精霊と魔族(1)


 ばさと翼を打つ音がジルの耳元で大きく響く。

 その音の合間にティアの声が届いた。


「なんでジルまで来たのよ?」


 向かい風がティアの背を滑ってジルへ襲いかかる。

 それを踏ん張るために掴んでいた彼女の羽毛を、彼はより踏ん張るために力を入れた。

 途端。痛いと言う声が飛び、肩越しに彼女の鋭い視線が突き刺さって来たが、ジルは構うものかと視線を逸らす。

 突き放すような言葉が欲しいんじゃない。


「……精霊の事情にまで首を突っ込むつもりはねぇよ」


 ぶっきらぼうでも、ぶつからなければ置いていかれるだけ。


「けどよ。一緒に居るのは俺だ。一緒に暮らしてるのも俺。なら、お前らに何があったのか、それを知る権利くれぇは俺にもあんじゃねぇのかよ」


 逸していた紅の瞳がティアを睨む。


「……何も知らずに居るのは、結構くるんだぞ? 心配くらいさせてくれよ」


 その瞳がふいに緩むと、声が寄る辺をなくした幼子のように揺れた。


「――だから、訊きに行くことにした」


 ――心配するために。

 はっと琥珀色の瞳が瞠られる。

 肩越しに振り向いていた瞳が前を見据え、ひとつ、大きく翼を打った。


「……勘違い、しないで」


 ジルの耳元では向かい風が唸り声を上げている。

 そんな中でも、ティアの声がする時には、不思議と風の唸りが弱まった。


「私もおじさんもね、あなたが鬱陶しくて遠ざけたわけじゃないの。巻き込みたくなかっただけなのよ」


「……でも、俺はそれが寂しかった」


「そうね。本当にそうよね。……話さないと、言葉にしないと伝わらないことって、たくさんあるものね」


 ティアの声音に別の色の揺らぎがあった気がして、気になったジルが彼女の顔を覗き込もうとした時。


「――っ」


 彼女から苦しげな声が聞こえた。

 そして、突としてジルを襲う浮遊感。


「――ごめん、ジル。落ち、るわ」


「なんっ、のこ――」


 何のことだと聞き返そうとして、ジルは己が落下していることに気が付く。

 慌ててティアへ視線を走らせると、ジルは紅の瞳を見開いた。

 飛ぶ姿勢を取り戻そうと必死な形相のティアの身体に巻かれた包帯――それに、じわりと鈍い赤が滲んでいた。

 過ぎ去る風に紛れた微かな匂いは。つんと軽く刺すように鼻先を掠める匂いは――鉄のそれ。

 傷口はまだ塞がりきってはいないのか。


 ジルとティアは、文字通りに真っ逆さまに落ちて行くしかなかった。




    *




 だが、その落下も長くは続かなかった。

 風が横切ったかと思えば、ジルとティアは軟い何かに受け止められていた。


「来いって呼びはしたが、空から降って来いとは言ってねぇんだけどなあ」


 ばさりと、ティアのそれよりも大きな羽ばたきの音。

 大鳥――フウガの背に受け止められたジルとティアが身を起こすと、肩越しに枯れ葉色の瞳が向く。


「ん、なんだ。ジルまで来たのか?」


 その瞳が驚きで丸くなった。

 が、そんなものは知ったかぶりであることを、ジルはもう気付いている。

 フウガとの付き合いもそれなりになってきたのだ。

 彼が風と共に在る精霊だということも、その風から、様々なことを知り得ることも知っている。


「――全部知ってる上訊くなよ。噛じるぞ。俺はシオと違って、ナマモノでもイケるたちだ」


 元野良ねずみ舐めんなよ。

 フウガに自慢の歯を突き立てようとすれば、ジルの本気を悟った彼が慌てて声を上げるのだった。




 商いの声や談笑の声。海街は活気に満ちる。

 そんな中でも、通りの片隅で集う三人の姿を誰も気に留めないのは、フウガが認識阻害を働かせたから。


「……つーかよ、年頃で多感な男の子への配慮はねぇのかよ」


 家屋の影に隠れる二人に背を向け、通りの人通りを眺めるジルからは、照れを滲ませた不満げな声がもれる。

