白狼が道行
情報共有として、互いの持ち得る情報を提示する場となったのち、日暮れを合図に解散となった。
それからは、あっという間に屯所は夜の気配に包まれる。
町に居を持つ者が家路につき始めるだけで、もともと勤め人の少ない屯所内は静けさで満ちる。
明かりも最低限。時折窓に揺らめく灯りは、夜勤めの者が持つ燭の明かり。
しかし、それも僅かであり、大半の者は眠りに就いている、夜も濃く深まる時間帯。
灯りひとつない輪郭すら喰む暗闇に、境が曖昧な白がぼんやりと浮かび上がり、廊下を闊歩する。
ちゃっかと静かな廊下に響く爪の音。
揺れる尾はふぁさと白を揺らし、空の瞳は夜でも景色を映す。
白狼、スイレンは夜の気配に満ちる中を楽しむように、廊下を何とはなしに歩いていた。
そんな時、突として片耳が動いた。
空の瞳が動く。
予期していたのか、瞳が窓を向いた瞬、風が廊下の窓を控えめに小突く。
『ばななか?』
窓辺へと近寄る最中、瞬きひとつの間でスイレンは人の姿へと転じる。
窓を開け、少しの隙間をつくってやると、するりと風が滑り込んだ。
そのまま風がスイレンを巻き、彼の耳元に報せのささやきを落とすと、空の瞳は瞠る。
難しげに眉を寄せた彼を誘うように風は廊下を走り出し、ひゅうと小さく鳴いて彼を促す。
風が向かう方向に合点したスイレンもまた、同じ方向に足を向けた。
*
屋外。屯所の屋根に登ったシシィは、遠くの海を見晴らしていた。
日中は人々の営みで賑わっていた町も、すっかり夜に眠り静けさが満ちる。
肌に触れる空気も、柔くあたたかい春のそれは影を潜め、冬の余韻をはらんだ夜気が彼の白の髪を撫でた。
襟元で束ねた髪も、髪紐を伴って静かに揺れる。
遠く響く波音を耳に、シシィは星を抱く夜の空を仰いだ。
『《
口にしたのは彼女の名。
もしかしたら、彼女に届くかもしれないと淡い期待を込めて。
ひるぅ、細く鳴いた風がその声をさらっていく。
碧の瞳が細められた。
情報共有となったあの場にて、シシィから皆に伝えられる新たな情報は、シルフの名の下に動いていることくらいだった。
この屯所に訪れることとなった経緯は、パリスがジャスミンから大まかな情報を既に引き出していたから。
逆にシシィが初めて知り得る情報の方が多かったくらいだ。
ひとつ。人の国に住む魔族の所在が不明になっている事案が増えていること。
ひとつ。紅魔結晶が生成されたオドの質は魔族だということ。
その上、編み込まれた陣を解析すると、精霊の関わりも示唆されたこと。
それを踏まえ、人と精霊が共に協力体制をとることとなったこと。
そして――。
『……精霊捕獲の場にルゥが居合わせたこと』
細められた碧の瞳が歪み、ぎゅっと硬く閉ざされる。
彼女がそのような事に巻き込まれているとは思わなかった。
その間自分は、うだうだとうじうじとしていたのが腹立たしい。
彼女の所在については教えてもらえなかった。
知らない、との返答に嘘もなかったように思う。だから、本当に知らないのだろう。
不思議と気持ちは凪いでいた。
閉じていたまぶたが持ち上げられ、碧の瞳が顔を覗かす。
吐息は細く、夜気に紛れた。
刹那、風が走った。小さくシシィを巻き上げ、彼の肩に渦巻くと顕現する。
姿は真白の小鳥。円な瞳がシシィを見上げる。
『ばなな……?』
戸惑いに揺れる声に、真白の小鳥は囀りを持って応えた。
『――シルフから報を預かったそうだ』
夜に馴染む聞き慣れた声にシシィは振り返る。
父上、と口だけ動き、シルフとの名にまぶたを震わす。
『報って、何……?』
肩口のばななを見やり、シシィはその報とやらを待った。
ややして、ばななは彼を見据えて告げる。
『てぃあ、つかまった、わざ――』
瞬。周囲の空気に含まれる水の気が震え、シシィやスイレンらの服やらを湿らす。
『誰に』
問う声は低く、ばななは湿った羽毛を嫌って小さく翼をばたつかせた。
弱く風が吹き、湿り気を飛ばして行く。
