓辺へ静かに飛び上がる。
夜に染まった外は、普段よりも風が騒がしい気がした。
それに不気味さを覚えながら、シオは日中のことを思い出す。
「……そういえば、彼女の周りにも風が居た」
あの、もう既に亡い彼女の容姿を持った彼女。
風をまとった存在。
「精霊、か」
刹那。偶か意図か、風が少しばかり強く吹き付け、窓を鳴らした。
それがまるで何かを示しているようで、シオはカッパー色の瞳を細めた。
必ず話すと言っていた。
何者かと詰めば、傷付いた色を瞳に乗せて、そして。
「怖がってるようにも見えた……」
彼女には秘事があるようだ。
その秘事はきっと、自分たちにも関わっていることで、それで。
「秘事を明かすなら、誰だって臆病にもなるさね」
くるりと振り返り、眠るセオドアを一瞥した。
ゆうらりと尾が揺れる。
「……あたしも、いつかは言わないと――魔族だって」
既に普通の猫では有り得ぬ程に時を共にしてしまっている身だ。
とっくに何かが違うことには気付いているはずなのに。
それでも、セオドアと彼を引き取った彼の伯母は、今でも傍に置いてくれている。
もし、己の秘事を告げてしまったら、気付いていないふりをしてくれているそれに、気付かせることになってしまう。
それでも彼らは、シオをここに置いてくれるだろうか。
ゆうらり、優雅に尾が揺れる。
始まりは亡い彼女との約束。けれども、シオはもうそこに情を置いてしまった。
離れられるだろうか。
「……無理ね。あたしが離れたくないって思ってるから」
視線を落とす。しゃらん、セオドアと揃いの耳飾りが音を奏でる。
なら、このままずっと、普通の猫のふりをしていればいい。
そうすれば、彼らもずっと気付かないふりをしてくれる。
それでいいじゃないかと思う。なのに。
「それも無理、かな。もう――」
ゆうらり、尾がしなやかに揺れる。
窓から差し込む月明かりが床にシオの影をぼんやりと落とし、その影も動きに合わせて尾を揺らす
ゆうらり。ゆらり。ゆうらり。
優雅に、しなやかに。
ゆうらり。ゆゆらり。ゆうらり、ゆゆらり。
妖艶に尾が揺れる。
その影は時折、尾を二股にしながら――。
「――あたしは魔族」
ぼんやりと、暗がりにカッパー色の瞳が浮かび上がる。
「魔力が強くなると、稀に、身体にも影響を及ぼす個体もあるって聞いたことあったけど」
それがまさか自分とはね。
はっと息を吐くように苦い笑いをもらした。
尾を揺らす影を見下ろす。
変化はまだ完全ではないらしく、影の尾はひとつだった。
けれども、それも時間の問題だろう。
シオは緩くかぶりを振ると、なんとはなしに眼下の通りへと視線を投じた。
それからふと。
「あれ? ジルじゃん」
通りを歩く少年の姿をみつけた。
*
シオのことが気になり、ジルは彼女が飼い猫して暮らしている家の前まで来てしまっていた。
「……は? ここまで押し掛けるのって、気持ち悪くねぇ……?」
思い立つままにここまで来てしまったが、こんな夜の時間帯に相手の家まで押し掛けるのは、もしかしてもしかしなくとも非常識なのでは。
そう一度でも思ってしまえば、奮い立っていた勇気は勢いよく萎むもので。
そして、そこまで親しくはな――くはないかもしれないが、特別親しいわけでもない、ねずみだが一応は男に類される奴が、猫だが一応は女に類されるだろう奴の家まで、夜にわざわざ押し掛けるのは――気持ち悪くはないだろうか。
「……いや、気持ち悪いだろ」
自問自答して、今に至るジルだ。
結果、彼女の家前をうろうろすることになった。
それならば早々に帰ればいいのにと思うのだが、足が帰路についてくれない。
なんと厄介な奴よ。
何度目かの往復。ふと足が止まる。
はたと気付いてしまったのだ。
「つーか、なに迷ってんだよ。俺とあいつはねずみと猫。それ以上でもそれ以下でもねぇよ」
なんだよ、一応の男と女って。そんなんじゃねぇよ。
羞恥で顔に熱が集まり、それを誤魔化すため、ターバン越しに髪を掻き回す。
それは有り得ない。なることはない。
ねずみと猫。どこまでいっても、それ。
同じカタチでなければ、決してこの先も交わることなど有り得ないのだ。
自分らは姿形が違う者なのだから。
「……あいつが人に化けられたら――」
その先もあったりするのだろうか。
そんなことを考えたって仕方ないのに。
自嘲が口の端にのる――そんな時だった。
ふいに通りの横を流れる運河から水音がした。
何かの軋む音。ゴンドラだろうか。だが、こんな夜に――?
