思わぬ再会
もうすぐ着くよ。
との知らせを受け、シシィとジャスミンは甲板に出ていた。
「あれ、なんでしーちゃんはそっちなの?」
船風を受けながら、白狼姿のシシィを不思議に思ったジャスミンが疑問を口にする。
しーちゃん。その呼び名は、彼女が友達だからねと、仲良しのしるしにと呼び始めたもの。
けれども、シシィは気付いている。
自分が急いて口にした真名、それに対する彼女なりの配慮だと。
今回は結ぶことがなかったとはいえ、真名を知ってしまった彼女がシシィの名を呼べば、真名の音でなくとも僅かな影響は生じてしまう。
ゆえに、それを嫌った彼女は、“シシィ”とは別の音を用いることにより、縛りを避けることにしたのだ。
そんな彼女の配慮に、シシィの胸中には少しばかりの情けなさと、そして嬉しさがじわりと滲む。だが。
「こっちの方が、一目で精霊だってわかりやすいんだってさ。人の姿だとちょっとややこしくなるからって言ってたけど、そういうところは人って面倒くさいよね」
その彼女なりの配慮には気付かぬふりをしてシシィは答えた。
だが、人はいろいろと面倒だと思うのは本当なので、呆れるように息をつく。
前足を欄干にかけて上体を乗り上げ、視線を遠くへ投げた。
小さな港が見え始めており、隣のジャスミンも同じように遠く眺めやる。
「騎士隊と合流してから、僕はちょっと話をしてくるんだけど、ジャジィは大丈夫だった……? もしかしたら、君のことにも触れるかも」
勝手にごめんね。
ぺたんと両の耳を倒し上目で見上げてくるシシィに、ジャスミンはくすと苦笑を滲ませて首を振る。
慰めるように撫でてやれば、彼は心地よさそうに息をもらした。
「うん、私は大丈夫」
別に話に触れられて困ることはないし、事情も別に――ちょっと苦味があるだけで。
憂い帯びる金の瞳に影が差すも、それは瞬きひとつで掻き消える。
結った髪を煽られながら、ジャスミンは飛ばされないようにと、カチューシャの如く結んだバンダナを抑えた。
今は獣の耳も尾も隠し、何だかそれが心許さを感じさせる。
なんだろうか。少しばかりの不安がジャスミンの胸に降り積もる。
あの時言っていた、にひるな男の言が気になった。
雇い主様――確かに男はそう言っていた。
彼らを雇った存在とは誰なのか。その目的は何なのか。
それから間もなくして船は着港した。
◇ ◆ ◇
船を下りたシシィらはそのまま街の屯所へと案内され、応接室へと通された。
革張りの二人がけソファがローテーブルを挟んで対面に配されただけの、然程広くはない部屋だった。
レース調のカーテンから陽は差しみ、外に植えられた木が揺れる度にその陰影は踊る。
その陰影を、てしてし、と踊る度に小さな手で追いかけるミントは楽しげだ。
さわざわと葉擦れの音が室内に満ち、つー、とローテーブルに置かれたグラスに汗が滑った。
それを指で拭い、緊張で身体が強張っているのを自覚しながら、ジャスミンはぎこちなくグラスを持ち上げる。
からん、グラスの中の氷が軽やかな音を奏でた。
口に含む冷えた果実水だけが、気を紛らわす唯一の手段だ。
ソファに浅く腰掛けているのだって、緊張と遠慮で深く座れないからで。
ことりとローテーブルにグラスを置いたところで、ソファ横で身を丸めて眠るシシィを睨んだ。恨めしげに。
くわあとあくびまでする呑気具合が非常に羨ましい。
一応の警戒だろうが、彼の両の耳は何かしらの音を拾っているようで、時折くいと動いてはいる。
だが、その寝そべる様は余裕そのもので、どうしてそこまで余裕なのか。
屯所とはいえ騎士隊の建物なのだ。
そんな場所で彼は緊張はしないのだろうか。
ジャスミンは先程からずっと落ち着かないというのに。
給仕が用意してくれた果実水は既に何杯目だろうか。
水差しの中身はもう空だ。腹なんて、たぽんたぽん、と音がするのが恥ずかしい。
建物に足を踏み入れる際にだって、どうしても連行されているような気がして落ち着かなかった。
ジャスミンは過去のあれこれで騎士隊詰め所にお世話になったこともある。ゆえかそれらも手伝い、どうしても身体に力が入ってしまう。
早く事が進まないのだろうか。
少々お待ち下さいと給仕が言付かったという相手は、いつになったら部屋に来てくださるのだろう。
ああ、でも。この屯所のお偉い様じゃないといいなあと、遠い目をしかけた時だった。
突としてシシィが顔を上げ――瞬間、ノックが響く。
ノックの音にびくりとジャスミンの身体が跳ね、勢い余って彼女の獣の耳と尾が飛び出たのと、扉が開かれたのはほぼ同時だった。
ジャスミンが飛び出たそれらを慌てて誤魔化そうともたついているところで。
「あれ。もしかして、ジャスミンちゃん……?」
誰かの声が彼女の名を呼んだ。
へ。もたつく動きがぴたと止まり、軋むような動きで顔を振り向く。
そして、数度、金の瞳が瞬いて、はたと気付く。
「………………ひょっとして、パリス様?」
たっぷりの間を持ち、幼い頃の記憶から弾き出した見知ったかつての顔に、ジャスミンは思わず金の瞳を丸くした。
*
『シシィさま、どーしてお部屋を出ちゃうの。ミント、もっと遊びたかったの』
ぷらーんとミントが揺れる理由は、シシィに首皮を咥えられているからで、不満そうな声がぽつと落ちる。
『それはごめんね。でも、ちょっとだけ二人にしてあげようか』
知り合いみたいだった。
だから、そそくさと陰影で遊ぶミントを連れて部屋を出たのだ。
騎士隊は未だ完全な信用は出来ない。けれども、ジャスミンに対しては危害を加えないだろうことは、これまでの彼女への対応でわかっている。
身が危ないとすれば、精霊の身である己と、特にミントだろう。
これには船での前科がある。あれきり何も起こってはいないが、警戒するに越したことはないはず。
『……それに、ちょっと呼ばれたし』
部屋を出て廊下を進む。
屯所内は自由にしていいとは言われているが、あまり彷徨い歩くのも得策ではないだろう。
すれ違う人はあまり多くはないが、すれ違う度に廊下の端に寄られ、通り過ぎるまで頭を垂れられているのはちょっと居心地が悪い。
また遠目に人を見つけた。
『……曲がっちゃおうか』
人とすれ違う前に、その手前で廊下を曲がる。
曲がった先は上の階へと続く階段。
人の気配はないが、上の階へ行ってしまえば、さすがに屯所内を動き回り過ぎだろうな。
だが。
『あ、シシィさまーっ!』
ぷらーんぷらん。シシィに咥えられたままのミントが揺れる。
彼女が小さな前足で指し示す先。階段の踊り場では、木の葉の陰影がさわざわと踊っていた。
遊び足りなかったのだろう。シシィはふすと短く息をもらす。
踊り場までくらいなら、いいかな。
そう考え直し、段を上がって踊り場まで行くとミントを下ろした。
彼女は下ろされるなり、すぐにきゃっきゃっと声をもらして陰影を追い始める。
『ミントは元気だなぁ』
シシィの呟きはミントには届かない。
そんな陰影追いを楽しむ彼女を、シシィは碧の瞳を和らげて眺めていた。
その背に忍び寄る気配。
しかし、シシィは振り返らない。
忍び寄る気配は、面白そうにその空の瞳を笑わせた。
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