『まず、つづき、きいて。さいごまで』
『ばななの言う通りだ。とりあえず彼女は無事だ。落ち着きなさい』
シシィの隣。腕を組んだスイレンが嗜む声でシシィを軽く叱る。
ばつが悪そうに顔を歪めると、シシィは口を引き伸ばした。
『てぃあ、つかまった、わざと』
『……わざと?』
『くにの、はし。かぜ、てぃあ、よんだ――よんでる』
『呼んでる? 呼んでるから、ティアが自ら捕まりに行った、そういうこと?』
眉を寄せて聞き返すシシィに、ばななはひとつ頷いて肯定する。
『なんで?』
首を傾げるシシィに。
『かぜ、そのみちびき――』
それきりばななは閉口した。
要領を得ない返答。消化不良な答えにシシィはスイレンを見上げる。
『風の精霊は、時に風に導かれるという』
彼らの間を風が横切って行く。
『ティアちゃんも、その導きに従ったのかもしれん』
それに、国の端か。
スイレンのささやき、シシィの耳はしかと聞きとめた。
『国の端がどうかしたの? ……確かそこって、精霊も去った影響で永らく状況がわかってない、人の領地がある土地じゃなかったっけ』
『ああ、そうだ。自然も栄えず、疲弊した土地柄ゆえに風も吹かないから、情報も流れて来ない土地だったんだが……』
『――ねえ、ちょっと待ってよ、父上』
見開かれた碧の瞳。
シシィは振り返り、夜に揺れる遠くの海を見た。その瞳はさらに遠くを見ようと凝らす。
『……その土地が呼んでる? 風の吹かない土地が……?』
小さく震えを帯びる声。
『……ああ。つまりは、自然が動いた――とも受け取れるな』
その応えの声は硬く。スイレンの空の瞳は細く鋭く、揺れ惑う。
『自然がそんな急速に……? しかし、風は精霊を呼んだ。……もしや、精霊が地に戻ったのか?』
真剣な面差しで呟くスイレンを、シシィは不安げに見やる。
ざわつく胸が煩わしく、手で服の胸元を掴んだ。
届く波音が不穏に鼓膜を震わせる。
ざん、ざざん――絶え間なく耳に届く波音。
脳裏に過ぎるは紅のきらめき。
それは精霊を惑わす魅惑のきらめき――。
『……紅魔結晶』
二つの声が重なった。
はっとして顔を上げた両者。碧と空、二対の瞳の視線が絡まった。
両者共に同じ結論に辿り着いたということ。
風の自然霊であるばななは、静かにシシィの肩で成り行きを見守る。
その彼が異を唱えない。つまり。
『ねえ、父上。それで精霊が呼ばれてる可能性って、あると思う……?』
『……可能性で言えば、否定は出来ない、し……可能性としては高い』
何より、風――ばななが沈黙している。
風は時に導く、存在。
『じゃあ――』
ぱっと喜色を浮かべるシシィに、しかし、スイレンは首を横に振る。
『推測だけで領地に踏み込むわけにはいかない。これは、そう単純なことではないんだ』
複雑に絡まり過ぎている。
明らかに辿り着いた状況に対して現状が付いてきていない。
『ティアちゃんが居合わせた精霊捕獲の場だが、そこから回収された精霊を封していただろう檻は、今は王都の設備で解析が急がれているだろう』
捕獲を行っていただろう輩は未だ見つからず。おそらく、もう見つからないだろう。だが。
『それと別口で捕えた輩の存在』
『ジャジィの一件だね』
スイレンを据える碧の瞳。
シシィの言にひとつ頷き、スイレンは言葉を続ける。
『解析結果と、輩の供述――ピースは揃うかもしれない』
空の瞳に鈍い光を宿し、薄く口の端を引いて嘲笑ったスイレンが、ふと思い出したように瞳を瞬かせた。
『……それに確か、国の端にある領には、老狼の精霊が居ると聞いたことがある』
『老いた狼……? そういえば、ヒョオさんに初めて会った時、ヒョオさんは僕に、王に連なる者かって訊いたけど、それも関係ある?』
空の瞳がシシィの見やる。
『紅魔結晶に精霊の認識阻害が組まれていたのは聞いたな』
こく、シシィは頷く。
『そんな芸当、並の精霊には出来ん。それこそ、力を有する精霊でないとな。……過去にも多数の王を排出している一族となれば、元より秘める力は絶大だ』
