第六章 鳥、その道行
悪化するのならば、いっそ
風に呼ばれ、ティアは夜の海街を駆けた。
案内されて降り立った場所は、船というよりも舟という形容が合っているような、そんな小さな造りの舟。
異様なのは、その舟上は魔力濃度が濃く、まるで閉じた空間に魔力が集まったような感じだったこと。
軽く目眩に襲われ、しっかりしろと自身を叱咤して小さくかぶりを振る。
くらりと歪む視界の中、ティアは舟上を確認して行く。
暗がりだとしても、彼女の目はしっかりとその景色を映す。
そうして慎重に確認して行くと、暗闇に乗じて黒い布が紛れていることに気付く。
『――……』
嫌な予感がした。つうと伝う冷や汗のようなものを感じながら、ゆっくりとその黒布に手を伸ばし――剥ぎ取る。
瞬、現れたそれに息を呑んだ。
その舟には逃げられないようにするためだと思われる、結界の陣が彫られた囲い。そして、その中に幼い精霊の姿があった。
この囲いは――檻だ。
囚われた彼らは怯えて震え、その姿形が解けかけていた。
ティアの姿を目にした途端、安堵したように幼い彼らが泣き出してしまう。
『――大丈夫よ。だから、安心して』
慌てて身を屈めた。
檻の格子の隙間から指を指し入れ、慰めるように幼い精霊らを撫でる。
ティアの琥珀色の瞳が柔く細められ、幼い彼らもその表情を和らげた。
その、刹那だった。
突として彼らが恐怖で顔を歪めた。
半瞬遅れ、ティアの琥珀色の見開かれる。
魔力濃度が濃いせいで気配が隠されてしまっていたのかもしれない。
「おい、ここで何してる」
ここで初めて背後に立たれていることに気が付き、弾かれるように振り返ったけれども遅かった。
迫るきらめきは何だっただろうか。
それを視認する前に、それが横凪に払われた。
ただ、そのきらめきが紅の色をまとっていたのは見えた気がした。
横凪に払われた反動で少女の姿は解け、真白の鳥の姿で舟上を転がって行く。
舟壁に叩きつけられた痛みに気付く前に、身体に走った熱に呻く。
伝う生温かいそれ。鳥ゆえか、ぼんやり程度にしか感じない鉄の匂い。
けれども、それだけで切り裂かれたと判ずるには十分だった。
次いで揺蕩う意識。切り裂かれた箇所からの違和――それは身に覚えのある、それ。
そして――紅のきらめき。
魔力をまとった一閃。
実体はあれど、精霊を成すのはマナ。ゆえに常の攻撃では致命には繋がりにくく、ならばどうするか。
それは魔力を介すればいい。簡単な話だ。
この感じ、魔力は魔力でも多量のオドが練り込まれている。精霊にオドは毒だ。
まだマナならば耐えられたかもしれないのに。
揺蕩う意識でそこまで考え、走る熱と押し寄せる痛みに、意識が遠くなっていくのを感ずる。
「このガキ、精霊だったのか」
気配が近付く。
「人の姿の精霊は上物よ。これも拾っとけ」
言の端に温かみはなく、在るのは無機質な“もの”としての冷めた温度。
こんな輩に捕まるのはまずい、駄目だ。ティアの本能が告げる。
遠退く意識を必死に手繰り寄せ、彼女は弱々しく薄目を開けた。
のろのろと琥珀色の瞳が彷徨い、やがて己へと手を伸ばす輩を視界に認める。
その瞬。一気に激情が駆け巡った。
己が捕まれば事態はより悪化し、さらにその加速度が増してしまう。
それはこの場の精霊にも当てはまり、この数の精霊らが捕まれば、面倒事がさらに面倒事になってしまう。
それは精霊として、風に呼ばれた者として避けねばならない事態だ。
ならば――。
『――――』
ティアの僅かながらに開いたくちばしから、か細い声がもれる。
輩には届かなかったそれも、周囲に留まり、静かに事を見守っていた風には確かに届いた。
ひゅううと甲高く風が叫ぶ。
周囲を渦巻き始めた風に、伸ばしていた手を引っ込めた輩は、不気味なものを見やる瞳で辺りを見回す。
「な、なんですか、これ……?」
「……知るか」
怯えを滲ませる声。
怯えは悟らせぬが、それでも警戒を滲ませる声。
ティアが薄く笑う。鳥なのに、嗤った。
その様を視界の端で見た輩の一人が、不気味なこれの根源はこの精霊かと、切り捨てるために切先を振り上げる。
囚われた精霊らが声を上げた。まるで何かを告げるように。
その声が合図だったのか――。
――舟上に鮮血が舞った。
不気味に渦巻いていた風が、突如としてその身を刃へと変じると、輩共へ斬りかかる。
それは一閃、二閃と続き。その度に鮮やかな赤が舞う。
そして仕上げとばかりに風が唸り声を上げ、強く舟を煽りつけて海へと投げ出す。
何もかもを海へと放り投げた。
唸る風に同調した海が、放り出されたそれらを波を起こして飲み込んだ。
事態を悪化に繋げるならば、全てを無にしよう――。
◇ ◆ ◇
