蛇の言
牙を剥き、低く唸る白狼の碧の瞳は、苛烈な光を宿しヒョオを射抜く。
薄闇の中にぼやと浮かび上がる碧の瞳は、白狼の気の昂りを示すのか。
呼応するかのように、空気中に漂う水の気が光を帯び始め、ひんやりとした冷たさが降り落ちた。
「……っ」
白狼の昂りにあてられてしまったヒョオの仲間らは、萎縮し、もはやその場から動くことが出来ない。
呼吸すらままならぬ状況で、自分らが飛び込んでも好転しないことは充分に理解していた。
だから息も詰まりそうな中、ただ静かに身を潜め、この状況見守ることしか出来ない。
ぐるると唸る白狼の声は、低く地を這い、厳しい顔つきのヒョオをその場に縫い付ける。
だが、ヒョオが微動だにしないのは、仲間らのように萎縮してしまったからではない。
ひりつく空気の中、目の前の白狼から感じるのは、敵意を通り越してもはや殺気だ。
しかしながら、その度合いはまだ生ぬるい。ヒョオを畏怖、萎縮させるには彼は若すぎるのだ。
それでも、その本気はヒョオにも伝わっている。ゆえに、ここでヒョオが不用意に動けば、白狼の牙は容易くヒョオの身を噛み砕くだろう。
それだけの力を、目の前の白狼は持っているのだ。
仲間らがはらはらと見守る中で、ヒョオは冷静に状況を見極めて行く。
ここまで白狼が荒れる理由は、彼の仲間に意図せずではあるが、危害を与えてしまったから。
ちらりと白狼の影からリスの姿が垣間見えた。
あれは――軽く目を見張り、悟る。
『……そうか』
ぽつと言葉を落とし、ヒョオはゆっくりと立ち上がった。
途端。白狼の唸る声が一層低くなるも、見上げる形になったヒョオを前に、それも次第に萎んで行く。
決して、ヒョオのまとう雰囲気に怯んだわけではない。白狼は己にそう言い聞かせる。
だから、牙を剥いたままなのは、白狼の最後の矜持だ。
『お主らは、精霊の森へ向かう道中だったのだな』
『……だったら、何』
多分の警戒に染まった、白狼の棘のある声。
『なれば、非は我らにある』
ヒョオが片手を払う仕草をする。
その仕草の意味を知る彼の仲間らは、困惑した様子で互いの顔を見やった。
「戻れ」
今度は険しい眼差しを投げつける。
「主らの役目は我の護衛ぞ。……我ならば問題はないゆえ、説明は後程我からしよう」
渋々といった様子ではあるが、そこでようやく、彼の仲間らは指示に従い引き下がって行く。
それを横目で見送り、ヒョオは改めて白狼へ向き直った。
『お主の庇うリス殿は、魂が弱っておる様子。知らなかったとはいえ、すまなんだ』
『……』
『魔族の娘とも何ら理由があるのであろう? それを先に訊ねるべきであった』
ちらりとジャスミンを見やったヒョオの視線から、白狼は彼女を隠すように身体をずらす。
警戒する気持ちは未だ彼の中で燻っているも、もうヒョオへ牙を剥いてはいなかった。
彼の視線が真っ直ぐに白狼へ向けられる。
『して、そこで提案なのだが――』
そして、伺うような瞳が白狼を見やった。
『……提案って、なに』
彼がぎこちなく応えれば、うむ、とヒョオはひとつ頷いて。
『我らの事情を明かすゆえ、お主らの事情も明かしてはもらえぬか?』
瞬きひとつの間でヒョオは男の姿から、淡紅色の鱗を持つ蛇の姿へと転じた。
その姿を見た白狼の瞳がぱちくりと瞬く。
風格のあった男の姿からは随分とかけ離れているな、と。
蛇ならば大蛇くらいの大きさがありそうなのに。
首にとぐろを巻けそうな、そう、人の世で見たことのある、寒い季節に首へ巻く
すると、蛇の舌がちろりと動いた。
蛇ゆえに表情は乏しい。が、まとう雰囲気が剣呑なものになる。
『……主、何やら失礼なことを――』
蛇睨みとはこのことか。
言い知れぬ蛇の圧に、早々に白狼の尾が股に入り込み、彼はぶんぶんと首を横に激しく振った。