気配がなく、気付けなかった。それが妙に引っかかり、ジルが訝しんだ――刹那。
背後に気配が生じた。
がばりと振り返り、ジルの紅の瞳が大きく見開かれた。
「――っ!」
唐突に思い出したことがある。
数日前、ティアとホットミルクを飲んだあの時だ。
その際に彼女からは、不要な外出は控えて、なるべく一人にならないで、と言われていた。
理由までは告げなかった彼女だけれども、それはこれが理由だったのだろうか。
ジルの視界は闇に包まれ――瞬、紅のきらめきを見た気がした。
*
短な足を懸命に動かし、シオは通りを運河沿いに走っていた。
カッパー色の瞳が睨むのは、運河を進むゴンドラ。
だが、猫の足では追い付くのは難しく、どんどん引き離される距離が悔しかった。
「冗談じゃ、ないさっ」
シオの視線が運河の先を見やる。
ゴンドラの先行きを予想し、シオは通りから細い路地へ曲がって夢中で走った。
家の窓辺から通りにジルの姿を見かけ、こっそりと家を抜け出した時には彼の姿はなかった。
彼がうろうろしている様は窓辺からも見えていたし、どうせ、来て良かったのかとかくだらないことで悩んでいたのだろう。
それで結局帰ってしまったのか。
なんとつまらない奴だろう。
「……別に、迷惑でもないのに」
人気もない夜の通りに、ぽつんと佇むシオは寂しげだ。
思いの外、己からもれた声が拗ねていて、シオは自分で自分に驚いた。
誤魔化すように尾を揺らす――ゆゆらり、と。
その感覚に振り返り、目を瞠る。
揺れる己の二股の尾に、いよいよあれかな、と諦めにも似た寂しさが降り積もった。
「ジルに話、聞いてもらいたかったのかも」
それなのに、ここまで来て帰ってしまうなんて、なんと意気地のない奴だろうか。
彼を胸の内で罵るのは寂しさの反動だ。そのくらいは許してもらおう。
ふんっと荒く鼻を鳴らした時だった。
「……な、あそこに居るのも魔族じゃ?」
「だろうな。人の言葉を操る猫がそうそういてたまるか」
「じゃ、あいつも捕まえる?」
「…………やめとけ。精霊狩りしてた奴らと連絡がつかない。魔族狩りもここまでだ。この街も引き時ってことだろうな」
「そうなん?」
「ああ。引き上げろって達示も雇い主様から出てる」
いくぞ。
その声を合図に、静かな水音に紛れて運河を進むゴンドラの音を、シオの耳はしっかりと拾っていた。
妙だ。カッパー色の瞳に剣呑な色が滲む。
気配もしなかった。声が漏れ聞こえるまで気付かなかった。
そもそもが、声が漏れ聞こえる、という感覚が妙なのだ。
まるで、気配が何かによって覆い隠されていたような。
ゴンドラが運河を曲がって見えなくなってから、シオはやっと身体から力を抜いた。
思っていたよりも緊張をしていたようだ。
「ジルもいないんなら、あたしも早く家に戻った方がいいかも」
なんせ、魔族狩りなどと穏やかでない言葉を耳にしてしまったのだから。
先程の輩は、気配が覆い隠されていたことに油断していたようだけれども、聞こえていたことに気付かれなくてよかった。
さて、家に戻ろうか。
そう思って足を向けた時、視界の端にちらりと何かが掠めた。
誰かが通りに落としたものか。普段は気にも留めないのだが、それが妙に気になった。
振り向き、近寄り、目を瞠る。
それはどこか、見覚えのある布地。
「ジルのターバン――」
いつも彼が頭に巻くターバンのそれに、とても酷似していた。