『……疑うのもまた通り』
『例の老狼の精霊も、王の候補精霊だったと伝えられている――精霊間でもそう言われる程に、名も忘れられたかの精霊は時を重ねている……らしい』
人よりも長い時を生きる精霊ですら、伝えられる、と時に重きを置いた言い回しになるくらいには、随分と昔の話だということで。
そして、絶たれた地に精霊の流れはなく、ゆえに情報も流れて来ない。
だから、その老狼の精霊の詳細すら不明瞭なのだ。
スイレンが重く口を開く。
『……かの精霊が協力者となっているならば、ここまでの大事も引き起こせるのかもしれない。――だが、これは全て推測であり憶測だ』
その声は苦々しく、途方もない。
『――俺らが動ける決定打がない』
そして、横たわる沈黙。
その間を埋めるように、ただ、風が通り過ぎるだけ。
虚しく鳴く風が過ぎる。
そこに、遮る声がひとつ落ちた。
『――なら、僕が行く』
静かにシシィの肩にとまるばななが彼の顔を見上げた。
次いで、スイレンが瞳を瞠ったままに見やる。
シシィの碧の瞳は真っ直ぐ揺らぎなく。
『僕には
母は精霊王、ゆえに精霊界からは出られぬ身。
父は渡しの精霊、ゆえに己がままには動けぬ身。
そして、シシィはそういった
しかし、立場というものはある。精霊王の子というものが。
『それに、フウガさんは言った。道中、精霊達に状況を尋ねて行ってって』
シシィの肩。ばななが小さな両翼を広げ、ひとつ翼を打つとふわり飛び上がる。
『その言を受けただけ。それって、僕が動くには十分な理由でしょ――?』
素敵なことを思い付いた言わんばかりに、悪戯な笑みを浮かべるシシィ。
そんな彼の髪を、風に姿を溶かしたばななが巻き上げた。
《あんない、ばなな、できる》
風はささやきを落とし、余韻を残して夜空へ駆け上がる。
瞬く星は眠たげに弱まって、夜の空はその色合いを緩め始めていた。
『……かの地は、マナが濃いゆえに人は疎か、精霊すら滅多に赴かなくなった地だ。時折装備を整えた商いが立ち寄る他に交流もないと聞く。――それでも行くのか?』
スイレンは瞳を細めてシシィへ問いを投げる。
覚悟はあるのか――?
『――あるよ。彼女が待ってる』
『なぜ、そう思う』
『うーん……勘、かな』
悪戯な笑みを浮かべていたシシィの顔は、くしゃりとあどけなく崩れた。
『それに、これが今の僕が持っていて使える手段だから』
彼らの髪を煽り、風が強く吹く。
それはひとつの方向へ駆けて行くように、海が波を立てながら追従する。
木々が身を揺すって奏でるざわめきは、さながら鼓舞のよう。
『――まるで行けと訴えているようだな』
屋根上から眼下を見下ろし、スイレンが諦めたように息をつく。
己が子を見やれば、揺るぎない碧の瞳がそこに在った。
『何があるか、何が起こるのかわからない地だ。心して行け。……少しでも情報を持ち帰ってくれると、助かる』
こくと頷くと、シシィは身を翻す。
足の向く方は風が導く方――。
ひとつ、見えぬ何かが動き出す。
*
『……これで良かったか、シルフよ』
ひとり残されたスイレンがぽつりと言葉をこぼした。
シシィが去った方を向き、空の瞳を切に揺らす。
『嘘をついて、ごめんな。シシィ』
苦しげに瞳を細め、スイレンは低く呻くしかなかった。
『……ティアちゃんは、自ら捕まったんじゃない。捕まったんだ』
それはシルフの名の下、伏せられた事実。
大精霊であるシルフの名の下に命ぜられてしまえば、大精霊でないスイレンは従うしかない。
いくら大精霊と肩を並べる精霊と言えども。
『……ごめんな』
細い呟きが、夜に溶ける。
――――――――――
これにて、第五章本編は最終話となります。
閑話を挟み、七月より第六章として、ティアのお話が始まる予定です。
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