白狼と蛇


『シシィさまぁーっ! 浮気はだめなのぉーっ!』


 声が響く船室。シシィはジャスミンが負った傷を、水の気を用いて癒やしているところだった。

 その手が途中で止まる。

 とんたんとんたん。扉を激しく――叩いているだろう音に、シシィとジャスミンは顔を見合わせた。

 白狼から人の姿へと転じれば、シシィはそっと扉に近寄り、外の気配を探りながら扉を開く。

 船室へと入り込んだ外の空気が積もった埃をふわりと舞い上げ、差し込む明かりにきらめいた。


『ミント、何をそんなに……?』


 訝しげに眉を寄せてミントを見下ろすと、彼女の顔付きはいたく真剣だった。


『ティアさま悲しませたら、めっ! なのっ!』


 途端、ミントに寂しそうな色が滲む。


『そしたらシシィさま、また泣きたくなるの……それは、ミント嫌なの……』


 落ちる言葉尻。それに息を詰まらせたのはシシィだった。

 ひたむきな眼差しを向けるミントに、シシィは己を慕う色をみつけて息をもらす。

 慕う、色――と熱を滲ませた別の瞳を思い出し、知らず胸を抑えた。

 込み上げる想いが胸を切に焼く。

 彼女を――ティアを傷つけたのは自分なのに。勝手に自分の想いを見失い、勝手に離れ、そして勝手に苛んでいる。

 ――正直言って、滑稽だ。

 胸を切に焼く熱が冷水を被る。

 自虐的な笑みを口端にのせ、シシィは静かに瞑目した。

 胸を抑えるままに上衣を強く掴んだ手が震える。

 滑稽だと思うのに、なのに。

 それでも、ちりちりと胸を燻る確かな熱。


 ――ちあに、会いたい。


 それだけは、強く感じていて。

 彼女を愛しく想う心だけは、はっきりとしていた。

 そんな時。


『……お主、王の一族に連なる者か?』


 突として聞こえた別の声に目を開き、のろのろと視線を上げる。

 廊下に佇む男がいた。

 その男――精霊は、シシィらの顔を見やった瞬間に僅かに眉を寄せる。


『む。やはり秩序のもつれ……取り込み中であったか……』


 その場に漂う異様な空気にミントを追いかけて来たその精霊は、至極真面目な様子で、ふむ、とひとつ頷く。


『ならば、出直そうぞ』


 そして、踵を返す。

 困惑を見せるシシィに、ミントは慌てて去って行く背に声をかけるのだった。




   *




 精霊はヒョオと名乗り、彼は自身が泊まっているという船室にシシィらを案内した。


『我は精霊の身ではあるが、騎士隊に属する調査班員ゆえな。こうして個室が与えられる』


 そう言うと、彼はここまで横抱きにしていたジャスミンをベットへ寝かせくれる。

 疲れていたのだろう。彼女は既にヒョオの腕の中で寝息をたてていた。


『ゆえに、次の港までゆっくりしていくとよいぞ』


 掛布を優しくかけると、彼は意味有りげにシシィらを振り返る。


『して、お主らはあそこで何をしておったのだ?』


 まさか浮気ではあるまいし。

 彼はくくっと可笑しそうに笑ったあと、ついと目を細める。

 一気に空気が冷たく色を変えた。


『――もしや、何か知っておるのかえ』


 ひたと冷たく見据える瞳に、シシィらはぞくりと足がすくむ心地を覚える。

 瞬間。背に氷塊が滑り落ちるような怖気が走った。


『――っ!』


 いち早く感知したのはシシィだった。


『ミント、逃げてっ!』


 鋭く、一声。

 彼は肩に乗るミントを引っ掴むと直様投げた。

 ころりと床を転がった彼女が、壁にこつんとぶつかり止まった頃。

 ――きんっ。澄んだ音が室内に響き渡る。

 次いで、苦しげな声をミントの耳が聞き留め、彼女は慌てて顔を上げた。


『シシィ、さま……?』


 しかめる顔は苦しいからなのか。

 不快げにまゆを寄せ、シシィはミントを一瞥する。


『僕はいいから、早くっ!』


『でも……』


 逃げろと言われた意味を解しても、ミントは動けなかった。


『くっ……』


 胸を掻きむしるように抑えてうずくまる。

 彼の口からもれる声は苦しそうで。

 必死に震える声を抑えているようで。

 そんな彼の、シシィの姿をミントは見たことがない。

 怖気に駆られ、その場に縫い留められたミントはもう動けない。

 視界は滲むのに、縋り付くことも出来ない。

 ミントの精霊としての本能が告げている。

