暁の空


 ――逃げるでないぞ、小僧よ。


 その言葉がシシィの中で繰り返され、嘆息ひとつ、深く落とした。


『……今は集中』


 頭を左右に振って切り替えると、シシィはベッドで眠るジャスミンへ手をかざした。

 彼らにと用意された別室。

 新たな部屋は彼女の眠るベッドを始め、調度品の類いが他の部屋のものより質がいいのが、シシィにもわかるくらいだった。

 扱いが良くなっている。

 それに少しだけ複雑な心境を抱きながら、かざす手からは淡い気が彼女へ降り落ちる。

 癒やしの気――水の気が快復途中だった彼女へ促す。

 生き物は水に程近い存在ゆえに、水の気とは相性が良い。

 ジャスミンの細かな傷が少しずつだが塞がれていき、薄ら桃色を帯びた肌が顔を見せたのがその証拠だ。

 魔力の質が水のそれを持つ者らは、外傷などに水の気をあてることで、個人差はあれど、快復へと促すことも出来る。

 だが、それはあくまで傷を癒やすだけであり、既に失ったものは取り戻せない。


『うん。大丈夫』


 ジャスミンはすやと穏やかに寝息を立てている。

 眠り薬を盛ったとシシィが解釈したそれは、詳しく聞いてみると少し違ったらしい。

 人が眠る際に用いる香だったらしい。

 緊張を解し、緩やかに入眠できるようにと手助けをしてくれる。所謂、リラックス効果を持つ香だったわけだ。

 よく効きすぎてしまったようゆえ。とはヒョオの談。

 紛らわしいことをするなと瞬的に苛立ちは覚えたが、薬を盛られたわけではなくて安心はした。

 ふうと軽く息をつき、あらかたジャスミンの傷を癒やし終えたあと、未だ眠ったままのミントを抱えて静かに部屋を出て、息を詰める。


「――っ」


 通路に顔を出したところで騎士隊の一人と出くわした。

 見張りの任の者だろうかと訝しんでいると、その隊員と目が合い――途端、シシィの存在に気付くなり、見るからに身体を強張らせる。

 先程の出来事のせいか。

 身を持って精霊の力を感じたのだ。それも無理はないかと、シシィは隊員を一瞥する。

 が、隊員の瞳に宿る温度が違った気がした。

 畏れもちらりと窺えるが、それにしては向けられる温度が違う。


「あ、あの……」


 おそるおそるといった感じではあるも、隊員が口を開いた。


「室内の子は我々が見ておりますので、精霊様はお寛ぎください。その……、話し合いはヒョオ様より、次の港でと聞いております。港までは、まだしばらくお時間がかかりますし」


