またね、その続きを


 ざざん、海を割って進む音が響く――船内。その、一室。

 はて、どうして己は船に乗っているのだろうか。

 灯りもない船内の一室にて、身体の汚れを濡れた布で拭いながら、ジャスミンの紅の瞳は瞬く。

 連れられるままに船へと飛び込み、その一室へと転がり込んだ。

 その際に彼から濡れた布を手渡され、土や血やらの汚れを拭っているのだが、はて、この布もどこから失敬してきたものか。

 暗い中であっても、彼女の紅の瞳は景色を映す。

 積まれた荷物。積もった埃。どうやら倉庫に潜り込んだらしい。

 あまり人の出入りがないのか、喉に何かが張り付くような違和を感じる。油断すれば咳き込みそうだ。

 きぃ、と高い音を微かにたてながらドアが開き隙間が出来ると、通路から一筋の明かりが差し込んだ。

 隙間風が静かに吹き込み、積もった埃が舞い上がってきらめく。

 咄嗟にむずがゆくなった鼻を抑えた。

 そんな中でも、平然としてドアの隙間から通路の様子を伺う青年は、はて、誰だったか。

 気が付けばそこに居た青年は、やがて安堵したように小さく息を吐き出すと、ゆっくりとまたドアを閉めた。

 彼の白の髪がきらめいて見えたのは、そのほんの一瞬だった。

 閉め切るその寸前、僅かに残った明かりが、振り返った彼の髪を白銀に見せる。


「認識阻害の効果が働いてるからって、これも何の弾みで気付かれちゃうかわからないし、念には念をってやつだよね」


 はにかむように笑う彼へ、ジャスミンの手は自然と伸びていた。

 青年が息を詰まらせたのに気付きながらも、彼女は彼の頬へ指を滑らせ、そのまま横髪に触れる。

 なんだろうか。なぜだろうか。心の奥底が震えている気がする。

 気が抜けてしまったのか。ジャスミンの紅の瞳が、常の色である金へと変じた。


「……遠い昔、私はこの髪がすごく好きだった気がする……白銀に弾く、白の髪が……」


 呆然と紡がれる微かな声。

 その瞳から零れ落ちる、透明なきらめき。


「……あなたとは初めて会ったはずなのに、もう一度見ることができて、触れることができて……私、どうしてか……とっても嬉しいと思ってる……」


 なんでかな。へなりとジャスミンは笑う。

 はっと息を呑んだのは誰か。

 髪に触れる手を引かれたと彼女が思った頃には。


「初めてじゃないよ、二度目ましてだよ」


 青年に抱きすくめられていた。

 柔い彼の声が耳のそばで響く。


「また、逢えた」


 その声に、そのぬくもりに、どうしてかひどく安堵している自分に気付き、ジャスミンは彼の上衣を離れないようにと、しかと握った。

 それが合図だったのか、きっかけだったのか。安堵からの気の緩み、それらが今更ながらに、凝っていた先程までの恐怖をほぐして呼び起こす。

 ふいに顔がふにゃりと歪み、涙が溢れ出てくる。

 己の気持ちに戸惑い、身体の震えを自覚しながらも、込み上げる嗚咽を堪えるために彼の上衣を先程よりも強く握った。

 埃っぽい倉庫のような船室では、すすり泣く声が静かに響いていた。





 シシィとジャスミンは、彼女が落ち着き始めた頃にようやっと身体を離した。

 離れてからもジャスミンの頭を撫でるシシィの手付きが、まるで幼子をあやすそれのようで。


「――……」


 気恥ずかしさを覚えたジャスミンはむぐぐと口を歪めるも、その手付きが心地いいから払い除ける事も出来ずにいる。

 撫でやすいようにと、己の獣の耳が倒れているのも何だか腹立たしい。

 これではまるで、相手に己の頭を差し出しているようではないか。

 気持ちに対して素直になる傾向の強い己の尾も、やはり素直に床上を撫でるようにふぁっさと揺れている。

 いちいち素直になるこれらは何なのだろうか。

 降り積もった埃が体毛に絡まり、さながらハタキの役割を成してしまっていた。

 そして、しばらくジャスミンの頭を撫でていたシシィの手が離れると、目に見えてぱたりと止まる己の尾が憎らしい。


「――――」


 落ち着け。ジャスミンは己に言い聞かせる。

 気が緩むからいけないのだ。

 いつもよりも意識して呼吸を深くする。埃によりむずがゆくなる鼻を抑えながら、気持ちをゆっくりと落ち着けてから意識を巡らす。

 すると、獣の耳と尾は姿をなくし、彼女の横髪に膨らみが出来る。

 それを手で触れて人のそれであることを確認すれば、部位隠形術は完了である。

 これは魔族が人の姿に変じるのと同じことではあるのだが、半分しか魔族の血を継いでいない彼女が完全な獣の姿になることはないのだ。

 だから、彼女の母は部位隠形術と評したのだろう。

 完全な人の姿に変じる――端的に言えば化ける――ことは、ジャスミンにとっては気を引き締める意味を持つ。

 人の中に紛れて暮らすには、人として生きていくしかない。

 それは人と魔族のどちらの姿も持たぬ彼女には息苦しく、気の抜けないことで。


「――へぇ、上手に魔族の気配を隠すんだね。これじゃ、区別もつかない。君の色を知ってなかったら、僕も気付かなかったかも」


「……え、よく見たら顔がイイ」


 こうやって、違う目線で物事が見えたりもする。

 ジャスミンの顔を興味深そうに除きこむシシィの顔を、彼女もじいと凝視した。

 そこではたと思い出す。


「そういえば、二度目ましてって……?」


 こんな顔のイイ殿方に見覚えは残念ながらない。本当に残念ながら。


「ううん。いいよ、それは」