 シシィを囲う“あれ”に近付いてはならない、と。


『……これ、結界ってやつなのかな』


 震えそうになるそれを堪えながら発するその声は、弱々しいながらも張りのある声だった。

 薄ら開かれた碧の瞳が、自身を囲うように形成された陣を見下ろす。

 そこに編まれた言葉、織られた意味は読み取れなくとも、己の中を暴れるそれに大体の意味は察せられた。


『オド、か……っ……』


 憎々しげに吐き捨てる。

 強まる不快な波長に、先程よりも胸を抑え深く身体が折れ曲がり、彼の顔は苦悶に歪んだ。

 そんなシシィをヒョオは冷たく見下ろす。


『察しが良いな。人にとってマナが毒となれば、精霊にとってオドもまた毒となる』


 ヒョオを見上げる薄ら開いた碧の瞳は、苦悶に揺れながらも宿す光は力強い。


『隣人ゆえに、何時精霊が人へ牙を向けるかもわからぬ。その抑止として人が編み出した対精霊結界よ』


 ヒョオがちらりとベッドで眠るジャスミンを顧みた。

 規則正しく穏やかな寝息をたてる彼女。

 シシィは苦しさで喘ぐ中、違和を抱く。

 どうして、これだけの騒ぎの中で起きないのか。


『――この娘には眠り薬で眠ってもらっておる。安心せい、このくらいの物音で目を覚ましはすまい』


 瞬間。碧の瞳が見開かれ、鋭い視線がヒョオを貫く。


『盛ったのか』


『否。魔族の娘を保護したまで』


 まぞく――?

 口だけはそう動いたが、声にはならなかった。

 シシィがのろのろとジャスミンを見やる。

 すやすやと眠る彼女に現れた獣の耳。人ではないそれは、眠らされたことで化けていたものが解けてしまったのか。


『――お主に問う』


 抑揚のない声がシシィへ静かに問いかける。


『この魔族の娘を何処で拐かわした。……目的はなんぞか、答えよ』


 己を睥睨する視線を感じながら、シシィは何とかかぶりを緩慢に振る。


『……ちが、う……拐かしては、いない……』


 息が上がる。

 喘ぎながら紡がれた言に、ヒョオの瞳は冷たくひたと細められ、こつ、と靴音をわざと響かせて距離を詰めた。

 それが合図だったかのように結界の効力が増す。

 シシィの瞳は大きく見開かれ、震え、ぐあっ、と声も一際大きく響いた。

 ミントはかたかたと震え始め、小さな瞳には、今にも零れ落ちそうな程に涙が滲む。

 部屋の外で複数の気配が動く。

 そうか。この陣は外からのもの。ヒョオに仲間がいたのか。

 と。冷や汗が噴き出し、呼吸が浅くなる中でシシィは察した。

 気を抜けば意識も遠退きそうな気もする。

 だが、抗う意志は未だ燻り、爛々とした瞳がヒョオを睨む。


『……ほう、まだ足掻く余力があるか』


 ヒョオが感嘆の息をもらす。


『やはり、王の血筋に連なる精霊なだけはあるゆえ』


 そして、外の仲間へ合図を送ろうと一歩踏み出しかけた時だった。


『ダメなのっ!!』


 シシィの前に立ちはだかる小さな影。

 ミントが飛び出した。

 小さな手を目一杯に広げ、小さな怒りを携えた瞳は、涙で揺れながらもヒョオを一生懸命に睨む。


『シシィさま、いじめちゃ、めっ! なのっ!!』


『……ミント……逃げて……』


 シシィの声にも耳を貸さず、頑としてその場を動く意志は見せない。


『……反抗するのならば、お主も容赦せぬぞ』


 氷刃の如く冷えた声に、ヒョオが慣れた仕草で手を払う。

 刹那。ミントの足元にも陣が展開され始める。

 彼女は負けじと相手を睨めつけたまま。

 息を呑んだのは誰か。碧の瞳が震えた。


『待って、ミントはダメ――』


 シシィが言い終える前に、きんっ、と澄んだ音が無情に響く。

 それから間もなくして、彼女に張られた結界内にもオドが満たされて行く。

 濃度はシシィの比ではなく、それほど濃くはなさそうだけれども、問題はそこではなかった。


『……ミントはまだ、不安、定な状態……なんだ……』


 元気に動き回っていたから、一見そうは見えないのかもしれない。

 切羽詰まった声も、掠れては相手に届かない。

 相変わらずミントはヒョオを睨みつけたまま――。


『そんな状態で……負荷を、かけたりしたら――』


 その、ミントの身体が傾ぐ。

 シシィの瞳が大きく震えた。彼の瞳には、倒れゆく様がやけにゆっくりと見えていた。


『みん、と……?』


 ――あいっ!


