白狼の親子
シシィの背に忍び寄る気配。だが、彼は振り返らない。
その気配が面白げに空の瞳を細め、彼へとゆっくり手が伸ばし――。
『――父上』
その声で、彼へと伸びていた手がぴくりと止まる。
『なんだ、気付いていたのか』
手を引っ込めると、残念そうな声をもらした気配――スイレンはくつくつと喉奥で笑った。
『……というより、呼んだのは父上の方でしょ』
それを振り返ったシシィが呆れの眼差しで見上げる。
『まあ、違いない』
スイレンは愉快げに空の瞳を細めた。
さわざわと葉擦れの音が階段の踊り場に響く。
窓から透け揺れる葉の陰影を追いかけていたミントは、間近な大きな気配にふと気付くと、慌ててシシィの尾に身体を滑り込ませて身を隠した。
そこから、そろと顔を出して様子を窺う。
『……それでどーかした? ――っていうより、その笑いは何?』
片目を眇め、胡乱な表情をするシシィに、スイレンはその笑みを深めた。
『いや、別に。面白いなと思ったから、素直に笑っただけ』
『だから、何を』
『んー? さっきのお前』
シシィは怪訝な顔を浮かべるも。
『おどおどしなくてもいいのにって』
スイレンの言葉に小さく目を見張り、情けなさを募らせ俯く。
『……人を避けてたの、見てたんだ』
『まぁな』
スイレンが肩を竦めてみせた。
『そんなに自信ない?』
『…………』
スイレンが問いを投げるてみるも返しはない。
ふ、と息を吐くようにスイレンは柔く笑う。
『自信がないのなら、せめて胸を張ってみろ』
『……?』
『それだけで不思議と自信が見えてくる』
顔を上げたシシィが、困惑の滲んだ視線をスイレンへ向けた。
『どーいうこと……?』
『自信がある奴なんだ、と周りが勝手に勘違いをしてくれるという話だ。つまりはまあ、見栄だな』
茶目っ気を含んだ笑みを浮かべ、スイレンはシシィの頭をわしゃわしゃと撫で回す。
『おどおどとするよりも、余程そちらの方がいいと思うぞ、迷える狼さん』
『……別に迷えているわけでは――ううん、迷えてるのかも』
おや、とスイレンの眉が軽く跳ねた。素直じゃないかと少し驚く。
幼い頃は嫌がる場面が多かった気もするのだが。
視線を落とすシシィはされるがままだ。
『……ここのところの僕は、間違えてばかりだよ』
ティアを傷つけた。ジャスミンには踏み込み過ぎた。
他者との関わりとはこれほどに難しかっただろうか。
気持ちを隠し過ぎてはだめだし、逆に見せ過ぎてもだめなのだ。
『距離感が難しい……離してもだめだし、近過ぎてもだめだし』
『なるほど、ちょっぴり傷心中というわけか』
目線を合わせようとスイレンが膝を曲げて屈むと、俯いていた碧の瞳が上目に見上げた。
『大丈夫。お前がしたいと思う通りでいいんだ』
両の手でシシィの顔を包み、指でその頬を撫でる。その手付きはひどく優しい。
『他者を想う気持ちも大切だけど、自分がどうしたいのか、どう想っているのかを見失っちゃダメだ。――だから、まずはお前のしたいようにすればいい。シシィなら大丈夫さ』
しっかりとした声で、確かな声で紡がれたその言葉は、じんとシシィの心に深く沁み込んでいく。
その証拠にシシィの碧の瞳がふいに潤み、歪む。
頬を触るスイレンの手を振り払い、シシィは彼の懐へ鼻面を埋めた。
反動でシシィの尾に身を隠していたミントが転がっていくも、誰も気に留めない。
『おっと……大きな子供が居るなあ。大きな子が飛び込んでくるのは、ちょっと困まるねぇ』
スイレンが軽くよろめきながら口にした言葉は、困ったような口調だったけれども、その声が持つ響きはちっとも困ったそれではなくて。
スイレンの輪郭が瞬にぶれたかと思えば、瞬きひとつで白狼の姿へと転じる。
並ぶ二匹の白狼。
体格はどちらも同じであり、片方が首筋の体毛へ鼻面を埋めると、もう片方は慰めるように埋めてきた白狼の首筋へ頬を寄せた。
すりと擦り寄せながら。
『……大きくなったなあ、シシィ』
感慨深い響きを持った声が吐息のように落ちた。
踊り場に降り注ぐ陽光が、二匹の白の体毛を白銀に照らす。
デキルオンナのミントは、空気に馴染むようにそっと物陰から様子を窺って、寄り添う白狼親子に顔をほころばせた。
その時、ふと彼女の両の耳が立ち上がる。
背後に這い寄る気配を感じた彼女が振り返ると。
*
『――ミント殿。我からの謝を、受け取ってはいただけぬのだろうか……?』
『え?』
聞き返す調子でヒョオを見返すミントの顔は、それはそれはにこりと笑っていた。
『……その、お主に手荒なことをしてしまったのは、我らに否があるゆえ……すまなかった』
謝の言葉を口にするヒョオの声に、ささいな怯えが見え隠れする。
『他に何をすれば、許していただけるのだろうか……?』
