白狼と獣の子、再び
小瓶の口がジャスミンの口へとあてがわれる。
悔しげに歪む紅の瞳。だが、それが活力を取り戻したように瞬いた。
小瓶の口を自身の口へあてがわれたからといって、何もそれを大人しく受け入れる必要はないはずだ。
「嬢ちゃん、お口を開けようか」
眠り薬を飲まないジャスミンに焦れたのか、にひるな男の指が無遠慮に彼女の口をこじ開けようとする。
ならば、と。わざと口元を緩めれやれば、案の定、男の指が口内に入って来る。
その感触に全身の毛が逆立つような嫌悪を覚え、実際に尾は逆立った。
にやと嫌な類の笑いの気配が周りの男らからし、紅の瞳は不快げに揺らぐ。
緩んだ口元から口内へ垂らされる眠り薬の、その妙な甘ったるい味の中、何とも言えぬ男の指の感触、味に嫌悪は増すばかり。
「さあ、飲め」
そして、そのにひるな笑みが癇に障った。
飲むもんか。始めから飲むつもりもなかったのだから。
反撃のつもりで男の指に牙を突き立てる。
今宵は月夜。そんな夜のジャスミンには、常よりも魔族としての獣の血が力をより宿すのだ。
獣の如く鋭さを持った牙は思ったより深くいったようで、薬の甘ったるい味が徐々に鉄の味へと置き換わる。
それが気持ち悪く牙を外せば、直様ジャスミンの口から男は指を引き抜いた。
男の指から手の甲、腕へと赤いそれが伝い、その場の空気が怯む。
それが隙だった。
自身を捕える男の力が緩んだその一瞬を突き、その男の顔へ眠り薬を吹きかける。
拘束から抜けざまに手を下から振り上げて爪で裂けば、赤の軌跡が淡く走った。
咄嗟に腕を交差して男は身を庇ったために深くはなく、致命傷にはならない。
肉を断つ感触が爪に残る。動揺を誘うのが常だが、さして気にしないのは気の昂りのせいだろうか。
口の中に残る鉄の味も、爪に残る肉を断った感触も、陽の昇る時間帯ならば、動揺で動きが鈍ったのかもしれない。
しかし、身を護る術だろうと肯定する本能があるのもまた、とうに人としての常識の自制が薄れているのかもしれない。そう、自制が薄い。
夜の中、紅の瞳が爛々と光を宿す。
別に人を傷つけるのもこれが初めてじゃないし――事実、ジャスミンはそれでよかった。
彼女の目的は退路を得るためだから。
仲間らが動く前に路地壁を背に陣取る。
男らが腰の剣を引き抜こうとする気配があるが、それを引く抜く前にジャスミンが屋根上へと駆け上がる方が速いだろう。
しかし、ジャスミンが屋根上を振り仰いだ途端に、彼女は軽いめまいに襲われる。
いや、これは痺れ――。
くらりと視界が揺れ、身体の痺れを自覚した。
飲み下さなかったとはいえ、一度口にした薬は僅かながらに飲んでいたらしかった。
「微量でも効能は確かなようだ」
嘲笑の響きを持った声に、立つのもやっとの中で振り返る。
月光に照らされる中、にひるな男の顔が嘲笑で歪む。
下げた男の手、その指からは変わらず赤が滴り、路地を吹き抜ける微風がジャスミンへ鉄の匂いを運ぶ。
その匂いに尾は揺れ、紅の瞳は男を真っ直ぐ睨み返すも、男には見抜かれているのだろう。身体の痺れで屋根上へと逃げる余力などないことは。
その証拠に、ジャスミンを見返すひにるな男の瞳には、余裕の光がたっぷりとはらんでいた。
どうする。悔しさと焦りにジャスミンが歯噛みした――その、刹那だった。
ジャスミンの頭上から小さな影が躍り出る。
彼女と男らの間に割り込むように着地を決めたのは。
「リス……?」
それは誰の呟きだったか。
『ていっ』
合図は随分と可愛らしい掛け声ひとつ。
リスが小さな両の手を地に付けると、そこを起点として地が盛り上がりを始め、瞬く間に隆起すると、彼らとジャスミンを隔てるように土壁が立ち塞がった。
「!?」
息を呑む音が男らからしたかと思えば、はたと我に返った者から、ある者は剣を土壁に突き立て始め、ある者は蹴りを入れ始めて壊しにかかる。
その箇所からぼろと崩れ始める様から土壁の強度が知れる。
然程強くないことはリスにもわかっていることであり、彼女は盛り上がったそれから飛び降りると、呆けて見上げるだけのジャスミンの元へと直ぐに駆け寄る。
『早く、上に上がるのっ! ミントの土壁、そんなに強くないのっ!』
ぐいと押し上げるように、ジャスミンの身体を小さな身体で必死に押して訴える。
が、言葉がわからないジャスミンには、リスの言は伝わらず困惑げに瞳を揺らして首を傾げるだけ。
『早くなのっ!!』
焦れたように叫ぶリスは、ちらりと土壁を振り返ってジャスミンの身体を強く押す。
けれども、悲しいかな。圧倒的な彼女らの体格差が、状況の好転には繋がらない。
「……もしかして、私に上がれってこと……?」
ざくざくと土壁を崩す音が続く。
だが、男らの行く手はその土壁に阻まれている。もしかして、時間を稼ごうとしてくれているのか。
視線を落とし、リスの必死な様を見やる。
ようやくして、リスの意図を察したジャスミンがゆらりと立ち上がった。
身体の痺れは未だ続き、足取りが少々不安定だが身体は動く。