 彼女の元気一杯な声は返らず、ただ身体をくの字に曲げてもがくだけ。

 苦しいと声を発することも出来ず、ただもがくだけ。

 シシィの身体から急激に血が下がって行く感覚がした。


『……何が――』


 起こっている――?

 ヒョオの唇が動くも声にならず。

 状況がわかっていないのは彼もらしく、意図したことでないことはわかった。

 だが、だからと言って看過することは――出来なかった。


『……――』


 吐息が、落ちる――刹那、硝子が砕け散るような音が響いた。

 砕けた刹那に風が巻き上がる。

 否。風ではなく、魔力の奔流。

 オドに満ちた結界が砕け散り、室内のマナと混ざったことにより、風のような動きが起こったのだ。反発し合うもの。

 巻き上がった奔流に、ヒョオは立つことに精一杯で、他に気を配ることが出来ない。

 室内のドアが勢いよく開かれると、今度は空気が入り込み、室内を照らしていた火元を吹き消した。

 瞬時に視界を閉ざし、雪崩込もうとしていた仲間を。


「待てっ――!」


 ヒョオの鋭い一声が踏み留まらせる。

 光源のなくなった中でも、シシィの碧の瞳は浮かび上がって見えていた。

 その瞳が鋭く細めれると、ぽ、と水面に波紋が生じるような、一気にその場の空気を冷やした。

 それは山の川のような清浄さを持った冷たさ。

 ふと、ヒョオの仲間の一人が気付く。

 何だか身体が重い――?

 いや、違う。すぐに己の思考を打ち消した。

 服が湿っている。それを重さとして感じたのだ。

 それに気付いているのはヒョオもであり、彼は内心で舌打ちする。

 これは水の気。己のように火の性質を持つ精霊は苦手とする。

 湿る衣服を乾かすことは可能だろう。熱の操作は火の精霊の得意分野だ。

 ただし、人の柔肌は焼ける。

 つまりは、動きが完全に封じられた。

 それに、気になるのはそれだけではない。

 結界内で倒れたまま微動だにしないリスの姿をした精霊。

 何が起こっているのか。判ぜるための情報が少ない。

 ゆえに、仲間の立ち入りを留めた。

 薄暗い中、ぼうと浮かび上がる碧の瞳が不気味だった。そこに宿るは明らかな敵意。

 そして、呆気なく砕け散った結界。

 目の前の青年の姿をした精霊の力量が読めない。

 わかっているのは、彼を怒らせてしまったということだけ。

 視線をちらと向ければ、凪いだ碧の瞳がヒョオを見た。

 その瞳に感情の色は伺えない。

 瞬間。ヒョオの背筋にぞくりとした怖気が走る。


『――……』


 動作、横一閃。

 シシィが手を横に払った。

 動きとしてはそれだけであり、まるで埃を払ったかのような軽いものだった。

 だが。


「……っ伏せろ……!」


 ヒョオが声を張り上げる。

 同時に、ぱりん、と何かが砕け散る音が響き、彼の仲間らはもはや反射動作で皆一同に伏せると、その上を何かが空気を裂いて通って行った。

 余波として、冷え冷えとして温度が走る。

 おそるおそる彼らが顔を上げると、ぱらぱらと木片が落ちる壁に横一文字に走った傷、そこから滴る水の存在があった。

 そして背後を振り返れば、余波の跡が廊下の壁にまで。

 そこからゆっくりと彼らの視線はシシィへ向けられる。


「……」


 ちょうど彼は、手にまとう水の気を振り払ったところだった。

 そして、凪いだ瞳から一転。


『ミント、もう大丈夫』


 その瞳は柔らかに揺れ、彼は横たわるミントを掬い上げるように抱き込んだ。

 彼女を囲っていた結界はとうに砕け散っていた。


『お主――』


 ヒョオが声を発し、伏せた身体を起こしかける。が。


『――僕らに危害を加えるつもりなら、次は容赦しないよ?』


 低く唸るシシィの声に動きを止めた。

 そして、ヒョオの視界からシシィの姿が掻き消えたかと思えば、後ろに気配が降り立つ。

 彼が跳躍したと半瞬遅れて気付き、はっと息を呑んで振り返る。


『――』


 未だベッドで眠り続けるジャスミンに覆い被さり、ぐるると低く唸る白狼の姿がそこにあった。

 前身を低くし、牙を剥く。白狼の昂りに呼応してか、室内に漂う水の気配が仄かな光を帯び始める。

 幻想的な光景に見えるのに、底冷えした冬の寒気をまとったそれ。

 淡く光が漂う中、苛烈な光を宿す碧の瞳がヒョオらを真っ直ぐ射抜いた。

 敵意が膨れた先は、一体何になるのだろうか――?



 精霊は人の隣人だ。

 時に人を助けることもあれば、時に人へ牙を剥くこともある。

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