閑話 とある猫と犬の話
海街にたゆる波音や、海鳥の声を子守唄に惰眠を貪る日々。
窓辺から注ぐ陽は、カーテン越しに勢いが落ちて柔く注ぐ。
それが微睡むには丁度良くて、時折老夫婦が撫でる薄くて柔い手が安心を呼ぶ。
喉を鳴らせば、老夫婦の朗らかな笑いが響いて、また微睡む。
なんて怠惰な生活なんだと思うけれども、それは猫である己の特権だ。
老婦はゆうらりゆらりとロッキングチェアに揺られながら外を眺め、元気な声を上げて路地道を駆けて行く子供達の姿を見ては微笑む。
老夫は婦人の隣でコーヒー片手に新聞を読むふりをしては、横目で彼女を見やって静かに微笑む。
そうして時々、老夫婦は窓辺で微睡む自分を撫でては、互いに顔を見合わせ笑みをこぼす。
そんな穏やかな日々。
海街は日々忙しなく時は流れて行くのに、この家の中だけは、とてもゆっくりと流れていく。
自分はとっくに猫本来の時間尺ではなくなってしまっているのに、そんなことに老夫婦はとっくに気付いているはずなのに、知らないふりをして、ずっと傍に置いてくれている優しい老夫婦。
そんな場所が好きだった。
不満事なんてなくて。ひとつあるとすれば、時折遊びに来る老夫婦の孫が厄介なくらいで。
老夫婦のカタチをして息をする幸せ。その傍に居られること。
それが自分にとっての大切だった。
なのに――。
微睡みながら、猫は自身の気に入りのクッションに身を埋める。が。
「……やめてくれないかい」
不機嫌な声をもらしてクッションが離れていくではないか。
手繰り寄せるように前足を伸ばす。すると。
「いい加減にしたまえよ」
手荒く払われた。
そこでようやく猫の意識が浮上する。
「……俺の気に入りクッションが」
「どうせ身を埋めてくれるのなら、君のようなボロ猫じゃなくって可愛子ちゃんがいいよ」
不満そうに鼻を鳴らす存在に、猫は気怠そうに顔を向けた。
「ひっでぇー……、折角懐かしい夢を見てたのによぉ」
僅かに動くだけで、息も上がり身体が悲鳴を上げる。
くぅ、と呻く声がもれた。
「……今日も随分と搾り取られたようだね」
先程まで機嫌を悪くしていた存在が、今度は憐れむように猫の顔を覗き込む。
動きに合わせて揺れるふわとした体毛は、こんな薄暗く薄汚いところに放り込まれても、その柔らかさは失わない。
垂れた耳に、土色のふわとした体毛を持つ彼は、猫にしてみれば、かつての生活で愛用していたクッションに似ている。
だから、猫は彼をクッションと呼ぶ。
「クッションがどうかしてるんだぜ? あんただって、絞り取られ生活は同じはずなのに、どうしてだか元気だよな」
「ふっ、元が違うのさ。先祖返りである魔族猫ちゃんの君とは違って、魔族と獣である犬の合の子だからね。もともとの血の濃さが違うのさ――ところでグレイ、クッション呼びはいい加減やめたまえ」
「は? 野良の犬に混ざって暮らしてたから、自分に名前はないって言ったのはあんただろ? だから、お優しい俺様が素敵な名を差し上げてやったんだぜ?」
「それでクッションなのは君のおつむのせいなのかな」
呆れたとばかりに、クッションは重ねた前足に顎を乗せる。
「……お前は似てんだよ。俺の暮らしで愛用してたクッションに」
先程までと違った沈んだ声は、そこに懐かしさをはらんで揺れる。
まるで、昼の余韻を残して暮れる夕暮れの寂しさだ。
薄暗い部屋の中、猫の翠の瞳が切に揺れる。
猫の、グレイの灰色の体毛はこの暗さでは呑まれてしまい、彼の様子は窺いにくい。
クッションがグレイと会ったばかりのころは、その体毛はビロードの如く艶を持っていた。
それだけで、彼がどんなに大切にされていたのかわかるくらいで。
クッションは少しだけその暮らしを羨んだ。
その日暮らしだった己と違う暮らし。少しだけ彼の心に影を落とす。
「……かつての暮らしは忘れたまえ。もう、この檻からは出られないさ。これから僕たちが送る日々は、時折檻から出され、魔力を搾り取られる日々――それの繰り返しさ」
グレイに憐れな眼差しを向けたあと、興味をなくしたように顔を背けた。
「忘れられず、常に脱しようと動くから、見せしめも兼ねて余分に搾られるんだよ」