夜空を仰ぎ、屋根上を見定める。
一足飛びには無理でも、這い上ることは出来そうだ。
身を屈め、ばねのように跳ぶ。屋根の端を手で掴んだ。
しかし、彼女の獣の耳がぴくりと動き、はっとして振り返って――そこで土壁の一部が崩壊する。
にひるな男が屋根へと手を掛けたジャスミンを鬼気として睨んだ。
その視線が絡み、総毛立つ。必死に屋根へと上がろうとするも、もたつく手足がうまく動かせない。
息が詰まる。落ち着けと思考は告げるのに、気持ちは落ち着かない。
と。ジャスミンの視界の端。白い何かが掠めた。
引き寄せられるように顔を上げると、月光を銀に弾く体毛をなびかせた白狼の姿があった。
ちらりと碧の瞳がジャスミンを見やる。
「大丈夫。落ち着いて」
低いけれども、どこかあどけなさを残す声が、優しく彼女に降り落ちた。
そして、その白狼はまた土壁へと視線を向ける。
『今のうちなの』
いつの間にか屋根上へと上がっていたリスがジャスミンを促し、小さな両の手で彼女の手を掴むと、んしょと懸命に引き上げようとする。
ジャスミンもリスの気持ちに応えるように、壁を踏み足代わりに屋根へと這い上がった。
力が抜けてしまったのか、ぺたんとその場に座り込み、しばし呆けて――空気が震えた。
紅の瞳が怯えたように瞬く。
空気に含まれる何かが、一つの方向へ流れているのを肌で感じ、ジャスミンの瞳がその動きを追う。
視界の端。リスが白狼の頭へ跳び乗った。
そして、ジャスミンは震え上がった。濃密な魔力の気配に本能が畏怖したのだ。
くわりと開かれた白狼の口腔に、空気中の魔力が集まり、濃密な気配がその存在感を放つ。
が、すぐにジャスミンは己の考えに否を唱えた。
「……違う。魔力をまとってるけど、違う」
あれは魔力に促された水の気配。空気中の水の粒子が急速に集まり、球状の水の塊を形造っているのだ。
濃密でそれなりの大きさだった水球が、凝縮され、小さくなっていく。まるで圧縮されていくように。
と。ぴくり、ジャスミンの獣の耳が動く。
はっとして土壁の方へ視線を走らせれば、男らの行き先を阻んでいたそれが崩れ落ちる瞬間だった。
目が合い、息を詰まらせる。
口内に男の指の感触と、鉄の味が広がった気がした。
ぞわと不快感が肌の下を這い、忌々しげに小さく舌打ちをする。
そんな気持ちが胸中で渦巻き始めた時だった。
「あ、力の加減間違ったかも」
その声は張り詰める空気の中で、随分と緊張感のない声だったように思えた。
ジャスミンの視界の端で、ひゅんっと何かが掠める。
『ていやっ!』
次いで、動きに合わせるようにリスが何事かを叫ぶ。きゃっきゃと楽しげな声だった。
視界の端を掠めたものは何かと、彼女の中で疑問として浮かび上がる前に、その結果は目の前に現れる。
彼女の目の前で何かが爆ぜた。
それは地を抉り取ると、薄霧を広げ視界を奪い取る。水の気をはらんだそれは、先程まで白狼の口腔に留まっていた水球ととても似ていた。
まさか、とジャスミンが思う間にも、彼女の耳はひっきりなしに動き、音を拾って状況を把握する。
爆ぜた衝撃で複数の何かが地を転がり、何かにぶつかる音を響かせかと思えば、直後の呻き声を最後にしんと静まり返る。
ぱらぱらと何かが崩れ落ちる微かな音は何か。
そう。先程から、何か、ばかり。判然としない状況に焦りともどかしさが滲む。
だが、それも少しの間だけだった。
夜風が薄霧を吹き飛ばして行く。
「あー……やっぱり、力の加減を間違えちゃったなぁ……」
視界が晴れ始めた頃、しくじったという色を含んだ声がこぼれ、ややして、彼女の目の前には、その声を肯定するかのような光景が広がっていた。
「――……」
どう反応するのが正しいのか。
ジャスミンはただ、吐息をこぼすだけだった。
彼女の目の前に広がるのは、クレーターとも言うべき具合に抉れた路地道と。
「壊しちゃった」
悪びれることなく白狼が言うように、周囲の家屋が一部崩壊していた。
そして、路地の端では男らが転がり、ぴくりともしない。伸びているのだろうか。
呼吸をしているのは上下する腹部でわかる。
それにしても、何と言葉を発すればいいのかと、ジャスミンは途方に暮れた。
だが、それも一瞬のことだった。
ぴくりと彼女の耳が動く。それは白狼の耳も同じで、両者は同時に振り向いた。
表通りがにわかに騒がしい。
彼女らの耳が拾うのは、悲鳴に物々しい音。
「……騎士様たちが来る」
緊張はらむ声でジャスミンが呟く。
ここらの騒ぎを聞きつけた巡回の騎士らが向かっている音がする。
これはまずい。じんわりと冷や汗が噴き出す。
どうしようかと意味もなく辺りを見回す中、白狼が身を屈めるのを視界に認めた。
ぱちと、ジャスミンの紅の瞳が瞬く。
戸惑う彼女に、白狼は碧の瞳を向けて言った。
「乗って。見つかると面倒事になりそうだし」
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