記憶の中の幼子


 柔い日差しがカーテン越しに差し込み、窓からは起きてと促すような風が吹き込む。

 さわと触れる風の心地に、ティアのまぶたが震えた。

 ゆっくりと顔を覗かせる琥珀色の瞳。

 真白の羽毛を風が撫であげていった。


『…………』


 ぼやける焦点。何度か瞬きを繰り返し、やがて視界が輪郭を伴っていく。


『……――』


 そして、きょろと辺りを見渡し困惑する。


『……何処よ、ここ。ていうか、ああ――』


 落胆。重く息を吐き出し、自身が寝かされていた布地に身を沈ませた。

 無にするつもりで風を呼び起こしたのに、どうして己の身はここにあり、こうして思考を巡らせているのか。


『……覚悟が甘かったのか。単に私の力が及ばなかったのか』


 呟きながら、ティアの胸中には悔しさが渦巻く。

 なのに、ふわりとした曖昧な心地が次第に胸を満たしていく。


 ――でも、また彼に、シシィに会える。


『……そう思うってことは、覚悟が甘かったのよね』


 自嘲気味な息をついた。

 仕方ない。それは次第に諦めの嘆息へとなる。

 だって、自分はまだ彼に謝っていないから。

 ごめんっと言って、それから、きちんと彼の話を聞くと決めたのだから。

 そして同時に、己の思考に薄ら寒気を感じた。

 一度は自分諸共全てを呑みこもうと風を呼び起こした。

 なのに、こうして呑み損ねて安堵しているのだ。

 彼にもう一度会いたい。それは確かな自分の中に在る熱だ。

 けれども、それをいとも簡単に手放した。手放せた。


『――……っ』


 ティアは身震いする。

 己の中に眠る、精霊としての本能。それが冷たく横たわった瞬間だった。


『……私は、確かに精霊だ』


 感覚としては、未だ人のそれの方が残っている感じはするのだが、確かに精霊の本能というものも、自分の中には存在する。

 それを今回、改めて突き付けられた気がした。


『――私はティアだもの』


 そう、自分は精霊ティア。もう、“彼女”ではない。

 と。そんな時だった。


「目が覚めたか」


 扉が開いた音と共に、声がした。

 振り返ろうと身をよじると、身体に痛みが走り思わずうずくまる。


「バーカ。傷は癒えてねぇんだから、動けば痛いのは当たり前だろ」


 呆れた声が近寄り、影が落ちた。

 ことりと傍に何かを置いたようで、ティアはあたたかなスープの気配を感じて顔を上げる。

 視界の端。ほのかな湯気が立ち上ぼる。


「傷診て気付いたけど、あんた精霊だったんだな。おかげでシオを閉め出して、不貞腐れられたじゃねぇかよ。めんどくせぇ」


 随分と口の悪い奴だ。そう思いながら見上げて、固まった。

 ココアブラウンの髪に、不機嫌そうな深い森色の瞳がティアを一瞥する。

 動作に合わせ、右耳を飾る耳飾りがしゃらんと軽やかな音を奏でた。

 瞳と同じ深い森色の石に意匠を施した飾り。

 ココアブラウン色の髪。深い森色の瞳――その容姿は、“彼女”の記憶の中に在る幼子と同じで。

 ティアの瞳は見開かれ、穴が開くような勢いで目の前の少年を凝視する。

 記憶の中の幼子と、目の前の少年の顔が重なっていく。面影が、ある。

 そこから彼女は、じんわりと先程の少年の言葉を解していく。

 精霊。傷を診るだけで判別出来るなんて、ちょっと驚いた。

 シオ。その名を示す存在は、まさか、“彼女”の知っているあのシオなのか。

 不貞腐れられた。そんなのは知らんがな。

 めんどくせぇ。文句をもらうこっちが面倒くさいぞ。


「――……い、おい。そんなに傷が痛むのか?」


 少年の声でティアは我に返る。


「いや、待てよ。精霊って、精霊の言葉っつーのがあったんだったか? めんどくせぇ」


「………………別に、私は言葉通じるわよ」


 たっぷりの間を持って返すティアに、少年は深い森色の瞳を丸くした。

 数度瞬き、彼は嘆息を落とす。


「んなら、とっとと話せバカ」


「……」


 なんだろうか。本当になんだろうか。

 言いたい事があるような。けれども、言葉が渋滞を起こし、喉でつっかえて言えないような。

 何やらごそごそとする彼から顔を背けて一言呟く。


『……口悪いわね』


