閑話 パリスとジャスミン
「驚いたなあ。ジャスミンちゃん、すっかり大きくなって」
愛好を崩すパリスの顔は、ジャスミンが覚えている幼い頃の記憶とちっとも変わらない。
「……パリス様は、ちっとも変わらないね」
「そう? あの頃と比べると、最近はちょっと老いを感じるけどなぁ」
パリスの顔が苦笑に変わった。
しわがちょっと増えたような気もするし、昔ほど無茶は出来なくなったし。
と。ぶつぶつと口にする度、指折り数えていく。
その顔に真剣味が増していく気がして、ジャスミンは不思議そうに首を傾げた。
「――っと、おじさんの話はここまでにしておこう。……おじさんって歳でもまだないけどさ」
「……う、うん。そう、だね……?」
さらに首を傾げるジャスミンに、こほん、とわざとらしくパリスは咳払いをし、妙な空気をごまかす。
「……ご家族は、元気?」
遠慮がちな色をまとった言葉がパリスの口からこぼれた。
それに、ぴくとジャスミンの肩が小さく跳ねる。
「…………そ、それは――」
俯いた顔。腿上で握った手はなぜか汗ばんでいた。
何か言わなくちゃ。急く思考。思わず目をつむる。だが。
「――ごめん。嫌ならいいんだよ? てか、踏み込み過ぎたね。オレとジャスミンちゃんは、それほど親しかったってわけでもないのに」
声にほんの少しの寂しさを感じ取って顔を上げ、あ、と一瞬息を詰まらせた。
困ったように笑うパリスに、かっと熱がせり上がる。
親しかったわけでもないのに。彼はそう言ったが、そんなことはなかった。
ジャスミンは覚えている。
始めは街の巡回中の彼とすれ違う程度で、挨拶するだけの距離だった。
けれども、少しばかりやんちゃだったジャスミンを気にかけてくれるようになり、気が付けば、気のいい近所のお兄ちゃんのような存在になっていた。
だから決して、親しくなかったわけではない。
そんなことは言わないで欲しい。
けれども、そう言わせたのはジャスミン自身だ。唇を噛む。
「……そんなこと、ないもん。パリス様は私の、私のお兄ちゃんみたいだって思ってたもんっ」
彼女の金の瞳が揺れる。
パリスは軽く眼を見張ったのち、ありがとうと顔を綻ばせた。
彼にそう思わせたことが申し訳なくて再びうつむく。
「……ごめんなさい。言いにくかったの。お父さんと弟は元気だよ」
「……」
パリスは胸中に一抹の不安を抱いた。
「でも、その……お母さんはっ――」
歯切れの悪いジャスミンの声に、言を渋った要因を悟ってしまう。
「――いいよ、いい。言わなくていいよ、ジャスミンちゃん。……伝わったから」
柔らかなパリスの声音に、ジャスミンがおそるおそる顔を上げる。
「ごめん。嫌なこと訊いたね」
パリスの手が伸び、ジャスミンの頭を撫でた。
その優しい手付きは、彼女の記憶の中の優しさとちっとも変わらない。
金の瞳が揺れ動き、目頭が熱を持つ。
でも、決して泣くまいと彼女はふわりと笑った。
もう彼を困らせたくはないし、何より、他者に弱さは見せられない。
弱さを隠さなければ、曖昧な存在である自分は生きていけない。
そう、強くなければ。
「へえ、それで遠方に短期で働きに出てるんだ」
「うん。弟だけを残して長期間家を不在にすることもまだ不安だけど、でも、うちはそんなに裕福でもないし……だからお父さんは海街で、私は遠方で働いてるんだ」
給仕が用意し直してくれた果実水を時折口にしながら、他愛のない雑談が続いていた。
ことりとグラスをローテーブルに置くと、ジャスミンは苦笑をもらす。
「パリス様には、なんかいろいろと話しちゃうな」
「そう? 確かによく緊張が緩む顔してるって言われるけどさ」
「え、そうなの?」
じいと彼女はパリスの顔を見つめ、口を開く。
「……確かに、緩む顔かも」
どう受け取ればよいのか。
困ったように笑っていたパリスは、やがて苦虫を噛み潰したように苦く笑った。
それは褒め言葉と受け取っていいのか、はなはだ疑問だ。
「それ、褒め言葉?」
「うん、褒め言葉褒め言葉。でも、私の顔の好みはしーちゃんだから、ごめんね。パリス様も悪くないとは思うけど」
ふふっと可笑しそうに笑う彼女に、パリスはますます苦く笑うしかなかった。
しーちゃんが誰かわからないが、なぜだろうか。想いを告げる前に振られてしまったような心境になるのは。
しばし、遠い目をした。
「あ、そうだ。手紙を出さなくちゃ」
ジャスミンが手にしていたグラスをローテーブルに置く。
「手紙?」