 彼の頬が仄かに朱に染まっているのも、彼の声に照れが滲んでいるのも、全ては背を向ける要因に繋がる。


「だから、別に私は気にしないわよって言ってるじゃない」


「……そこは俺のために気にしてくれよ」


 頑として振り向く様子のないジルに、ティアは小さく嘆息をもらした。


「私達って獣の姿に転じたり、変じたりするじゃない? その時って、身体に何かをまとうことがないじゃない。だから別に、気にすることないと思うんだけど」


 そう言うティアは、現在服を少しばかりフウガにまくり上げられ、腹の怪我を診てもらっている最中である。


「なのに、何を今更気にしてるのよ?」


「……そー言われっとそーだけど、そーじゃねぇだろ」


 あっけらかんとしたティアに苛立ち、ジルは髪を掻き回そうとするも、頭にターバンを巻いていることに気付いて乱暴にそれを剥ぎ取った。

 銀灰色の髪が散らばるように広がる。


「別に俺、獣のそれには興味ねぇからいんだよ。でもさぁ、魔族になった影響か、人だと何かこう、ちょっとちらっと、気になっちまうっつーか、でも直視は刺激強めっつーか――」


 そこまで言い、彼の朱に染まる頬が一気に深く色付いた。


「って、何言わせんだよ!?」


 そのまま両の手で顔を覆って座り込むジルに、ティアはうんざりした様子で肩をすくめる。


「……勝手に言ったのジルでしょ?」


「つまりは、興味があるってことだろ? まあ、同じ男としてその気持ちもわからねぇこともねぇよ」


「ちげぇっ!!」


 ジルとティアの会話に、ティアの怪我の手当てをしていたフウガも口を挟むが、それはジルの叫びが強く否定する。

 それに構わずフウガは、精霊にも効く薬草を塗布した布を、ティアの腹の患部に貼って服を戻した。


「――……つっ。これ、しみるぅ」


 小さな呻きと共に、ティアの瞳が痛みのために涙で潤む。


「だろーな。けど、これが善く効くんだ、我慢しろ」


「……はぁーい」


 今度はティアの袖をまくり上げて腕の怪我の程度を診ながら、フウガはちらりと横目でジルを見やった。


「ジル、もういいぞ」


 腹はしまった。

 その声にうずくまっていたジルは顔を上げるも、やはり振り向くことはない。


「…………いい。終わるまで待ってる」


「ん、別に男として遠慮する必要はねぇと思うけど? 本人が気にしねぇってなら、ここは別に遠慮するこたぁねぇって」


「気にしないとは言ったけど、そういう話なら、女の子としては遠慮して欲しいんだけど?」


 ティアはじとりとフウガを睨め付けた。




「悪い、俺に出来るのはここまでだ」


「ううん。ありがと、おじさん」


 そう言って、ティアはきちんと服装を整える。

 対してフウガは頭を掻き、その表情は少しだけ苦々しい。


「シシィの奴が居れば、体内のオドまで取り除けたんだけどな……俺にはここまでだ。治癒は水の精霊の特権だからな」


「そんなことないわ。さっきよりも痛みも引いた気がするし、助かる」


 ぐるぐると腕を回してみせるティアに、フウガは苦笑をもらし、彼女の頭を撫で回した。


「けど、数日は安静な。腕は大したことなさそうだが、腹の傷はわりかし深めだ。オドも抜け切るのに、それなりに時間も要する」


「はぁーい」


 姪の頭を撫で気が済んだフウガは、気持ちの切り替えのためにひとつ息を落とした。


「そんじゃ、息抜きは終わりだな。――ジル」


 響きの変わった声に、今度こそジルは振り向いた。

 その顔が、やっと終わったか、と疲労に染まりきっていたのはどうしてか。


「――いい感じに気がほぐれたとこで、報告会といこうじゃねぇか」


 フウガの枯れ葉色の瞳が剣呑な光を宿す。

 それを合図に彼らを囲う認識阻害が色濃くなると、その場はまるで別世界かのような空気感で包まれた。

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