第三部

第五章 白狼、その道行

月夜に駆ける獣の子


 あの海街から遠く離れた港街。

 街を吹き抜ける夜風に紛れて駆ける影があった。

 うねるように建物と建物の間の裏通りを駆け抜ける。

 後頭部の高い位置で結われた栗色の髪が跳ね、風の軌跡を描くようになびく。

 港街ゆえに多くの行商や旅人が訪れるこの街は、宿街としても知られる街。

 ひとつ表通りに出れば、宿屋が散見する。

 宿屋と酒場が併設されているのも珍しくはなく、夜も更ける頃合いだというのに、表通りは活気に包まれていた。

 だから、表通りに出られさえすれば、追いかける奴らも諦めるだろうとそちらへ駆けているのに。


「――っ」


 奴らはどうやら表通りへは出て欲しくはないらしく、先程から先回りをされてしまう。

 栗色の頭から見える狼のような獣の耳がくいと動き、駆けていた足が止まる。

 紅の瞳が焦れたように周囲を見渡し、くるりと身体の向きを変えるなり、先程とは別方向へと駆け出した。

 何だかどこかへと誘導されているのは気のせいか。

 気のせいであって欲しいな。

 細めた紅の瞳が苛立ちで揺れる。

 常の恰好となっていたトレンチスカートは、走りにくいのと尾を収めるのに窮屈でとっくに脱ぎ捨てた。

 今はその下に履いていたホットパンツ姿で、おかげで走りやすくはなった。

 お気に入りだったのにと悔む気持ちはあるも、この状況下では仕方がないと諦めた。

 しかし気が付けば、頭にカチューシャの如く巻いていたバンダナは飛ばされたらしく、そちらはあとで探しに行くと決めている。

 あの赤チェック柄のバンダナは、母の形見となってしまった大切なものだ。

 辺りを警戒して、獣の耳があちらこちらと忙しなく動く。

 その耳が前方と後方から足音を拾った。

 相手方はどうやら挟み込むつもりらしい。


「妙な仲間意識なんか持つんじゃなかったな。逆に追われるなんて、運のない。面倒事はごめんだよ」


 足を止め、ぼやく声をもらしながら視線を走らせる。

 その刹那。雲に隠れていた月が姿を現し、月明かりが人影――ジャスミンを照らした。

 引き寄せられるように彼女が夜空を仰ぎ、口端がにいと不敵に笑う。

 追われていることに対し、ぼやく気持ちはあれど嘆いてはいない。

 今宵は満月。だからか、常よりも気が昂る。

 狼は月に感化される。それは満月に近い程に。

 尾を一振り。それを合図にジャスミンは地を蹴り上げ、軽やかに一飛で屋根上へと飛び上がった。

 これで屋根伝いに行けば奴らを撒くことも出来るだろう。

 屋根に着地したところで風が気まぐれに報せを運んでくれた。

 すんと鼻を鳴らす。


「あの子たちはうまく逃げ出せたんだ」


 ジャスミンの気持ちに反応した尾が小さく左右に触れる。

 風が運んだにおいで四方に散ったのがわかった。


「……半分しか同じ血が流れてないっていうのに、なんかほっとけなかったんだよ。これが同族心って奴なのかなぁ」


 苦く笑い、小さく肩をすくめる。

 たまたま魔族の気配を感じたのが始まりだった。

 こんな魔族の国から離れた地で気配を感じるのは珍しかったから、なんとはなしに気配を追ってみれば、こそこそとした奴らがこそこそとしていた。

 そこにちらと囚われている様子の魔族を見てしまい、どうしても放っておくことが出来なかったのだ。

 おそらくは、あの子たちは魔族としては力の弱い子たちなのだと思う。

 人に化けられない程に力は弱く、ゆえに魔族の国で暮らすのも難しく、普通の動物に紛れて暮らしていたのだろう。

 何だかそこに、己と重なる部分もあり、余計に放っておけなかったのだと思う。

 自分だって、魔族の要素は獣の耳と尾と、そして紅の瞳というだけであり、普段は部分隠形の術と母が呼んでいた手段で隠して暮らしているのだから。

 部分隠形の術と大層に言っても、結局は人と異なる部分を隠しているのでなく、化かしているだけに過ぎないのだと、この頃ようやくわかってきた。

 それだけ自分は魔族事情には疎い。

 だから、無意識に繋がりを求めてしまうのかもしれない。


「――」


 静かな夜風に吹かれながら、ジャスミンは服の上から胸元をぎゅっと掴む。

 そこには首から提げ、服下に忍ばせた首飾りがある。

 母から幼い頃に譲られた、栗毛の獣の毛が装飾された首飾り。

 これもある程度自分が大きくなってから気付いたことだが、これはきっと、自分の実の父にあたる魔族の毛を加工したものだ。

