鳥と猫とねずみと


 ティアは空になった皿を一瞥し、気まずそうにふいと視線を逸らす。

 けふっ、とおくびがもれた。


「た、平らげてしまった……」


 スープは脱脂綿に含ませて飲み、小さく刻まれた野菜の具はついばんだ。

 美味しい美味しいと食は進み、気が付けば皿は空になっていた。

 己の食い意地に羞恥が芽生える。

 怪我を負い、初めての場所に運ばれ、そして、かつての繋がりと出逢った。

 なのに、緊張して食が細くなるどころかそれを平らげてしまうなど、己の図太さには呆れる。

 もう少し繊細な心をしているのかと思ったのだが、存外図太いらしい。

 これもまた、ティアがティアとして、きちんと存在しているゆえの証になるのだろうか。

 いや。だが、しかし。もう少し繊細な心は欲しかった。

 これはこれで複雑な心境を抱く。


「……でも、そうよ。せっかく作ってもらったものを残す方が失礼よね。うん、そうよ」


 なんて優しいのか。

 想いやりの心を持つなんて、繊細な心の持主だ。

 自分に言い聞かせるように呟き、ティアは無理やり納得することにした――そんな時だった。


「……本当にちまちまとうるさい奴ね」


「いやいや、他にもっとなんかあっただろ。これじゃ、俺が食われるみてぇじゃねぇかよ」


 外からの喧騒に混ざり、外から話し声がした。

 そのうちの片方は聞き覚えのある声。

 これはジルだ。だが、なぜ彼が――?