脳裏に過ぎったゴンドラの存在。そして、魔族狩りという穏やかでない言葉。
するりと首にターバンの布地を器用に巻き付け、気が付けば、シオは駆け出していた。
違うと思うけれども、その思いはどうしても打ち消せない。
だから、ゴンドラの中をちらりとでも見ることが出来ればいいのだ。
そうすれば、なんだ勘違いだったと笑えるから。
細い路地を夢中で駆け抜け、積荷を駆け上がり、屋根と屋根を伝って運河沿いに駆ける。
遠目にゴンドラを見つけた。
が。そこまでだった。
息が詰まる。
ゴンドラが運河から海へと出た。
急激に速度を落としたためにつんのめりながらも屋根端まで駆け、シオは懸命に目を凝らした。
ばくばくと鼓動は早鐘を打っていて。それは痛いほどに。
せめて。せめて、ゴンドラの中をちらりとでも。
ざん、ざざん、と早る鼓動とは対象的に、穏やかに夜の海が鳴く。
ちらりと見て、それで勘違いだったと笑いたい。
それでジルに、バカかよ、と笑われたい。呆れたような様子で笑って欲しい。
なのに、猫の背では足りないのか、ちらりとも見えなくて。
「ジル……っ」
それが歯痒くて、悔しくて――隣に並べなくて。
と。
「――……あ」
吐息がひとつ、落ちた。
ゴンドラが見えた。カッパー色の瞳を見開く。
人影だ。一人は船頭を据え、一人は櫂を操り船を漕ぐ。
けれども、人影はそれだけだった。
なんだ。やはり勘違いだった。なんだ、よかった。
そう思い、シオは安堵の息を吐く。胸に手を置き、ほっとする。
なのに、それは瞬時に細くなった。息が詰まり、ひゅっと音がした。
見開かれたカッパー色の瞳が、大きく震える。
ゴンドラに積まれた荷物。麻袋のような。
「……」
細く吐く息が震える。
ばくばくと打ち鳴る鼓動が煩く、波音が耳から遠ざかる。
麻袋はちょうど、人が一人くらいの大きさに見えて――。
シオはただ、そこに立ち尽くすことしか出来なかった。
疑念は払拭されるばかりか、それはより色濃くして影を落とす結果となった。
それが彼のはずはないのだ。
きっと彼は自分の家へと帰ったはずで、だから、確かめればいい。
それだけのはずなのに、どうしてか足は震えて動かない。
海風がシオの髪を揺らす。
「え……?」
すぐに己が感じた感覚に違和を抱く。
髪、など自分にあるはずがない。
おそるおそる頭部へ手を伸伸ばし、視界に映る己の手は見ないふりをした。
触れる髪。風になびく、肩につかない程の髪。
髪を一房掴む。それは金茶の色をしている、確かな髪だった。
はっ、乾いた笑いがもれる。
一房の髪を掴んだ手が震えている。
当たり前だ。
「……なにも出来ないのに、どうして今なの――」
どうして、いま、この瞬間なのだ――。
屋根上に佇むのは、一人の少女。
彼女から伸びる細い影は、二股に分かれた尾に見えた。
――――――――――
次話にて本章最終話、閑話で幕となります。
幕章を数話挟んだのちに、いよいよ最終部となる第四部開始です。実は作業進捗具合としては最終章に入り始めたところで、もしかしたら年内……は無理かな、年明け……くらいかな。物語の終着点が見え始めたことに、ほんのりと寂しさも感じます。
ともあれ、残り予定二章(+終章)お付き合いいただければと思います。
追記。
いつの間にか、PV1000を超えていました。
いつもありがとうございます。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます