二度目ましては友達から
気の昂る夜は感覚が鈍る。
ゆえに、気怠い朝を迎えることもしばしば。
幼き頃は人の身に過ぎた魔族の血が暴れていた月夜も、成長した今となっては何てことはない。
無理をしなければ、という前条件はちらつくが。
そう、無理をしなければ。それをわかってはいるが、昂る夜は感覚が鈍る。
疲労感をまとう朝は決まって不安定で、いつも心は隙間風が吹き荒ぶ。
体調を崩した際に抱く、人恋しさにも似ている。
常では察した父や弟が傍に居てくれることが多いのだが――。
「いまはうみのうえだし……」
舌を滑る言葉が拙い。
せめてもと、ぬくもりを求めて彼女――ジャスミンはベッドの上で掛布に包まった。
「おとうさんとユーリ……しんぱいしてるかな……」
帰ると手紙で告げた期日はとうに過ぎ、そして今は、家族の待つ海街に向かってすらいない。
じわりと視界が滲む。獣の耳はぱたりと倒れ、尾は静かだ。
人肌恋しさに己を掻き抱く。外では遠く、ざざんと波音。
そして、無意識のうちにジャスミンの手は己の頭部へと伸びる。
が、そこに求めていた感触はなかった。
寝ている間に落としてしまったのかと、のろりと枕元を見やるもそこにはなく。
はたまた床に落ちたのかとベッド上から見下ろすも、そこにも求めるものはなかった。
急激に熱が下がる。
なんで。口が言葉を紡ぐも声にはならず。
滲む視界がさらに歪む。ぽ、瞳から零れ落ちたしずくをシーツが吸う。
「おかあさんからもらった、じゃすみんのバンダナ……」
が、ない。
ふえ、と小さくしゃくり上げる。
心が拙くなっている自覚はあるも、抑えはきかない。
とめどなく溢れる涙に、手の甲で拭えどとまる気配はない。
そうしている間に思い出す。
そうだ、昨夜の騒動で落としてしまったのだった。
あとで探しに行こうと思っていたのに、頭からすっかりと抜け落ち、思い出したのは海の上。
また涙が瞳からはらはらと落ちる。
母の形見になってしまったバンダナだった。大切なものだった。
弟が産まれて間もなく儚くなった母。
自分も幼かったから、その面差しも今はどこか朧げで。
けれども、あのバンダナをくれた時に触れた母のぬくもり、想いは鮮明だ。
もしもの時に獣の耳を隠せるようにとくれたもの。
他愛のないものかもしれない。
だが、母が儚くなったのちも幾度と助けられた。
それが、今はない――。
単なるバンダナ。けれども、ジャスミンにとっては比重のあるもの。
「……もう、もどら……ない……っ」
その事実に気付いてしまえば、もうだめだった。
くしゃりと顔が歪む。
その時だった。
「あれ、起きたの?」
きいという音と共に部屋の扉が開き、白の髪を持った青年が顔を覗かせた。
掛布に包まり、顔をくしゃくしゃにさせたジャスミンの姿に驚いたらしく、青年は碧の瞳を軽く見張る。
彼女の方は見知った顔に出会えたことに安堵したのか、しゃくりあげそうだったのがとまった。
そして、青年と同じように、彼の肩からひょこりと顔を覗かせたリスの精霊の。
「――あ」
小さな手にあるバンダナをみつけて、ジャスミンは今度こそ声を上げて泣いた。
*
シシィはこの状況に困り果てていた。
彼が白狼の姿へと転じているのは、ジャスミンにその姿を乞われたからだ。
その彼女はというと、ベッド上へ彼を招き、背の柔い体毛へ顔を埋めたまま微動だにしない。
その手には赤チェック柄のバンダナがしかと握りしめられている。
うーん、どうすれば。小さくシシィは呻く。
ミントはこの場にいない。
デキルオンナは空気もヨメルの。
と口にしてミントは出て行った気もするが、果たして彼女は意味をわかっているのか。
それともその言葉はシシィの幻聴だったのだろうか。
ぐしゅと鼻を鳴らす音と、背の湿った気配にジャスミンが静かに泣いているのはわかっている。
だが、慰めるべきだろうかと身動ぐと、顔を見られたくないからとそのままを強いられてしまう。
そもそもが部屋に入った途端に泣かれてしまい、おろおろと動揺している間に白狼の姿を乞われた流れだ。
彼女が何に泣いているのか。それがわからない以上は、されるがままになっている他ない。
ふすう、とシシィは細く嘆息をもらすのだった。
「――どう? 落ち着いた……?」
そっと落ちるシシィの声に、ぴくりとジャスミンの肩が小さく跳ねた。
だが、顔は上げない。
「……ねえ、君。とりあえず、顔あげない?」
シシィの問いに、ぶんぶんとジャスミンは顔を横に振る。
拒の意。困ったようにシシィは息を落とした。
「なんで?」
ジャスミンが柔い体毛に深く顔を埋める。
「……だって、恥ずかしいもん」
気怠さはだいぶ抜けた。抜けたからこそ、鮮明になってくる気持ちもある。
「絶対目は赤いだろうし、腫れてるだろうし……あと、私は君って名前じゃなくてジャスミン。ジャスミンって呼んでよ」
ぐぐもった声がシシィに響き、とくん、とひとつ穏やかに脈打った。
名前を呼んで欲しい。彼女はそう強請っている。
つまりは、それってつまりは――。
「――それって、僕と二度目ましてをしてくれるってこと……?」
「……またねの続き、しようって言ったのはそっちじゃん」
少しだけ拗ねた声。
シシィの胸中に渦巻くあたたかなそれは、喜びか。熱がひとつ、ぽつと灯る。
「僕はシシィ」
背から重みが浮いた。
ゆっくりシシィが振り返れば、目を赤く腫らした少女が居た。
「二度目まして、ジャスミン」
えへとシシィが笑ってみせれば、ジャスミンは口を横に引き結んで――くしゃりと笑う。
「……二度目、まして。シシィ」
シシィが腰を浮かして身を乗り出すと、きしとベッド枠が軽く軋んだ。
こつんと互いの額を合わせると、シシィの瞳には、驚きで目を丸くするジャスミンが映る。
次いで彼から、ひんやりとした何かが彼女へ伝わり、その心地よさに思わず目を閉じた。
ひんやりがその目に集まり、腫れて重たくなっていたまぶたを軽くしていくのを感じて、ジャスミンは再度目を開いて、目が合った。
その瞳に引き寄せられ――その瞳が、柔く細められた。
「《
そして、シシィが告げるそれの重さに瞠目する。
激しく瞬くジャスミンの金の瞳。
告げられたそれの重さをゆっくりと解し、ゆっくりと彼から後退る。
ベッドの端に手が触れ、そこで止まった。ベッドから落ちることを免れるくらいには冷静らしい。
「…………なんで、それを私に」
やっと絞り出せた声は頼りなかった。
「これが何か知ってるんだ」
「……だって、響きが違う。――それって、真名でしょ……?」
「うん。そうだよ」
あっけらかんとシシィは答えるが、それはそんなに軽々しく扱うものじゃないことを、ジャスミンは知っている。
精霊の森近くの街で育った彼女だからこそ、その重み、その大切さは知っているのだ。
「真名はもっと大切にしなきゃ――」
「大切だからこそだよ?」
ジャスミンが後退った分だけシシィは距離を詰め、彼女の膝上に顎を乗せる。
「呼んでよ。君だからこそ、呼んで欲しいの」
シシィの碧の瞳が揺れ、甘えた声で彼は強請る。
反射的に伸びたジャスミンの手が、彼の頭へ触れる寸前で止まった。
「……その意味は――」
確かめずにはいられない。
宙に留めたままの手が震えるのは慄きなのか。
彼からその重みを自分は受け止めきれるのか。降り積もる、不安。
