猫と約束の彼


 その夜も、シオは集いに顔を出すため、飼い猫して飼われている家を抜け出していた。

 集いと言っても、海街で暮らす顔馴染みの魔族達は去ってしまい、今では彼女とジルのふたりだけになってしまった。

 だが、数日おきだった集いが、近頃は毎日のように開かれている。

 どちらかが言い出したわけでもなく、何となく、気が付いたらそうなっていた。

 ただ集まって、語らって、そして、それぞれの生活へと戻って行くだけの、ただの集まり。

 集いの誰かが何かあっても、気が付いても気が付かぬふりをする。

 互いに干渉しないのが、暗黙のそれだった。

 だから、集いの誰かがふらりと居なくなっても、ふらりと新しい顔が増えても、誰も気に留めない。

 そんな中で、シオとジルの付き合いはそれなりに長い。

 そして、最後に残ったのもシオとジル。これも何かの縁なのだろうか。


「……けど、今夜はジルの奴来なかったな。なにかあったのかな」


 海沿いに石畳の道を歩くシオは、ゆらりと尾を揺らしながら呟く。

 今までもなかったわけではない。だが、毎日のように集うようになってからはなかったのだ。

 じわりと、シオの心に不安という名のそれが顔を覗かせる。

 妙に落ち着かなく、じんわりと焦りも感じて、海を眺めたくて街外れまで来てしまった。


「あーやだやだ。不干渉が暗黙のそれだったのに、あたし、あいつのこと心配してる」


 ――それでもお前、去った奴らのこと気にしてたじゃん。


 吹き渡る海風の中、そんな彼の声が聴こえた気がした。

 くすぐったく震える心に、シオは思わず足を止める。

 左耳の耳飾りが風に揺れ、しゃらんと軽やかな音を耳元で奏でた。

 幻聴まで耳にしてしまうとは。


「……絆されてる。そうよ、絆されてる」


 海へと見やっていた据わったカッパー色の瞳が海街を振り返る。


「単なる集いだったのに、あんなのと顔を合わせる回数が増えたせいで、なんか仲間通り越して――……」


 そこまで口にしてからくちごもり、むぐぐと顔に力を入れる。

 心の奥、その軟い部分が仄かな熱を放つ。

 この熱を言語化してしまえば、たちまち、己にとっては不都合になることを自覚せざるを得なくなる。

 それは、出来れば避けたいところ。

 だって、自分と彼は、それ以上にはなれないのだから。


「……そう、そうよ。仲間っぽい、感じに思えちゃうじゃない」


 ひょんと揺れる尾は照れ隠しか。

 少しだけ顔が熱い気がした。

 もう今夜は帰ろう。そうしよう。

 そう思い、シオが踵を返しかけた時だった。


「――?」


 つんっと、鉄の微かな匂いを鼻に感じた。



   ◇   ◆   ◇




 窓枠の軋む小さな音が、部屋を包む夜の静けさを揺らす。

 次いで、がたがたと大きな音を立てた気配は、少しだけ開けた窓からするりと身を滑り込ませる。

 その音を聞きつけ、ベッドで掛布にくるまり眠っていた塊がうごめいた。


「……あ"ー……? しおぉー……」


 地を這う声は不機嫌増しなそれ。

 のそりと起き上がると、ココアブラウンの前髪を掻き上げ、苛立ち滲む深い森色の瞳が窓を見やる。


「……帰ってくんなら、もっと静かに帰ってこいよ……バカシオ……」


 大きなあくびがひとつ。


「俺様は繊細だからな、眠りが浅いんだよ……ちっせえ物音ひとつで――……」


 みゃ。窓から滑り込んだ気配――シオが鳴く。

 窓枠から降りた彼女は、とたたと迷いない足取りでベッドへと向かう。

 口悪く文句を並べていた塊――セオドアは、彼女のまとう雰囲気が違うことに気付き口を閉じた。

 夜闇により、ぼんやりと三毛猫である彼女を認識出来る程度で、いまいち様子は掴みきれない。

 セオドアはベッド脇の置き棚へと手を伸ばすと、手持ちランタンのツマミを捻った。

 セットされている魔結晶から魔力が通い、ランタンに意匠として彫られた陣が、魔力を動力とし微かな光を伴って展開する。

 手持ちランタンに灯りが灯ると、部屋をぼんやりと照らし出した。

 それを手に持ち、シオを照らし出すと――。


「――バカシオ。俺様に生の鳥なんて狩って来られても困るっつーの。捌き方知んねぇし、そんなら伯母さんに持ってけよ」


 真白の鳥を咥えた彼女の姿があり、彼は半目で呆れた顔を浮かべる他なかった。


「……いや、それともあれか……? 狩りが出来ねぇ、可哀想な奴認定されてるのか? 俺は」


 面倒をみてやらなければと、獲物を分け与えることもあるとかないとか。