『ミント、怒ってはいないの』
無邪気な声で返しながら、ミントは、きゅっ、と輪と輪を持って引き結ぶ。それは、遠慮なく。
その際にぐぬとくぐもった苦しげな声がヒョオからもれた。
彼女らの背後に近寄る気配。
『お? 愉快な姿をしているな、ヒョオ』
『……これはまた、きれいに蝶々結びにしたね』
戯けた声に重なって、やや引きつった声が頭上から降り落ちる。
覗き込む白狼親子を振り仰ぎ、無邪気な笑顔でミントは頷く。
『そうなの、ミントきれいに結んだの』
無邪気なそれが無邪気に見えないのは、もしや自分の目がおかしいせいか。
シシィは器用に前足で目を軽く擦る。
そして、ぱちくりと瞬いてミントを見やると、やはりそこに在るのは無邪気な笑顔。
そう、どこまでも無邪気な笑顔だった。それが薄ら寒さを覚えさせた。
『ミントちゃん、だっけ? 素敵に結んだものだ』
相変わらずな戯けた調子でスイレンが口にした賛辞を、彼女も満更でもない様子でえっへんと胸を張る。
『……ミント、まさかとは思うけど仕返しじゃ――』
『ミントはデキルオンナなの。デキルオンナは仕返しなんてしないの』
一抹の不安を抱くシシィの言にはふいと顔を背け、なんでもないように華麗にかわす。
『ちょうどよさそうな長さだと思ったの。だから、ミント結んでみたの』
さらにシシィに追求される前に、ある程度満足した彼女は彼の頭へ飛び乗った。
『――で、シシィ』
スイレンから横やりの声。
先程と変わって平坦な声に、シシィはぞくりとした悪寒を感じた。何だか怖くて横を向けない。
スイレンはそんな彼に構うことなく続ける。
『仕返しとは、何のことだ――?』
狼の姿で汗はかけないが、それでも、一気に冷や汗が噴き出す感覚がした。
それは蝶々結びにされたヒョオも同じだったらしく、明らかにちろちろと出し入れする舌の動きがおかしい。
ヒョオはスイレンの子であるシシィへ、攻撃の矛先を向けるに近い行為をしたのだ。
ヒョオらの冷や汗が止め処なく流れても仕方ない。
そんな冷やかで緊張はらむ空気が流れようと、踊り場には日差しが差し込む。
眠気を誘うには丁度良く、ミントがシシィの頭上でふわあと小さくあくびをもらし、とろんと微睡みそうになっている。
だが、踊り場へ近付く足音に気付き、はっと顔を上げた。
「は……? ヒョオ……?」
踊り場へ上がってきたその人物は、しばし呆然とヒョオのあんまりなその姿を見つめたあと、状況を解した瞬間に素っ頓狂な声を上げた。
◇ ◆ ◇
『ふーん……。それで? シシィに? 結界を?』
スイレンに前足でがしりと結び目を抑えられるヒョオ。狼に睨まれた蛇。
『……』
ヒョオは黙ったままだった。勘違いもあったとはいえ、それは事実なのだから否定は出来ない。
ただ、ちろちろと忙しなく舌が出し入れされるだけ。否、もはや出たままの舌がぴろぴろと震えるだけ。
『……スイレンさん、そろそろ放してあげて欲しいッス。その場に居たら、オレだってそうしたッスよ』
客室。ソファに座するパリスが腰を浮かせ、彼が蝶々結びにされた経緯を聞かされたパリスが口を挟んだ。
『そうだよ、父上。勝手に船に乗り込んだ僕が悪いんだ。だから――』
その様をはらはらしながら見ていたシシィは、やがて堪えきれなくなり、擁護のためにこちらも口を挟む。
だが、スイレンの冷めた視線ですぐに口を閉ざしてしまう。
『それに関してはお前が悪い。その点については俺も擁護はしないさ』
一瞥したのち、もう一度ヒョオへと視線を落とす。
『……けど、それとこれは別の話だ。自分の子に矛を向けたという事実には、父親としては面白くない』
抑える前足に力を加えると、くぐもる声がヒョオからもれた。
そんな彼を嘲るように見下ろし、不穏な光を宿した空の瞳をついと細めるも、ふいにその前足は外された。
ヒョオは一気に空気を吸う。
その隙にパリスがヒョオを回収した。
『だが、今回はシシィが招いた事柄であり、こいつにも非はあるし、友人であるパリスを困らせたくもない。だから、何もしないさ』
しょぼくれるシシィの隣へどかり尻を落としたスイレンは、ちらりと息子を見やり、そのしょんぼり具合にやれやれと嘆息を落とした。
己が子は只今傷心中なのだ。
もう少し状況を見通す目も養えと、小言のひとつでも落とそうかとも思ったが、これ以上の追撃ははばかれた。
しょぼくれる己が子を見ると、囲いたくなるのは親の性なのだろうか。
仕方ない。話の先行きを変えるか。
『とりあえず、状況共有といこうか』
眠るミントを除く一同の視線がスイレンへ集まった。
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