 首飾りの毛が放つ波長が、自分のそれと随分と似通っているのはそういうことなのだろう。

 自分が人に化けた際の金の瞳は母であり、栗色の髪は父から継いだものだったのだ。


「あ、追いつかれる前に逃げなきゃ」


 そして、はっとするようにそれを思い出すと、ジャスミンは屋根上を蹴る。

 たんったんっと、屋根と屋根を一足一飛で軽やかに飛び越えて行く。

 駆けた疲労を感じにくいのは、今宵は己の中を流れる魔族の血が月に感化されているからか。

 幼い頃はその度に高熱で苦しんでいたが、今は余程のことがない限りそれはない。

 人の身では耐えられないそれも、成長と共に造りが変質したのかもしれない。

 無理をしなければ何ということもない。

 散々と厄介事に巻き込まれたり、苦しまされてきたこの血も、一度受け入れてしまえば、自分の持ち得る武器のひとつとしては心強いのだ。


「……それに、お父さんとかユーリとかが居るから、なんてね」


 口元が緩む。

 こんな半端な自分を受け入れてくれる存在もあるから頑張れた。

 嬉しげな彼女の気持ちに反応して揺れる尾は、誰よりも彼女の気持ちに忠実だった。


「……でも、ユーリに嘘ついちゃったんだけど」


 数日中に帰るという手紙を弟へ出したのに、この厄介事に自ら巻き込まれに行った関係で、既にその期日は過ぎていた。

 尾が頼りなく垂れる。

 と。悔いながらも、己の行動に後悔はないと思い直した時だった。

 目の前へ何かが投げ込まれた。

 たんっ、と。次の屋根へ足が着いた瞬間を狙ったらしいものだった。


 ――このにおい……!


 顔をしかめ、無意識に服の袖で鼻を抑える。

 が、それすらも意味なく鼻を突き刺す強烈なにおい。

 あまりのそれにジャスミンの目尻に涙が滲む。

 目にもしみる。臭い玉だ。そう直感するも、彼女は堪えられなくなり、屋根から倒れ込むように飛び下りた。

 下りた先は家屋と家屋の間を通る細い路地だった。

 状況を探ろうとすんと鼻を鳴らすも、既に鼻は利かなくなっており、使い物にならない。

 苛立ちが表立ったのも一瞬で、風が運んで来た気配にはっと表情を引き締める。

 広い路地へと通じる方向から複数の気配。

 ならばと肩越しに背後を顧みて息を呑んだ。

 塀とそこに立てかけられた材木の角材。

 逃げ道を絶たれか――が、舌打ちしたい心境をすぐに追い払う。

 あの高さなら跳び超えられる。ついでに角材を倒していけば、時間稼ぎにもなるだろう。

 差し込む光明さながらに口端がにいと弧を描くも、それはすぐに掻き消えた。

 雲が月を隠し、塀に気配が生じる。

 次に雲が流れて月明かりが照らした時、そこに男が立っていた。

 鼻が利かなく、人が居ることに気付かなかった。

 今度こそジャスミンは舌打ちする。

 そして、ざわざわとした気配の群れに前を向けば、複数の男達の姿。

 挟み込まれ、退路も絶たれた。


「なんだ、オレらの仕事の邪魔をした野郎はどんなだと思ったら、こんな可愛らしい嬢ちゃんだったとは」


 にひるに笑った男が言った。


「オレらも食い扶持繋ぐのに必死なんだよ。不完全とは言え人に化けられる魔族なら、雇い主さんも報酬は弾んでくれるだろうしさ」


 だから――と笑みを深くする。


「大人しく捕まってくれると有り難いなぁ――」


 男達が身構えた。

 おそらく、あのにひるに笑う男が一言発せば動くのだろう。

 ジャスミンの心が急激に冷える。

 魔族を捕えるのが目的らしい奴ら。その目的は見世物か、はたまた己のための愛玩か。

 どちらにしても、碌なことではないだろうことは察せられる。

 人は己らと違うと知れば恐れ、害がないと知れば途端に下に見る。

 はっと吐き捨てるように息をつく。

 体勢を低くして警戒体勢をとると、ひどく冷めた紅の瞳が男達へ向けられた。


「……私は魔族じゃないし」


「じゃあ、その姿は何だって言うんだよ。――少なくとも、人じゃないよな」


 ジャスミンの人とは違う獣の耳に、人にはない尾を見やる。

 小馬鹿にするように問うたにひるな男に、ジャスミンもまた不敵に笑って応える。

 たらり、冷や汗が頬を伝う。


「――私は、私以外の何者でもないよ」


 苛烈な光を瞳に宿すと、彼女は地を蹴った。

 月光が艶やかに照らす。

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