 共に居るらしい存在は誰だろうか。

 そんな疑問を感じ取った風が、開いた窓から身を滑り込ませると、ティアへささやきを落とした。

 え。ささやかれたその内容に小さく目を見張り、どうすればいいのかと視線を泳がせる。


 ――三毛猫が来るよ。シオが来るよ。


 ささやかれた言。

 どくんどくんと鼓動は脈打ち始め、外からの物音に身体が跳ねた。

 のろのろと振り向くと、風に揺れるカーテンに小さな影が映っていた。

 時折はためくカーテンから覗く姿は、三毛の毛並み。

 どくん、と大きく鼓動が跳ねた。


「あたしは人に化けらんないんだから、これが手っ取り早いの」


「だからって……これ、獲物を獲ったそれだろ」


 だんだんと近付いて来る声に、どくどくとティアの鼓動が速まり、開いた窓の隙間からするりと身を滑り込ませた姿に――。


「――あ」


 ティアの琥珀色の瞳が見開かれる。

 しかし、彼女の視線を釘付けにしたのは、窓から滑り込んできた三毛猫の姿でなく、その猫に咥えられた銀灰色のねずみの姿だった。


「ジルっ――!?」


 ティアから悲鳴のような声が上がる。

 その声で彼女の存在に気付いたジルが、猫に首皮を咥えられながら小さな前足を振った。

 動作の弾みでぷらぷらと揺れながらも、彼は安堵で表情を緩める。

 しかし、彼女の身体に巻かれた包帯の存在を認め、少しだけ紅の瞳を曇らせる。が、やはり安堵の息はもれた。


「……ティア、よかった。無事、じゃぁなさそうだけど、無事でよ――」


「ジルを食べても美味しくないと思うし、猫ちゃん、ジルを食べないで――!」


 ティアの叫びに、ジルの言葉は途中で掻き消された。




   *




「失礼しちゃうっ、なんでみんなそういうとこに行き着くのかな!?」


 ベッド上に飛び乗ったシオの尾が大きく揺れ、ぴしぱしと尾先を叩きつける。


「あたし、いたいけでかわゆくてお上品な猫ちゃんだからっ! そもそもナマモノは食べないからっ!」


 ふんっ、とそっぽを向いた。

 そんな彼女を少年の姿に変じたジルが抱き上げ、ベッドに腰掛けると膝上に乗せる。

 宥めるように心得ているイイとこを撫でると、途端に彼女は喉を鳴らし始めた。

 これで一先ず機嫌はよくなるだろう。

 ふう、とひとつ息を小さく落とすと、ジルはティアへと視線を向けた。

 その瞳は少しだけ据わっていた。


「つか、美味しくなさそうってのも、俺に失礼じゃねぇのか?」


「……な、なんで私が悪いみたいな空気になってるのよ」


 不服そうな表情を浮かべたティアが戸惑いがちに身を引き、胡乱げにジルへ琥珀色の瞳を向ける。


「なに? あなた、美味しく食べられたいわけ?」


「そうとは言ってねぇよ。食べられたくねぇしさ。ただ――」


「ただ?」


 ティアが続きを促せば、ジルは不貞腐れたように彼女から顔を逸した。


「――ただ、お前もフウガも帰って来なくて、だからここに来たってのに、挙げ句に美味しくない発言じゃん? それが俺の繊細なねずみ心に堪えたっていうか」


 拗ねたように口を尖らせるジルに、ティアは呆れからそっと嘆息をもらした。

 その繊細なねずみ心とやらは知らないが、ここには彼なりに心配して来てくれたらしい。

 その彼の想いが伝わり、じんわりと優しくティアの心に沁みていく。

 だが、そこでふと彼女は違和を抱いた。

 思わず彼を見上げる。


「え、待ってジル。おじさん帰ってないの……?」


「ん、そーだよ。なに? ティアもフウガのこと知んねぇの?」


「知らないわ」


 琥珀色と紅の瞳を見合わせたそこには、互いに驚きの色が広がっていた。

 ジルの膝上のシオは話の内容がわからず、静かにティアとジルの顔を交互に見やるだけ。


「……じゃあ、おじさんは一体どうしたのよ」


 俯くティアの胸中には不安が燻り始める。

 まさか――琥珀色の瞳が見開かれ、大きく震えた。


「――まさか、舟も呑み込めてなかった……? 奴らはまだ、生きてる?」


「ティア……? 何をぶつくさと――」


 彼女の呟きを聞き留めたジルが首を傾げた――刹那。

 窓から風が吹き込み、ティアの周りで渦を描いたかと思えば、また窓から出て行った。

 それに釣られるようにティアも顔を上げ、足がその後を追うために駆け始めた。

 サイドテーブルのふちに足をかけ、ふわりと身体が宙へと上がった瞬に翼を広げ――ようとして、身体に痛みが走り、そのまま落下を始める。

 咄嗟にジルが手を伸ばした。

 しかし、彼の手が届く前にティアは少女の姿へと転じ、もつれるようにして窓辺へと駆け寄ってしまったために、彼の手は空を掴む。

 そんな彼の膝上。突如姿を見せた少女の姿に、シオは静かに息を呑み、カッパー色の瞳をこれでもかという程に見開いていた。

 その瞳が震えながら少女を凝視する。