 ティアとしてはそう思う。

 これが“彼女”だったのならば、嘆くのだろうか、叱るのだろうか。

 “彼女”ではないティアにはわからない。

 ふと、琥珀色の瞳が瞬いた。

 思ったよりも軽く考えている自分に気が付いたのだ。

 “彼女”から受け取った約束。あの幼子の行く末を見守るという、約束。

 だから、会えた際にはもっと心が震えるものなのだと思っていた。

 揺さぶられるのだと思っていた。

 だから、シシィとあんな喧嘩のような言い合いにまでなってしまった。

 けれども、実際にはどうだろうか。

 驚きはしたが、心が震えることも揺れることもなかった。


『……思っていたよりも私、ちゃんとティアなんだわ』


 それは嬉しい変化だった。

 かつては自分で自分を見失っていたこともあった。

 それが、きちんと己という存在を保てている。

 これもたぶん、シシィのおかげなのだろう。

 寄る辺にすればいいよ、と新たな関係をくれたシシィ。

 己の奥。確かなそれを感ずるのは、今でもその彼と新たな関係で繋がっているから。

 この気持ちがあれば、きっと彼とも仲直り出来ると思えた。

 自然と表情が緩む。


「――おい、ニヤけ鳥」


 だが、その一言で気持ちは吹き飛んだ。

 弾かれたように振り向いたティアは、鳥だけれども吠えた。

 振り向く弾みで身体に痛みが走ったが、そんなことに構ってなどいられない。否。吠えずにはいられなかった。


「ニヤけてはなかったっ!!」


「あっそ」


「……さっきから思ってたけど、あなた、口悪いわね」


「知ってる」


 肯定されてしまえば、ティアはぐぬぬと押し黙るしかない。

 今になり、思い出したように傷が痛み出す。

 軽く顔をしかめると、そらみろ、と少年が鼻で笑うものだから、むっとして軽く睨んでやると、その眼前に差し出される。

 何とティアが問う直前、問うために開いたくちばしにそれが突っ込まれた。


「とりあえず、それでも飲んどけ」


 くちばしに突っ込まれたそれにもごつきながら、ティアはそれが何なのかを察する。

 これは脱脂綿だ。何かを吸わせたそれから、ほんのりと優しい味が転がる。

 先程彼がごそごそとしていたのはこれだったのか。

 傍らへ視線を向けると、野菜を煮込んだらしいスープが盛られた小皿。


「精霊に効果あんのかは知らねぇが、まあ、野菜食っとけば滋養あんだろ」


 これはもしかして、この口の悪い少年が作ってくれたものなのだろうか。

 じんわりとあたたかくむず痒いものが胸中に広がった。


「それは叔母さんが作ってくれたもんだ。めんどくせぇから俺に感謝とかすんなよ? すんなら叔母さんにな」


 が、それで胸中に広がったものが急速に冷えていった。

 本当にこの少年は口が悪い。

 胡乱なものを見る目付きでティアが振り返ると、少年は既にその場に居なく、姿を追うと扉の前に居た。

 扉へ手をかけた彼が振り向く。


「そんだけ元気あんなら、あとは啄むなりなんなりで食えるよな。俺は叔母さんの手伝い行ってくんから」


 そう言い置くと、彼は部屋を出て行ってしまった。

 窓から風が吹き込み、カーテンがなびく。

 柔い風に目を向け、そこで初めてティアは気付く。

 ベッド脇のサイドテーブル、そこに置かれたバスケットに布を敷き詰め寝かされていたようだ。

 口は悪いが、優しいのは記憶の中の幼子と変わらない。

 傍らを見やると、湯気が立ち上るスープ。

 彼は面倒だから感謝するなと言った。

 あの様子だから、その意味も本当に含まれていそうだが、感謝するなら叔母にとも言っていた。

 それだけで、彼が叔母という人物を大切にしているのだろうなと思える。

 そして、ティアに施された手当てはきちんとしている。

 傷口に当てられた包帯は、きつすぎず緩すぎず、程よい締付け具合。

 バスケットのふちに足をかけると、傷に障らぬよう慎重にそっと下りた。


『――……』


 ティアは脱脂綿をスープに浸すと、それをゆっくりと飲み始めた。

 風は絶え間なく窓から吹き込み、カーテンをなびかせる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る