さあ、名前を教えておくれ?


 彼女は水の精霊であり、水は癒やしの気を持つゆえに、痩せた土地の疲れを癒やしてきた。

 けれども、あの時からどれくらい経ったのか。

 それはもはや、彼女にもわからない。

 ただわかるのは、あやふやになってしまうほどには、時を重ねているということだけ。

 きっとあの時の出来事が、自分における分かれ道だったのかもしれない。

 それは遠い遠い記憶。気が遠くなるほどに。

 とても穏やかで優しく柔らかな、されど、痛みもはらむ記憶。けれども、やはり大切な記憶。

 そして、そんな記憶を抱いたままに、時は過ぎ行き自身は老いぼれとなっていった。

 気が付けば人は代を重ね、細々とだがその生を繋いでいた。あの人の血は、確かに継がれていたのだ。

 知らぬ間におばばとも呼ばれ、寄り添うようにひっそりと、見守るように穏やかに、ずっと近くで見てきた。

 ずっと、ずっと――。




   ◇   ◆   ◇




 とある人が散り際に願ったそれが、縛りとなりて、彼女をこの地へ縫い留めた。否、縫い留めてしまったと言うべきか。

 その願いはとてもささやかで、ひとひらの雪片の如くに儚いものだった。

 そのまま溶けて消え行くものだと、その人は思っていた。




   ◇   ◆   ◇




 痩せた土地を領地とするその領は、領都となる小さな町を抱くだけだった。

 もとは幾つかの小さな村が点在していたが、次第に寄り添うように集まり、やがてひとつの町、領都となった。

 都と呼ばれど、領町と呼ばれた方がしっくりとくる。

 水源となる幾つかの小川が近くを流れているのは、土地を癒し続けてくれている老狼の精霊のおかげだと人々は感謝し、乾燥した土地でも育つ作物をみつけた時は、当時の領主も領民も共に彼女と大層喜んだという。

 そして時は流れ、そんな領都を見下ろせる高台に建てられた屋敷。

 それが若き領主となった、ロンドが住まう屋敷である。




 ――敷地の一角、その地下。


 窓もないゆえに、一筋の光も差さぬ一室。

 だが、その室内はなぜだがぼんやりと見渡せる。

 それは薄く紅の色をはらむ何かが、室内をぼんやりと浮かび上がらせているから。

 壁に、床に、天井に、処々に成す鉱石のようなそれが、薄く光を帯びる。

 否。紅いそれは鉱石などと呼べる類いの物でなく、それは恐ろしい物だということを彼らは本能で知っている。

 そして、己らをここへと連れ込んだ要因は、あの鉱石のようなそれの欠片だ。

 身を寄せ合い震える彼らは、鳥籠のような造りの牢に囚われていた。

 鳥籠の中にはふよと浮かぶ光の粒の姿。彼らは下位精霊だった。

 その鳥籠は幾つもあり、その中で同胞らが震えている。怯えている。泣いている。嘆いている。

 どうしてここに居るの。

 どうして閉じ込められているの。

 どうして、どうして、どうして――。

 たくさんのそれが彼らの中でうごめき、疼き、埋め尽くす。

 下位というのは、精霊としてはまだ未熟であり、未熟だからこそ転移術のような高等なそれは扱えない。

 それがより、言いしれない不安を膨れ上がらせる。

 そして、彼らはもう一つ本能で気付いていた。

 紅い鉱石のようなそれから、多量なマナが漏れ出ているということを。

 それらがこの場をマナで満たし、擬似的なマナ溜まりを作り出している。

 鳥籠の中で時折、彼らが、その同胞らが、動きをみせてマナを散らしてみるも、それが悪あがきに過ぎないこともわかっている。

 けれども、少しでも浄化しなければと、使命感に似た何かが彼らを突き動かす。

 それが彼ら、精霊に課せられた役目だから。

 そして何より、マナが満ちてしまえば、己を保てなくなってしまうことも知っているから。

 誰もが最も恐れる、それ。己を見失いたくはない。

 ここに連れ込まれ、捕まる前後の記憶があやふやなのも、きっとあの鉱石のようなそれに惑わされていたから。

 己を見失いかけたあの感覚は、恐怖以外の何物でもないのだ。


 ――なのに。


 ほるり。時折、光が垣間見える。

 ほるり。ほろり。視界の端に光がかすめる。

 これは何の光――?

 同じ鳥籠から、隣の鳥籠から、部屋のあちらこちらから、喘ぐ声が、苦しげな声が、嘆く声が、聴こえる。

 これは何の声――?

