呼んでるのは、誰


 フウガと別れたあと、精霊の隠れ家に戻ったティアは、そのまま自室へと向かった。

 部屋に入るなり、気怠い身体をベッドへと転がす。

 スプリングが軋み、軽く身体が弾んだ。

 あまり使い込まれていないベッドは埃っぽく、ふわりと舞い上がった埃が小さく鼻を刺激する。

 普段はシシィの毛並みに身体を埋めて眠るゆえに、シーツは埃を積もらせるばかり。

 そろそろ洗って干さなければと思っていた頃だった。

 身体を丸め、己を抱くように腕を抱える。

 ベッドは彼のように柔い毛並みを持ってはいなく、そこに包み込んでくれるようなぬくもりもない。

 冷えたベッドに身を転がしていると、傍にシシィがいないことを改めて突きつけられる。

 胸の奥がぎゅううと締め付けれるような痛みを覚えた。


『シシィ、いつ帰ってくるの……?』


 恋しく思うのは、身体が気怠いからか。


『……シシィが帰って来たら、謝るんだ』


 それで話を聞いて、ふたりで話し合って、それから――。


『――っ』


 そこでティアは息を詰まらせた。

 肌下を何かが這うような不快な感覚。そして、胸を軽く抑えて小さく喘ぐ。

 波が過ぎたところで、緩く息を吐いた。


『オドって、自然に任せると、いつ抜けきるんだっけ……?』


 少しだけ乱れた息を落ち着けようと努めながら、ぼんやりとした思考で考える。

 精霊にとってオドは毒に近い。

 それは人にとってマナが駄目なのと同じで、精霊にとってはオドがそれとなる。

 怪我による不調はだいぶ和らいできた。

 だから、この気怠さはオドによるものだ。


『……少し、ねよ……』


 少しでも楽になればと、ティアは静かに目を閉じた。




   ◇   ◆   ◇




 ――……か。だ……か。

 ――と……いて……の……えを。

 ――……えて、きこ……てた……ら、だれ……、こた……。


 夢とうつつで揺蕩う薄い意識を時折乱しては震わす、声とも呼べぬ声。

 指に出来たささくれに、服からほつれ出た小さな糸に引っかけるような、そんな小さな不快さを伴って、薄い意識を引き上げるそれに――。




   ◇   ◆   ◇




『――……呼んでるのは、誰』


 ティアは目を覚ました。

 のろのろとまぶたを持ち上げ、とろんとした琥珀色の瞳が眠たげに瞬く。

 ぼんやりとした視界は暗闇に覆われ、はっきりしない意識でも夜だとわかった。

 それほど長く眠っていたのか。

 のそりと少しばかり気怠さを残す身体を起こし、軽くかぶりを振る。

 適当にベッドに転がったゆえに乱れほどけたらしい編み込みの髪が、はらりとティアの肩からこぼれ落ちる。

 それを鬱陶しげに払い、息を吐き出すと、勢いを付けてベッドから立ち上がった。

 その勢いのままに髪を直す。いつものように緩く編み込み、シシィと揃いの髪紐を結ぶと、背に垂らす。

 ベッド傍のスツールに置かれていた手持ちランプに火を灯すと、ティアの顔に陰影をつくり、火のゆらめきに合わせて揺れた。

 鏡台にて髪や服の乱れを最低限整えると、彼女はちらりとカーテンの閉じられた窓を見やる。


『……さっきの呼び声は、誰のもの?』


 が、風に彼女の声に応う様子はない。

 返事がないことは承知していた彼女は、構わず自室を出る。

 廊下に明かりはなく、すっかり夜の気配に包まれていた。

 静かな中、彼女の靴音だけが響く。

 廊下の微かな空気の動きから、ジルが食堂に居るのはわかっている。

 けれども、その食堂から明かりが漏れていなく、聞こえてきた呟きに、思わず口を挟んでしまった。

 始めは一声だけかけるつもりだったのに、明かりも付けずに何故かしょぼくれる彼をみつけてしまえば、そのまま放っておくことも出来なかった。




 精霊の隠れ家を出たあと、ティアは運河沿いの通りを宛もなく歩いていた。

 さらさらと静かに流れる運河の水面には、通りを照らす街灯の灯りと、ティアの持つ手持ちランプの灯りが揺れる。

 時折すれ違う人々は、深まる夜に反比例するように賑わいをみせる通りへと消えて行く。

 細路地からもれる明かりは、ティアの歩く通りを照らす街灯よりも明るく眩しい。

 細路地の軒下に連ねる立ち飲み屋バーカロの灯り。

 遠くの店からも、どっと騒ぐ客の声が風に紛れて彼女へと届く。

 それを横目にちらりと見やりながら、彼女はふらりふらりと通りを行く。

 少女がこんな夜に外を出歩いているというのに、すれ違う人々は誰も彼女を気に留めない。

 そのせいか、彼女はまるで別の空間に切り離されたかのような錯覚を覚える。

 感情の乗らない顔を、手持ちランプが照らす。

 そんな切り離された空間で、ティアは足を止める。

 動作に合わせ、明かりで橙にほんのりと染められた白の髪がふわりと弾んだ。


『……通りを歩いてみたけど、立ち飲み屋バーカロで賑わう声じゃないみたいね』


 はっきりとは聞き取れなかった、声とも呼べない声。

 遠すぎて遠すぎて、輪郭を伴わないそれ。

 今のティアの状況だから拾えた声だ。

 オドによって、少しだけ不安定な状況だから。