「帰るって連絡を兼ねた手紙を弟に出してたの。でも、その帰る道中で魔族の気配を感じて……」
目を伏せ、揺れる金の瞳は憂いの色を帯びていた。
パリスは空になった自分のグラスに水差しで果実水を注ぐ。
「それで、何か見ちゃったとか?」
満たされたグラスを口に付けながら話を促す。
「……うん、そう。見ちゃったの。魔族を捕まえて、下世話な話をして笑ってる奴らを」
ぎゅうと膝上に置くジャスミンの手に力が籠もった。
唇を噛むのは悔しさ。憂いの色で揺れていた瞳は、今度は明らかな怒りで揺れていた。
「雇い主がとか言ってたの。奴らにとって私らは、所詮同じではないんだよね。自分よりも下であって、生き抜くためには見世物にしたって構わないと思ってる。もしかしたら、それ以上の扱いを受けることだってあるかもしれないのに」
怒りで彼女の身体が震える。
「そう思ったら、ほっとけなくて……気付いたら手を出してた」
顔を上げたジャスミンの顔は、黙って聞いていたパリスへ苦笑を浮かべていた。
「褒められた行動ではなかったなって、今は反省はしているけど」
結果として、シシィらが間に合ってくれたから、最悪のことにはならなかったに過ぎないのだ。
「変な同族心なのかもしれない。私の半分は魔族だし、引きつけられるのかも。――だから、短期の仕事とはいえ、遠方の……しかも各地に赴いているのかな」
後半のものは、彼女が彼女自身へ向けた言葉のように思える。
声に見え隠れする自虐な影の色。
「……血の繋がりを求めてるのかもしれない。顔も何もかも私は知らない、生物的繋がりの父を」
「生物的繋がりって……」
そう言うとちょっと生々しいねと苦く笑いながら、パリスはグラスを置く。
「ジャスミンちゃんが助けたその子達ね。きちんと家へ帰れたって連絡がここに届いてたよ」
「……え?」
「あの子達は魔族としては力が弱くて、魔族の国では暮らせない子達ではあるけど、それでも人の国で、自分の帰る場所をみつけた子達だった。――帰りを待っている家族が居たってこと」
人には化けられないから、おそらくは人の生活に溶け込むため、普通の動物のふりをしているのだろうけれども。
「だから、ありがとう。オレじゃ、代わりなんて務まらないかもだけど、それでも、代わって言わせて――ありがとう」
手を伸ばし、パリスの手がジャスミンの頭を撫でた。
それにされるがままになりながら、彼女はぽつりと呟く。
「……でも、他にやり方もあったかもしれない。あの時は何でも出来るような高揚感もあったの」
月の夜は、どうしても気は昂る。
「そう、他にやり方もあったと思う。だから、褒められたやり方ではなかったよね。……自分の身を危ぶむようなやり方は駄目だ」
パリスに強く言われ、ジャスミンは小さく項垂れる。
わかってはいても、改めて指摘されると堪えてしまう。
「大切な人達を心配させるようなことは、なるべくしないこと」
「なるべく、なの……?」
そこは、しないように、と言う場面ではないのだろうか。
上目で顔を覗き込むと、彼の目と合い、それが泳いだ。
「パリス様?」
「……そ、そうだよね。……まあ、ここはしないようにって言うべきなんだろうけど、それが難しいのはオレがよくわかってるからな」
職的に。と、誤魔化すようにあははとぎこちなく彼は笑う。
ジャスミンの頭を撫でる手付きが少しだけ乱暴になり、離れて行く。
「時に自分の身だけを気にしてると、何も出来くなることもある」
真剣な色を携えた瞳がジャスミンを見、そして、ふわりと和らいだ。
「もんな」
「――……」
「でも、だからと言って、感情のままに動いていいわけでもない。意に伴った行動は心がけないと、逆に自分を傷つけることになる。――それは、ジャスミンちゃんもわかってるよな?」
パリスの表情は和らいではいたが、声に、言葉に込められた色は強い。
ジャスミンの脳裏に過るのは、自分が幼かった頃の出来事。
あの時の刹那的に爆発した感情の熱と、初めて人の肉を裂いた感触は、今でも鮮明に覚えている。
あれが、ジャスミン達家族が精霊の森の街から離れ、海街に移り住んだきっかけの出来事でもある。
あの時、確かにジャスミンは――。
「――あの時、私は初めて人を殺した」
抑揚のない、感情の色も揺らぎもない声。
彼女らしくないその声で告げられた内容に、別段パリスに驚く様子はない。
「あの子は怪我をしただけだよ。そこは間違えちゃ駄目だ」