波音のしない海辺。凪いだ海は不気味だった。
波音が聴こえるような気がしてしまうのは、長らくここに暮らすしているがゆえか。
『ティアの奴、風を繰ったのか……?』
ばななに誘われるままに海街を駆け、フウガは海面から突き出した岩肌に降りた。
ここが一番、色濃い。残り香のような残滓はティアのものだ。
不気味な程に凪いだ海。風が吹かない無風地帯。
フウガがいくら声をかけても、風からの応えがない。
こんな現象、風を操ること以外には考えられない。
『……あいつ、それ程に風との親和性が高かったのか?』
あり得ない。
それを、生まれてたった十数年の精霊が行った――そこまで考え、フウガはかぶりを振る。
『――いや。そもそもあいつは、風にこちら側へ喚ばれた存在だったな。それ程までに風に好かれた魂――理なんざ、端から外れた奴だったじゃねぇか』
人は人の輪廻。精霊は精霊の輪廻。
それぞれで廻るはずのそれから外れたのが、ティアという精霊だ。
本来、人の輪廻で廻るはずの魂が精霊として廻るのは、自然の理に反すること。
なのに、彼女は精霊として廻った。
それは風に呼ばれたゆえで――。
そこまで考え、フウガは嘆息ひとつ落とす。このことは一旦脇に置くことにする。
風に改めて問うも、やはり応えはない。
彼の心に焦燥が滲む。
『何があった――?』
常ならば状況を知っている風が応えてくれるのに、そもそもがここに風が居ない。
焦燥滲む苛立ちに、髪を掻き上げた。
そこにひとつの風が走る。
《ふうが、あっち》
誘導するように走り去る風に、フウガもその後に続いた。
*
海辺。海面から伸びた手は、防波堤代わりに積み上げられ、海面から顔を出す岩の肌を掴んだ。
次いで、ぷはと顔を出したのは男。
呼吸を確保し、荒くなった呼吸を整えて余裕が出来てきた男は、ちらりと辺りを見渡す。
遠く、底を天に向ける舟だったらしき物を見つけ、ちっと忌々しげに舌打ちを落した。
折角のあれが台無しだ。
同業だった彼は海に呑まれてそのままなのか、人影ひとつなかった。
「まあいい。やり直しは出来る」
岸辺まで泳ぎ、近くの桟橋へと手をかける。
腕に力を込め、上体を持ち上げ――たところで、男に影が落ちた。
訝ってその影を見上げると、誰もいなかったはずの桟橋に人影が立っていた。
その人影が自分を見下ろしているではないか。
薄ら寒気を感じた男だったが、怪しく思う気持ちが顔を覗かせる前に――。
首から伸びた鮮やかな赤が、宙に横一閃を描いた。
とぷん。思いの外、軽やかな音をたてて何かが沈んでいった。
桟橋の人影が横一閃に走らせた指先を、今度は払うように手先を動かす。
ここら一帯無風だったにも関わらず、何処からともなく風が唸り声を上げて駆けて来る。
そして、海を押し上げ波を荒く立てたかと思えば、じんわりと海面に滲んでいた赤を呑み込み、静まったのちに残るのは、元の海の色だった。
『――事態の悪化は防がねぇとな』
落とされた呟き。
桟橋の人影――フウガは、温度のない枯れ葉色の瞳をしばしそこに向けていたが、やがて風をまといその場から姿を消した。
波音も立てずに海は静かに佇み、風は吹かない――。
街外れの浜辺。
『無にするって判断はあの状況下では頷けるが、こうして無にしようとして無に出来てねぇのは、精霊として未成熟だからだろうな』
それはいくら自然との親和性があったとしても、それだけで覆せるものではない。
寄せては返す波にさらされ続けていた檻を拾い上げ、囚われの精霊らが単に気絶しているだけだとわかると、フウガはほっと安堵の息を吐いた。
『……中には流された精霊らもいるようだが、大半が何とか無事なのは、幸いなのかどうか』
複雑な響きを持った声で肩をすくめる。
無にしようとして、無に出来なかった。
散ろうとして、散りきれなかった。
けれども、やはり同胞が助かったのは素直に嬉しいとも感じる。
心は常にままならぬものだ。と。
「……うぅ」
ふいにフウガの耳は小さく呻く声を拾った。
振り向けば、打ち上げられ、身体半分を海に浸からせた男の姿。
着衣は破れ乱れ、肌は所々じわりと赤に染まっている。
そのなんとか命拾いしたらしい姿に、フウガは薄く口の端を引いて笑った。
枯れ葉色の瞳に冷たい焔をちろりと灯す。
ざっざっと砂浜を踏みしめる音に、その男はぼんやりと顔を上げて――。
『――これはいい拾い者をした。お前なら、いろいろと吐きそうだな』
暗く嗤うフウガを視界に認めて、ひいと悲鳴に近い引きつった声を上げた。
ざん、ざざん。海は静かに、浜へ波を寄せては返す。
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