 青年が緩く首を横に振る。


「君が覚えてなくても、僕が覚えてる。だから、またねの続きから始めようよ」


「またねの、続き……?」


 そう、と笑って頷く青年の姿が解ける。

 ぶれたように見えた姿に、思わずジャスミンが目を擦った間に彼は白狼の姿へと転じていた。

 真っ直ぐにジャスミンを据える彼の碧の瞳。その瞳に彼女の奥底がまた震えた。

 見覚えのある瞳。耳に残る、拙くて幼い――またね、を告げた声。


「―――」


 吐息がもれ、ジャスミンは手を伸ばす。

 白狼は両の耳をぺたんと倒し、その手を受け入れた。

 ふぁっさふぁっさと嬉しげに振れる音は、白狼の尾の音だった。

 触れるぬくもり。触れる感触。金の瞳を見開く彼女は震える声で紡ぐ。


「……あの時の、精霊さま……?」


 金の瞳に涙の膜が張る。


「だから、二度目ましてなんだ」


 瞬けば零れ落ちる程に厚みを持った膜が、ふにゃと笑った弾みに涙となって剥がれ落ちた。


「……またねの、その続き――」


 今度はジャスミンが白狼を引き寄せ、その腕の中に収める。

 一瞬驚いたように身体を硬くした彼だったけれども、また静かに泣き始めてしまった少女に身を任せた。

 すんすんと鼻を鳴らす彼女に、思い出してもらえた嬉しさからなのか、わふうと白狼は満足げに息をもらした。




   *




『ミントは空気の読めるいい子なの』


 どこか誇らしげにリス――ミントは、夜のために人気のなくなった船内の廊下をてちてちと歩いていた。

 輪郭すら曖昧にする暗い廊下を進んでややすると、彼女は外に面した廊下に出た。

 欄干を伝って登ると海を眺め始める。

 認識阻害の効果はシシィから離れても問題なく働いている。

 廊下に人の姿があっても見つかることはないはずだ。

 ざんっと波を越える度に弾む船。

 航海する波音を耳にしながら海風を受ける様は。


『ミント、デキルオンナみたいなの』


 そんな感じを彷彿とさせるようで、すごく心地が良い。

 いい感じに体毛も海風になびいている気さえしてきた。

 実際そうだろう。

 シシィはあの娘を知っているようだったし、実際に対面した際には訳ありの雰囲気を醸し出していた。

 それを自分は察し、ふたりきりにしてあげたのだ。

 いい子以外の何ものでもないだろう。


『それに、シシィさま笑ったの』


 少しでも元気が出たのならば、それは自分としても嬉しい。

 海街を出てから、彼はふとした瞬間に暗い顔をしていることが多かったから。

 ふふふと小さく笑うと、その嬉しさのあまりに、ミントは自分で自分の頬を揉む。

 が、しばらくその余韻に浸っていたところで、ミントは突然己の目をはっと見開いた。

 揉んでいた手の動きも止まる。

 ちょっと待って、と。彼女の胸中に焦燥がじわりと忍び寄る。


『……シシィさま、オンナノコと二人っきりなの……ティアさまじゃない、オンナノコとなの……』


 もしかして、自分はとんでもないことをしでかしてしまったのか。

 ぶるりと自分の思考に震え上がる。


『……ミント知ってるの』


 さあと血の気が引く音を耳にした気がした。


『しゅらばって……ちつじょのもつれっていうの……』


 ああ、どうしよう。

 落ち着きなく欄干上を行ったり来たりとする。

 ああ、どうしよう。

 今からでも現場に乗り込むべきか否か。

 ああ、どうし――。

 と。そこではたと気付き、踏み出しかけていた足を引っ込めた。

 ぱちと瞳が瞬き、こてんと小首を傾げる。


『しゅらばって、どういう意味……? ちつじょのもつれ……?』


 はて。その言葉が意味することとは――?


『ミント、どうして慌ててたのかわかんないの』


『――それはつまり、浮気のようなものかえ?』


 突として響いた自分とは違う声に、弾かれたようにミントは勢いよく振り返った。

 そこには自分を見下ろす初老の手前くらいに見える男の姿があった。

 船が切る風に揺れる髪は淡紅色。

 物珍しそうな眼差しだが、不思議と不快感はない。


『このような場にて精霊と会うのも珍しい。お主、結びを得ている者がこの船にいるのかえ? ……はて、そのような報は聞いておらぬが』


 気配とまとう空気でミントは瞬時に気付く。

 彼は自分と同じ精霊だ。それも位は上の存在。


『上位さま……?』


『む? 確かに我は上位精霊になるのかの。……まだ日は浅いゆえに、ちと実感に乏しいのだがな』


 顎を擦るだけで様になり、品の良さが際立つその精霊は、それだけで精霊として妙齢なのは察せられた。

 自分なんてほんの小さな子供だ。

 彼のまとう空気に呑まれたのか、ミントは呆けたままその精霊を見上げる。


『くくっ、それで浮気の件は大丈夫かえ?』


 そんな彼女を面白そうに目を細めて見やる精霊が、これまた面白そうに問いかける。

 そこでやっとミントも思い出す。


『あっ! そうなのっ!』


 そう叫ぶ彼女に、彼はくつくつと喉奥で笑う。


『シシィさま、浮気はだめなのーっ!!』


 するや否や欄干を跳び下り、そのまま廊下をとてててと駆け出して行く。


『浮気の意味は知っているのかえ』


 くっくと楽しげに笑うと、ミントの後を追うべく彼もまた歩き出した。

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