 猫の習性なのか、そんなことをどこかで耳にしたことがあるな、とセオドアはぶつぶつと呟く。

 が。

 シオは焦れたようにみゃんみゃんと鳴き続ける。

 不機嫌に眉を寄せたセオドアが、煩いと剣が宿る瞳で注意しようとした時。


「――ちょい待て、シオ」


 彼女が咥える真白の鳥が微かに身動いだ。


「……それ、生きてる」


 それがわかるや否や、シオから奪うように鳥を保護し、猫である彼女が近付かないように部屋の外へと追い出した。

 扉の向こう、廊下からは抗議のような声が聞こえる。


「煩いぞ、シオ。まだ息があんならバカシオの朝飯には出来ねぇし、あんま煩いと叔母さんが起きる。諦めろ」


 それだけ扉向こうに言い残すと、セオドアは壁に備え付けの魔結晶に触れて部屋の照明を点けた。

 部屋が一気に明るくなる。

 手持ちランタンの灯りを落とし、抱えていた真白の鳥をとりあえずベッドへ横たえた。


「……傷が深い。バカシオの奴、遠慮なくいったな」


 真白の羽毛を染める赤に険しく目を細めた。


「清潔な布地と、あとは――」


 手当てすべく、セオドアは部屋を歩き回る。




   *




 廊下。セオドアに部屋を追い出されたシオの尾は、ぴしぱしと大きく左右に振れていた。


「なーに、あれっ……! 失礼するっ! あたしが狩って来たとでも思ってるわけっ!?」


 信じらんないっ。

 すとんと尻を落して座る彼女のカッパー色の瞳は、暗闇の中で不機嫌にきらめく。


「怪我してる子を見つけたから、テディに診てもらおうと連れて帰っただけなのに、なに……? 狩った!? このかわゆい猫ちゃんのあたしが? はあ??」


 テディとはセオドアの愛称だ。

 シオは親しみを持って彼をそう呼ぶ。

 飼い猫のふりをしている彼女だから、彼の前で実際にそう呼ぶことは出来ないが、彼女にとって彼はそれだけの存在なのだ。

 だけれども、時として看過出来ないこともある。

 そして、耳の良い彼女は聞いてしまう。

 ――……傷が深い。バカシオの奴、遠慮なくいったな、と。


「だからあたし、狩ってないもんっ!!」


 苛立ちゆえか、飛び出た爪が廊下の床を掻いた。


「テディのぶわあぁかぁっ!!」


 叫び、荒く息をする。

 尾はぴしと幾度も床を叩きつけ、怒りで揺れる瞳は、扉向こうのセオドアを睨んだ。


「ふんっ、いいよーだっ。部屋を出る時に困ればいいんだわっ」


 吐き捨てると、シオは扉前で身体を丸めてふて寝することにする。

 絶対に動くもんかと硬く目をつむった。

 相変わらず尾は床を叩きつける。

 沸く苛立ちは、解ってくれないセオドアと。


「……これ全部、直接テディに言えればいいのに」


 そして、未だ己の正体を明かす勇気の出ない己に対してだった。

 普通の猫のふりに窮屈を覚えるようになったのは、ここ最近ではない。

 シオには約束がある。彼を見守るという約束が。

 だから、彼は大切だ。傍に居なければならない。

 最も、彼の傍に居る理由は、今はもうその約束だけではないが。

 いつまでも隠せるものでないことはわかっている。

 とうに猫の時間尺から外れたこの身は、普通の猫だと思っている人からみれば、老いていないことを不審に思われていたとて不思議ではない。

 老いていないわけではない。不死でも不老でもないのだから。

 ただ、普通の猫のそれと老いる速度が違うだけ。

 言うなれば、人の速度に近いだけ。これでも、魔族に類してしまえば、早く散ってしまう短なものだ。

 けれども、猫にしては遅いそれ。

 それを明かせぬわけは――。


「……あたしが怖がってるだけ、か」


 関係が崩れてしまうかもしれない。

 それが、怖い。

 何も約束を果たすだけならば、別段彼の傍に在る必要はなく、遠くでそっと見守るだけでもいいはずなのだ。

 だが、それが出来ない程には情が育ってしまっていた。

 けれども、そのためには――少しだけ、ここは息苦しい。

 そうして、唐突に思い出す。

 顔を上げたシオは、廊下の窓から夜空を見上げた。

 瞬く星は弱くなり、その弱い瞬きは眠たげだ。

 夜明けは近い。


「……結局今夜は、ジルに会えなかったな」


 夜の気配がたゆたう廊下に、拗ねた声が溶ける。

 彼女が唐突に思い出したこと、それは――ジルの隣は息がしやすいな、ということだった。

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