その震えがシシィの瞳にも映った。
「――……」
息ひとつ、落ちる。
静かに瞑目したシシィが、そっと身体を起こしてベッドから下りた。
戸惑うようにジャスミンの金の瞳が彼の動きを追う。
シシィが振り向いた時には、彼の姿は白狼から青年の姿へと転じていて。
「ごめん、一気に詰めすぎたよね」
申し訳無さそうに笑った。
咄嗟に何かを言おうとジャスミンは口を開くも、もれるのは細い息だけ。
伸ばされたままだった手をもう片方の手で握った。
「その、ごめんなさい……」
「いいよ。ここは一気に詰めるんじゃなくて、先ずは一歩踏み出すところから始めるべきだったよね」
ということで、と。
シシィが膝を折り曲げて屈み、ベッドに手を置く。
目線が近くなった青年の顔に、ジャスミンは少しだけ頬が熱くなる。
顔がイイのも困りものだ。
そんな彼女の前にシシィの手が差し出された。
金の瞳が瞬く。彼の意図が察せなく、思わず顔を見上げると。
「握手」
えへと彼は笑う。
「握手……?」
「うん。先ずは友達からってことで、どうかな? 今はまだ、僕達は精霊と人という立ち位置だけど、シシィとジャスミンっていう関係への、一歩目ってこと」
「一歩、目……」
差し出された手と、彼の顔を交互に見比べる。
そして、やがてジャスミンはきゅっと口を引き結ぶと。
「うん。まずは友達からで」
彼の手を握り返し、えへへと笑うのだった。
*
軽食でも持ってくるよ、と言い置き部屋を出て、しばらく廊下を進んだところでシシィは壁に寄り掛かった。
はああ、深いため息が廊下に落ちる。
遠くでざざんと波の音に、早朝から元気な海鳥の声。
『…………また間違えたなぁ』
ひとりごちる。
どうして自分は、もう一歩引いて考えることが出来ないのだろうか。
先程だって、相手との立ち位置、距離感を鑑みれば、突然の真名告げに怖じけづくのはわかるはずなのに。
はあぁぁ。壁に寄り掛かったままにずるずると滑り座る。
『僕が持てるものなんて、僕自身しかないんだよなぁ。それ以外なんて持ってないし、持てないし』
この広い世界の、ちっぽけな自分。
そんな世界で持てるものは自分以外にはなくて。
だから。
『だから、まるっと飛び込んでみるのもありかなって……思ったんだけど……』
それもどうやら違ったらしい。
そもそもが、出会って間もない相手が丸ごと飛び込んで来られても、受け止めきれるわけがないのだ。
一歩引いて考えればすぐわかることなのに。
『……どうして僕ってこうなんだろ』
頭を抱えて蹲る。
そして、自然と思い浮かぶ。
『――ちあなら、受け止めてくれたんだろうなぁ』
外からひゅうと海風が廊下を吹き抜けた。
感じた潮のかおりに顔を上げる。
廊下と外は一繋ぎだ。風に促されるままに彼はゆらりと立ち上がると、海へ向かってふらりと歩き出す。
水平線。遠くで海鳥が海上を旋回し、海へ飛び込んでは海面に顔を出している。彼らの朝餉――かもしれない風景だ。
そんな風景をぼんやり眺めながら、シシィは静かに思う。
『そうだよ。ルゥに向かって、まるっと飛び込めばよかったんだ』
自分が今思っているままに――ごめんね、と。
それから、ふたりで話せばよかったのだ。
『……というか、そう言ったのは僕だったね』
たははと乾いた笑い。まいったなあとばかりに前髪を掻き上げた。
夜明け頃よりも登った朝陽を、海面がきらりと弾く。
『でも、何だかすっきりしたのはなんでかな』
きらりときらめく海面が眩しかった。
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