 よし言った、とばかりに満足げに口の端を緩める隊員に、シシィは口を引き結んだ。

 隊員が身体を強張らせたのは畏れではない。緊張がゆえだ。

 ヒョオがシシィの身分まで明かしたのか。

 いや、隊員の態度からそれではない気がした。隊員は、様、と呼称した。

 そうか。自分が精霊だからか。

 行き着いた事柄に目を逸らす。

 隊員から向けられる憧れの色がはらんだ視線に耐え切れず、シシィは逃げるようにしてその場を離れた。




   *




 通路を足早に進み、海に面した外通路に出た。

 夜に染まる海が、ざぶんと荒々しく波立てシシィを迎える。

 それに安らぎを覚えるのは、自分が水の精霊ゆえか。

 海に背を向け欄干にもたれる。


『……これも、逃げか』


 はあという深い嘆息は船風に呑まれた。

 適当に飛び込んだこの船は、騎士隊が所有する船だったらしく、ここにシシィが居ても見咎められることはない。

 視線は落ち、気落ちも顔を覗かせるが、海に出た目的も忘れてはいない。

 また頭を左右に振って気持ちを切り替えると、片手でミントを抱え、もう片方の手は海の方へと差し出した。

 刹那。シシィの意図を察した海が大きく波立ち、船が大きく跳ねる。

 そして、何かを掬い上げるようにシシィはその手を動かした。

 掬い上げたそれをミントの元へ持っていくと、彼女の上へ振り撒く。

 淡くきらめく見えないそれは、海からわけてもらった水の気だった。

 それをシシィは己の水の気と織ることによって、球状の水の膜を織り成し彼女を包む。結界のようなものだ。

 ミントの呼吸が幾分か心地よさそうなものになった気がする。

 応急処置に過ぎないが、これでしばらく眠れば目を覚ますはず。

 ほっと安堵の息をつく。


『ありがとうね』


 そっと海へ呟きを落とすと、海は照れたように、ざふん、と船を軽く押し上げた。




 それからしばらく。

 シシィは薄まる夜の気配に身を浸しながら、なんとはなしに海と空の境界をぼんやりと眺めていた。

 夜明けは、近い。


『……当たり前だけど、世界って広いんだよなあ』


 境界を見つめる碧の瞳が細められた。


『――僕はこんなにちっぽけだ』


 ざざん、海が波立つ。

 シシィはゆっくりと目を閉じると、絶え間なく聞こえる波音に耳を傾ける。

 より感じるのは、己という存在の小ささだった。

 そんなちっぽけな存在が、どうやってこれ程に大きな世界で己を示すのか。

 ずっとシシィの世界では、皆が同じ大きさの存在だった。

 両親やティア、フウガやジル、皆の中では、シシィはシシィというひとつの存在だった。

 それが外へ出てみれば、精霊という大きな存在になっていた。

 そう――人と精霊。隣人。そして、その距離。

 人は精霊を信仰視している面もあり、人との距離は保たなければならない。それが隣人と言われる所以。


『……僕は精霊だけど、その前に僕っていう個を持ってる』


 精霊とは個の集まりを示す、それ。


『でも、僕は精霊という集まりのひとつでもあって』


 さらにそこから、シシィ自身の出身を踏まえると、その大きな集まりからさらに突出する。

 精霊王の子――という肩書き。

 その肩書きはきっと、より高い存在となるのだろう。


『僕は別に……そんな大したことないのにね』


 目を開き、落ちた視線。くしゃと力なく笑った。


『僕は候補にすら上がらないのに。……そのせいで母上は長い間臥せってて、父上だってお役目を満足に出来なくて……』


 碧の瞳が揺らぐ。

 シシィは知っている。

 シシィがシシィとして生まれる前に、無理をして魂を壊しかけたことを。

 その傷を癒やすために、力の大半を注ぎ続けてくれた精霊王。そして、のちに母となってくれた彼女。

 なのに、魂の傷は癒えたとはいえ、ことわりに逆らおうとした枷は負わなくてはならなく、精霊王の次代としての器は始めからないのだ。

 王は世襲制ではない。だが、次代の候補とすらなれない存在が、王の子として在っていいのだろうか。

 父だって、子を育てるために背負った役目を満足に果たせることもなくて。

 迷惑をかけてしまったという想いが拭えない。


『……そんな僕に、何が出来るのさ』


 弱々しく空を仰ぐ。いつの間にか空は白み始めていた。

 ざぶん、海が波を立て船を軽く押し上げる。

 身体は揺れるも均衡は崩さない。

 海が励ましてくれているのを感じながら、自然と目を向けたのは、やはり海と空の境界で、顔を出し始めた朝陽に目を細めた。

 ふいに風が強く吹き付け、襟足で束ねた髪が煽られる。

 きちんと結んだ髪紐は、今度はほどけない。


『海も空も、やっぱり大きくて広いよねー……』


 ぼんやりと言葉を落とし、昇る陽を眺めた。

 夜明けだ。夜は静かに通り過ぎ、新たな日を告げる。

 朝焼けの空は暁の色。その色が、あの瞳を連想させた。


『――ちあの……ルゥの瞳の色に似てる』


 彼自身にだけ許された彼女の愛称。

 それが自然と彼の口からこぼれた。

 同時に彼の胸を焦がすのは、何か。

 切なく胸が軋み、それは仄かな淡い痛みをはらんだ。

 しかし、その痛みに愛しさが募るのはなぜだろう。

 暁の空に魅せられながら、想い描くのはひとつの姿。

 そして、強く突きつけられるのは――会いたい、その想いただひとつ。

 強く風が後方から吹き付け、背を押されたように海は波を立てると船を進ませて行く。

 揺れる碧の瞳に暁の空が映った。


『いつでも最後に思うのは、その気持ちだけなんだよなぁ……』


 途方に暮れたように呟くと、ひゅおと頬に風を感じる。


『別の言い方をすれば、僕はそれくらいしか持ってなくて――』


 ざざん、波音が朝焼けに響いた。


『それで示していくしかないんだ』


 何が出来るのかなんて、そんなものは知らない。

 だって、それ以上のものは持ってはいないのだから。

 だから、隠すことはなかったのだ。

 隠したところで、それ以上のものは始めから持っていないのに。

 くしゃりとシシィは顔を歪ませた。


『……ああ、僕はちっぽけだ』


 朝焼けが、眩しい。

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