『――なら、全力をだしてみれば……』


 琥珀色の瞳が瞬く。

 とん、と弾むように軽く地を蹴ると、風が吹き荒ぶ。

 通りを歩いていた人々が突然吹き荒ぶった風に小さく悲鳴を上げ、飛ばされまいと足を踏ん張る。

 風が吹き荒れたのは一瞬のことで、何だ何だと訝る声がささやかれる中で、ティアの姿はなかった。




   *




 かつん。

 靴音を響かせ、屋根上に少女の姿が舞い降りた。

 夜の海街を賑やかせる人々の酒に酔いしれる喧噪。

 流れる運河に揺蕩う街の灯り。

 それらを眼下に、手待ちランプを片手にしたティアは、星を抱く夜の空を見上げた。

 後方から風が吹き抜け、彼女の髪を煽る。

 琥珀色の瞳を静かに閉じると、意識は次第にゆっくりと、夜に沁み込むように凪始めた。

 探るため、風を集める。

 風が彼女を中心に渦を描き始め、激しく髪が荒ぶる。


『私を呼んでるのは、誰――?』


 集めた風から情報を読み、不要なそれは払っていく。

 読む情報は、立ち飲み屋バーカロの馬鹿騒ぎや、通りを行く人々がささやく噂話から、夜に眠る街で暮らす生き物の寝息まで。

 ティアが小さく顔をしかめる。

 風から拾ったそれに深くは触れない。

 扱える許容量を超えてしまえば、身体は熱を持ち崩折れてしまう。

 だから、速やかに取捨選択、処理をする。

 いつもはばななの補助下で行うことを、今はティア一人で。

 顔が苦しさで歪み、体調が万全でないのも手伝い、汗が頬を伝う。


『……違う。この街に声はないわ』


 ならば、範囲をもっと遠くに、遠くへ――風を呼ぶ。


『――っ』


 風により激しく煽られていた髪は、じんわりと汗ばむ頬に首筋に貼り付いていた。

 足が震えるのは、それだけ限界が近いのかもしれない。

 次第に浅くなる呼吸。ぶれる意識。

 なぜ、自分はここまでして必死に呼び声を探すのか。

 その答えがわからぬままに、けれども、どうしてか気になって。

 それでも、もう身体が悲鳴を上げている。ここまでか――そう予感した刹那。


『――っ!』


 琥珀色の瞳が大きく見開かれた。



 ――誰か。誰か。

 ――届いて、この声を。

 ――応えて、聞こえてたら、誰か、応えて。



 それはひどく頼りなく、弱々しい声だった。

 ティアを囲うように吹き荒ぶっていた風が、ふつりと押し黙る。

 代わりに彼女を囲うのは、風に連れられて来た微風。弱々しく彼女を周る。

 遠い遠い何処かの地から、長い長い旅をして来た微風。

 そっとティアが手を伸ばすと、絡むように手を旋回した。

 嬉しいのか、時折小さくひゅっと鳴く微風に、彼女は柔く笑みを向ける。


『……ずっと誰かを呼び続けていたのね、あなた』


 小さく吹き付ける風が、じんわりと汗ばむティアの肌を冷やす。

 貼り付いた髪を払うと、軽く目眩に襲われた。

 くらりと回る視界、目をつむってやり過ごそうとした――瞬、だった。


《――来て》


 瞬時に開かれた瞳は瞠目し、大きく震える。

 響く声はより鮮明のもので、本能的に抗おうと顔を歪めた。だが。


 ――抗えきれない……っ。


 気を緩め出来た一瞬の隙。

 そこを突かれ、ティアの意識は瞬時に絡め取られた。

 ぐらりと身体が傾ぐ。もう、足は踏ん張れなかった。

 力強い何かに引っ張られる感覚を最後に――。



 ことん。支えを失った手持ちランプが落ちた。

 灯していた火は消え、そのまま屋根上を滑り、通りへと転がり落ちる。

 敷き詰められた石畳に叩きつけられる――前に、彼の手に受け止められた。

 ランプの硝子にひびを認め、彼は凪いだ表情でそれを見下ろす。


『……精霊の扱う転移術を利用して引き寄せられた、か。ここまで風に好かれるとはねぇ。さすがは風の愛し子』


 これは少しばかり予想外だった。

 そうぼやき、彼――フウガは顔を上げる。

 フウガの視線の先は、家屋を通り越して何があるのか。


『けどまあ、これで道は出来たってわけだ』


 冷めた笑みが口の端に乗る。

 風が鳴いた。


『ばなな、スイレンのもとへ行け。そんでシシィを――』


《ししぃ、よぶ。てぃあの、ところ》


 フウガの周りを一周すると、風は走り去って行った。


『……仕事が早いことで』


 苦笑を滲ませ、風が走り去った方を見やる。


『まあ、俺はシルフとしてやるべきことをやるだけだ』


 枯れ葉色の瞳がふいに揺れた。


『……悪いな、ティア。お前を利用するかたちになっちまって。……あとで知れたら、兄貴や義姉さんに怒られるかな』


 肩をすくめ、苦く笑った。

 シルフという立場上、この場を離れるわけにはいかない。

 離れる時は、それ相応の理由が必要なのだ。

 それならば、別の手段を用いて動く。それだけだ。

 それが、大精霊シルフのもとに身を置く精霊に課された役目でもある。


『――動く理由は、つくればいい』


 細められた枯れ葉色の瞳。

 びゅおと不穏に風が鳴いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る