ふんっと小馬鹿にしたように笑うと、吐き捨てるようにまくし立てる。
「僕や……ここの皆のようにあるがままを受け入れてしまえば、動けなくなる程は搾られないし、食べ物は十分に与えられる。その日暮らしだった僕にとっては、ある意味贅沢な暮らしだねっ」
苛立ちにまかせ、ふぁさと尾を揺らした。
横たわる沈黙。さすがのグレイも押し黙ったか。
そろそろ己に魔力が搾られる番が回ってくる頃だ。
それまで温存も兼ねて少し眠ろうかと、クッションが静かに目を閉じかけた時。
「……あーでも、俺の愛用クッションは金色をしていたな」
至極どうでも良い話がぽつりと語られ始めた。
「定期的におばあが洗ってくれてた。……あー、そうそう。前におじいがこーひーを溢した時は、しみになるじゃないかっておばあに怒られてたぜ」
くすと忍び笑いをもらすグレイに、クッションは苛立ちを瞳にはらませた。
薄暗い中、剣の宿ったそれが睨む。
「――俺はあそこに帰りたい」
「……無駄さ。常に脱しようと動いては失敗をする君が、それを一番よくわかっているはずじゃないか」
「ああ、そうだな」
いつつ、と苦悶に揺れる声をもらしながら、グレイはゆらりと身体を起こす。
この動作だけでやはり息が上がる。
なんて情けない。皮肉げに笑いながら思うも、グレイの翠の瞳は輝きを失わない。
「それでも、俺は諦めないぜ」
不敵に笑ってみせる。
「……勝手にすればいいさ」
「ああ、そうする。またあんたをクッション代わりにさせてくれれば有り難い」
吐き捨てるクッションに、グレイはにしと笑った。
よろめきながらクッションに歩み寄れば、グレイはそのまま彼へと寄りかかる。
崩れ落ちるように横たわると、ひと心地つくように息をもらし、グレイは目を閉じた。
気に入らないことをするね。クッションは不機嫌に目を細めるも、今度は離れなかった。
ふんっと苛立たしげに鼻を鳴らすだけに留める。
「僕は土や埃で汚れているだけで、本当は眩いばかりの金色が自慢な毛並みさ」
ぼそりと呟きを置いてから、再び重ねた前足に顔を乗せて目を閉じた。
「ならさ。ここを脱せたら、俺の家に来てクッションになってくれよ、クッション」
「はっ、人の言葉を解して操り、犬の時間尺からも外れたハグレモノを、囲って慈しんでくれる家なんてあるものかい」
「……ハグレモノ、か。懐かしい響きだぜ」
「なんのことさ」
片目だけを開け、クッションは訝しげにグレイへ視線を投じる。
「いや、街に居た奴らが、俺らみたいのをそう称してたと思い出してな」
楽しげなグレイの声が転がった。
「ただ集まって、語らうだけの奴らだったけどよ。それが案外心地よかった」
「君の仲間ってわけかい?」
「……そう、だな。仲間っぽい奴らだ」
「ぽいって、なんだいそれは」
クッションは呆れたように息をもらすも、くつと面白そうに薄く笑った。
「……でも、楽しそうだね。君の居た街は」
その声にはらむのは羨望な色。
焦がれに揺れる声は、ショーウィンドウに飾られた玩具を眺める子供みたいだ。
グレイがクッションへ身を寄せた。
「何としても俺は帰るんだ。だから、あんたも一緒に来ればいいぜ。おばあもおじいも良い奴だ。あんたのことも迎えてくれると思う」
「……」
「街の奴――ジルもシオも、他の奴だって、気のいい……奴ら、ばっか……だからさ……――」
次第に萎んでいった声。やがて、寝息だけになった。
疲れの色が濃く滲むその寝息に、やはりクッションは憐れな目を向ける。
「……このままじゃ君、脱する前に身体がもたなくなるよ」
グレイから応える声はない。
泥のように眠るとはこのことか。
深い眠りに落ちた彼を労るように、クッションは身体を丸め、彼を自身の体毛に包んでやる。
少しでも彼の疲弊を癒せるようにと。
「どうせ抱えるなら、可愛子ちゃんがよかったよ」
悪態をつき、不服そうに息をもらすと、クッションの意識も次第に眠りへと誘われ始めるのだった。
これは、とある猫と犬の話だ。
いつかの時の、とある場所――。
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