 窓辺に駆けたティアは、カーテンを開けると窓も大きく開け放つ。

 入り込む風は、緩く編まれた彼女の白の髪をふわりと舞い上げ、なびく髪を手で抑えながら、ティアは風の言に耳を傾けていた。

 ひとつ瞠目し、そっと目を伏せる。


『――やっぱり、私は呑み込み損ねたのね』


 次いで風が紡いだ言を受け、口の端に、にぃ、と冷たい笑みを乗せた。


『……そう、情報が引き出せそうなのね。あとで、おじさんにお礼言っておかないと――それから、呑み込み損ねたって謝らないと』


 最後の言葉はやや気落ち気味だった。

 が、直様調子を取り戻したティアは風に告げる。


『怪我はしたけど、私は大丈夫だっておじさんに伝えて』


 ひゅうとひとつ鳴くと、風は窓から吹き去って行った。

 ジルは外へ視線を投じたままのティアを見つめ、しばしのあと、おそるおそる彼女へと声をかける。

 精霊の言葉のために、何を話していたのかはジルにはわからないが、きっと何事かわかったのだろう。


「ティア、なんかわかったのか?」


 ジルの声にティアはゆっくりと顔だけで振り返った。

 しかし、振り返った琥珀色の瞳に、温度が感じられなかった。

 ジルが身体を硬直させたのは、ねずみとしての本能か。

 雲が流れ、陽を遮ると、風が大きくカーテンを煽った。

 ばさりと大きく膨らむそれはティアの顔に影を落とし、薄暗さの中、爛々と琥珀色の瞳が瞬いた気がした。

 が。

 膨らんだカーテンが萎み、一瞬だけジルの視界からティアを遮ったあと、そこに在る彼女はいつも通りの彼女だった。


「――おじさんが私を呼んでるって、風が報せを運んでくれたのよ」


「……フウガ、無事なんだ」


 ジルがやっと口にした声は掠れていた。


「ええ。だから私、行かなくちゃ」


 ティアの瞳が今度はシオを見やる。

 呆然とした面持ちで少女の姿を凝視していたシオは、ティアの視線に気付くと、びくりと大きく身体が跳ねさせた。

 ジルは訝しげにシオを見下ろす。


「シオ、ごめんね。すごくびっくりさせてると思う。けど、今は話せない。でも、この姿については必ず話す。だからその……今だけは、見逃してくれると助かるわ。すごく、勝手なことを言ってるとは思うけど」


 琥珀色の瞳は困ったようにシオを見つめるも、逆にシオの目は釣り上がり、体毛がぶわりと膨れ上がった。


「――あんた、何者なのよ! なんで、その姿を……それを知ってんのさっ!」


 カッパー色の瞳が強くティアを睨む。

 低く唸るその声に含まれるは、激しい怒の色と。


「あんた、何者なのよ――?」


 途方に暮れた声。そして、畏怖をはらんだ声だった

 ティアはゆるりと首を横に振る。

 琥珀色の瞳が傷ついたように揺れた。


「これが私――私が持っているもののひとつで、私という存在の象徴。必ず、話しに戻るから、だから――」


 混乱して呆けたままのシオを見やった――その、刹那。

 がちゃり。ひとつの音が、張り詰めた空気を一瞬にして支配した。

 部屋の扉が開き、一同の視線がそちらへ向けられる。

 息を呑む気配がした。

 扉を開けた存在は、一点を見やったまま微動だにしない。

 ティアもまた、縫い留められたかのように動けなかった。


「おねーちゃ……?」


 愕然とした面持ちに、驚愕に染まった声音。

 その声音が紡ぐのは、拙い響きを持った拙い呼び名。

 きりりとティアの胸が痛んだ。

 何か言葉を発するべきだろうか。

 そう思うのに、声が絡まって出て来ない。

 そうしている間に、彼が――セオドアが動いた。

 ティアの、正確には彼女の顔を凝視したまま、拙く一歩を踏み出す。

 その一歩に、愕然とした面持ちで身体を硬直をさせていたティアが、はっと我に返る。

 固くと目をつむり、振り払うようにかぶりを振った。

 薄く開いた瞳は痛切な色を宿し、彼女の方から視線を逸らす。

 何かを堪えるようにもう一度目をつむると、窓を振り向いた。


「――ごめんね」


 風がティアの髪を巻き上げる。

 それが合図だった。

 ジルが瞬でねずみの姿へと変じ、駆け出した。

 ティアという存在の輪郭がぶれ、カーテンが大きく煽られた時には、空へ真白の鳥が羽ばたいていた。

 慌ててシオが窓辺へと駆け寄り、そのあとをセオドアが追う。

 一匹と一人が窓から空を仰いだ。

 目を凝らすと、真白の鳥の背に銀灰色。ジルだ。

 そして、頃合いよく強く吹き付けた風に思わず目をつむると、次に目を開いた時には真白の鳥の姿はなかった。


「――――っ」


「…………」


 ひとつの吐息と、ひとつの吐息が重なる。

 それは風に溶けると、空へと巻き上げられていった。

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