 そして、気付く。ああ、これは身体の解れ。

 少しずつ解れ、少しずつ己が解らなくなる。

 もう、終わりだ。そう悟った。

 そんな時だった。


「――――」


 よくは聞き取れないが声がした。

 ふるりと彼らが一斉に震え上がる。

 この声の調子は、自分たちをこの鳥籠に閉じ込めた者の声だ。

 怖い。怖い。怖い。ふるふるりと震えが増す。

 鳥籠内の彼らは身を寄せ合い、安心を求めるように互いのぬくもりを求め合う。

 ああ、足音がこの部屋の手前で止まった。

 ぎゅっ、さらに寄り集まる。

 あの人が入って来る――。

 そう思い、怯え、震え上がっていたが、実際に部屋へ足を踏み入れて来たのは違う存在だった。

 扉を開けることなく入って来たその存在は、真白の体毛をふわりと揺らしながら舞い降りるように姿を現した。

 その存在はぐるりと周りを見回すと。


「確かにこの濃さのマナじゃぁ、坊やたちは踏み入れられないねぇ。おばばでも、ちょっと、ぴりっとしちゃうからねぇ」


 自分らには解らない言葉を扱った。

 けれども、彼らは知っている。

 その存在が扉を介することなく入って来たのは、その存在が転移術を扱ったからだ。

 転移術を扱えるのは精霊だけ。そして何より、その存在が放つ気配が雄弁に語っている。

 彼女は精霊だ、と。

 そう思った瞬間、鳥籠で身を寄せ合っていた彼らは、格子の前に群がるように一斉に集まった。

 助けに来てくれたんだ。助かるんだ。

 口々に言い募り、安堵の息をもらす。

 彼女は己ら下位よりも上の存在の上位精霊であり、さらに“白”を持つ者。

 そして何より彼らを安堵させたのはその姿だった。

 白狼。それは当代の精霊王と同じ容姿。つまりは、その血筋に連なるものということ。

 もしかして、精霊王様の加護によるお導きか。

 誰かが呟いた。

 その呟きに反応したのか、白狼がその場の鳥籠を見回す。


『皆、元気がいいんだねぇ』


 ゆったりとした口調に穏やかな声音。

 老いた精霊が醸し出すゆるやかな雰囲気があるからか、不思議と親しみも覚える。

 自分らも知っている言葉に、彼らはもう我慢が出来なかった。

 助けて。お願い、助けて。ここは怖い。怖いの。

 口々に訴える彼らを白狼は一瞥し、ふわりと微笑む。


『ああ、そうだねぇ。ここは怖いかもしれないねぇ』


 と言うと、白狼は改めて室内を見渡した。

 輪郭も呑まれる程の闇。

 けれども、ぼんやりと彼女の白を浮かび上がらせるのは、あちらこちらの紅い鉱石。否、これは魔結晶。紅魔結晶。


『……紅は血の色、おばばも好きじゃあないねぇ……この土地はたくさんの紅で穢されてきたしねぇ……』


 閉じられている彼女の瞳だが、紅魔結晶を見つめる瞳は、憂いで揺れているような気がした。


『さて』


 が、その瞬間には憂いの雰囲気は霧散し、彼らを見やる時にはまた微笑んでいた。


『先ずは自己紹介をしようかねぇ?』


 ――え……?


 彼らから戸惑いの色が滲む。

 しかし、白狼はその様子に気付かないのか言葉を続ける。


『……と言ってもねぇ、久しく誰からも呼ばれていないから、あたしも名前は忘れっちまったねぇ』


 困った困ったと繰り返すも、ちっとも困った様子ではなさそうだ。


『そうさねぇ、ここは皆から呼ばれるおばばと名乗っておこうかねぇ』


 鳥籠の中で震える小さな精霊らを、白狼が閉じた瞳で見据えると、彼らはより一層震え上がった。

 どうしてだろう。どうして身体が震えるのか、彼らには解らなかった。

 けれども、本能が異様な空気が漂っていることだけは訴える。


『真名はきっちりと覚えているのにねぇ、年寄りは嫌だねぇ』


 白狼の笑みが深まった。

 人好きな笑みなのに、どうしてだろうか彼らの震えがおさまらない。


『――さて、そろそろいいかい?』


 ――なにを……?

 との震える問いは、誰の声か。


『なにをって、決まっているじゃあないかい』


 変わらずのゆったりとした口調。

 おばばとの名の通りに、おばあちゃんという感じで温かみのある声。

 そんな彼女のまぶたが震え、閉ざされていたそれがゆっくりと開かれる。


『――さあ、真名なまえを教えておくれ?』


 彼らの――精霊らの奥底を視るために、白狼の蒼の瞳が現れた。

 そして、しかと映された真名を――。




 真名を暴かれれば、それは縛りとなりて意に従える糸となる。


 ――第三部、続――

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