「でも、あの時私は、確かに明確なそれを持って爪で裂いた。確かにあの時、私は人を殺したの」
金の瞳が紅の色を帯び、そこにちろりと冷たさが垣間見えた。
パリスは知らず息を呑む。
まるで獣の獰猛さを秘めた冷たさ。だが、すぐにその冷たさは掻き消える。
「だから、次は間違えない。私は人でも魔族でもないけど、暮らしているのは人の世界で、大切にしたいものも人の世界だから」
金の瞳が力強くパリスを見返す。
パリスはその瞳に揺るぎない意を感じるも、それに反して危うさも感じた。
けれども、パリスには彼女に伝わる言を持たない。距離がそうさせないのだ。
それがひどくもどかしかった。
「……わかった。オレからはもう、何も言わないよ」
「……――ごめんなさい」
「ん? 何のこと?」
パリスが柔く笑ってみせると、ジャスミンはなんでもないやと首を振った。
誤魔化してくれた。その優しさがあたたかく、そして同時に、ちりりと彼女の胸を焦がす。
「……なんでもないや」
隠すように、ふわりと笑った。
「よしっ、と」
「パリス様?」
すっくと立ち上がったパリスへ、怪訝な視線が向けられる。
「長く話したからね。少し休むといいよ」
部屋の扉へ向かうと、ジャスミンの視線もそれを追った。
彼女の視線は突然の流れに戸惑いが滲んでいるも、パリスは気付かないのか歩みを止める気配はない。
「あ」
だが、扉のノブへ手が触れたところで振り返る。
「廊下に騎士が立っているから、何か用があれば声をかけるといい」
「え、あ、ちょっと――」
「それと、ジャスミンちゃんのお父さんにはこちらから連絡するから安心して」
「……パリス様?」
金の瞳に怯えの色を見て、そこで初めてパリスは怯みの色を見せた。
しばしの沈黙ののち、がしがしと頭を掻く。
「あーっ! もうっ! オレ、ホントにこういうの無理だからっ!」
「パ、パリス様……?」
「……オレに隠し事は向かないって思っただけだよ。だからお願い。そんな奇行を見るような目で見ないで」
「え、あ、ごめん」
ジャスミンはさっと目を伏せる。
伏せてからぱちと瞳が瞬き、また顔を上げた。
「隠し事……?」
「そう、隠し事してるのオレ」
ジャスミンの側まで戻ると、パリスは彼女と目線を合わせるために、膝を曲げて屈んだ。
「今ね、少数ではあるけど、各地で魔族の行方が追えない事例が上がってるんだ」
はっと金の瞳が見開かれる。
彼女は聡い子だ。それだけで察してしまったらしい。
パリスの手が伸び、優しく彼女の頭を撫でる。
「だからね。そんな状況下で、魔族として数えられてしまうとわかった君を、このまま帰らせることが騎士隊としては出来ないんだ」
「……私に拒否権は――」
撫でていたパリスの手が止まった。
そんな彼の目をジャスミンはひたと見据えて。
「――ないよね。困らせてごめんなさい」
小さく嘆息をもらす。
「……いや、こっちこそごめんね。君のお父さん達への連絡には、なるべく心配させないように努めるよ」
苦笑を浮かべ、最後にジャスミンの頭を一撫ですると、パリスは今度こそ部屋を出るため立ち上がる。
その背を見送りながら、ジャスミンは憂いげに目を伏せた。
きっと、心配させないように、という連絡は難しいだろう。
それだけ父は、血の繋がりはないのに、ジャスミンという娘を愛してくれているから。
本当なら今すぐ帰りたい。安心させたい。安心したい。
けれども、それが出来ない現状。それは己が招いた結果でもある。
それゆえの申し訳なさ、心苦しさ。それら全てがもどかしい。
*
部屋を出たパリスは後ろ手に扉を閉めると、廊下で控えていた二人の隊員に目配せした。
一人は浅く頷き、もう一人は廊下を歩くパリスに続く。
横を並び歩く隊員へ、彼は低くささやいた。
「輩を捕えたとの報が上がった町へ、調査班長パリスの名で連絡鳥を飛ばせ。雇い主とやらが何者か吐かせろと――手段は問わない、必ず状況を進展させろ」
鋭い視線を横へ投げると、表情を引き締めた隊員は小さく応えの声を残して踵を返す。
その背を肩越しに見送るパリスの瞳には、奥にちろりと冷たく昏いそれが揺れるも、それは瞬きひとつで霧散し、再び前を据えて廊下を進む。
「そういや、ヒョオの奴どこ行ったんだ? ……と、その前に、オレもジャスミンちゃんの家族宛に連絡鳥飛ばさないとな」
明るい声を響かせながら、パリスは足早に歩いて行った。
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