『……話す、よ。僕らの事情は隠すことでもないし、フウガ――シルフ様からも秘密にしろとは言われていないし』
『む。……風の精霊長も関わりがあられるのか』
乏しいはずの蛇の表情が険しく染まる。
それにびくっと身体が跳ねる白狼だったが、おずと言葉を付け加える。
『……でも、僕はまだ、あなた達を信用したわけじゃないよ』
『わかっておる。ゆえに、我の提案を受けてくれたこと、礼を言う』
蛇が頭を低く垂れた。感謝の意だろうかと戸惑えば。
『改めて名乗る。我はヒョオと申す精霊。人の世では騎士隊、調査班に席を置く者である』
突然の蛇の言に白狼は面食らう。
あ、そうか。そういえば自分はまだ名乗っていなかったな。
そう思い至ると、白狼も慌ててベッドから降りて居住まいを正す。
瞑目ひとつ。息を深く吸って、吐いて、気持ちを落ち着かせる。
白狼が目を開いた時、彼のまとう空気がしゃんと張ったものになった。
『精霊王が子、シシィ。シルフ様の命により、精霊の森へと向かっているところで……』
だが、そこでヒョオが弾かれたように顔を上げた。
突然のことにシシィの身体がびくりと跳ねかけるも、ヒョオはその場で身体を硬直させたままであり、シシィは困惑をしながら彼の目の前で、おーい、と前足を振るのだった。
『う、うむ。すまなんだ。王のお子であったとは……』
先程よりも気落ちした様子のヒョオに、シシィもまたそっと嘆息をこぼす。
人の姿へと転じたシシィだったが、獣の耳と尾がそのままなのは、一応の警戒態勢のつもりだ。
人の姿だと五感も人のそれに近くなってしまう。
もう少し時を重ねれば、完全な人の姿でも、五感はそれなりに鋭くなるのだろうか。
ゆえに少しばかり中途半端な姿をしているのだが。
『……』
既に警戒の色が薄くなってしまっているのは否めない。
傷付けられたことを許したわけではないが、ヒョオ側にも事情はあるようだし、何より、目の前でこうも気落ちされてしまうと、毒気も抜かれてしまう。
『顔、上げてよ。母上が王ってだけで、僕自身に地位があるわけでもないんだし』
ましてや、己は次代となる器でもない。
困ったように笑うシシィの言葉に、俯くヒョオの尾先がぴくと動いた。
そして、ゆるりと顔を上げるとシシィを据える。
『それは違うぞ』
『何が?』
眉を軽くひそめて首を傾げるシシィに、ヒョオは諭すように言った。
『シシィ殿の行動は、そのまま王への評価へと繋がる。相手はお主を通し、王をはかっておるのだ』
『はかってる……?』
『うむ。お主の振る舞いが、そのまま王へと還る』
思ってもいなかった言に、シシィは息苦しさを感じた。
『シルフ様から、精霊王の子として外を見て来いって言われたんだ。それってつまりは……』
『精霊界からは基本的に出られぬ身である王の代わりに、その外の様子を見て参れということであろう』
ちろと蛇の舌が動く。
『お主は王のお子なのだからの』
ヒョオのその言葉に、シシィの喉がひゅっと鳴った。
何処に行っても、誰と会っても付いて回る肩書き――精霊王の子。
不意にシシィはヒョオから目を逸らす。
ぱたと振れる尾が、情けなく思えた。
『……僕は次代の器にもなれなかった精霊だよ。そんな僕に、王の子だからって目を向けられても――』
『自惚れるでないぞ、小僧』
強い声音。そして、小僧。
その呼称に、碧の瞳が驚きで見開かれる。
『何をいじけておるのかは知らぬが、別の見方をして欲しいのなれば、己で周りに示せ』
厳しい声音に、思わず視線を向けた。
『己の地位は、己で掴むものだ。お主の立場はお主が決めるのでなく、周りが決めるものゆえ』
真っ直ぐ見据える蛇の瞳は、揺らぎも陰りも見えない。
その瞳がシシィにはひどく印象的に映った。
『逃げるでないぞ、小僧よ』
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