幕章 老いた狼

老狼のおばば


 そこは国の端に位置する領だった。

 近隣国間との戦がなくなり百と数十の時が流れ、王都を中心に、人々の生活は少しずつだが活気を取り戻し始め、そして発展していった。

 豊かになった王都の生活の噂はこの領でも耳にする。

 だが、そんなものは所詮、夢物語だ。

 どれだけ豊かになろうと、疲弊仕切ったこの土地に恵みはもたらされない。

 度重なるかつての戦にて、この土地を疲弊していった。

 国の端。つまりは幾度も戦場と化した地であり、戦に勝敗が決まろうが、その度に属する国が変わるだけのただの国の端。ただ、それだけの地。

 幾度も幾度も繰り返された、奪い奪われの強奪。何を、とはあえて口にせぬそれ。

 そうして残されたのは、疲弊仕切った痩せた大地のみ。

 その地にあるのは、岩や石が転がる乾いた土に、なけなし程度に生える草ばかり。

 そんな土地で人が栄えるだろうか。

 年々とその数を減らし、気が付けば、人に惹きつけられる精霊も去っていた。

 するとどうなるか。マナは濃くなり、より苦しくなるばかり。

 マナは濃くとも、疲弊した大地に自然が栄えるはずもなく、それによって魔物となる者がなかったのは皮肉だろうか。

 その地に残った人々は、そうして細々と代を重ねて暮らして来た。

 そして、今――。




   ◇   ◆   ◇




「ねー、おばばさまー」


 少女の呼びかけに、うたた寝をしていた彼女は目を覚ました。

 重ねた前足に顎を乗せて微睡んでいる彼女は、身体を起こせば大人が背に乗れてしまう程に大きな体躯の白狼。

 白の体毛に包まれながらも、老いた身の彼女のそれに艷やかな輝きはなく、その手触りは少しだけごわつく。

 常に閉ざされている白狼の瞳が少女の方を向いた。


「なんだい、ニニ」


 幾分かゆったりとした口調の声に、白狼の横腹に寄りかかり、ニニ、と呼ばれた少女が顔だけで振り返る。

 さわと穏やかに微風が吹けば、彼女らの周りに、ささやかながらに咲き乱れる小さな花の群生がそよいだ。


「あのね、にに、せんせいからおならいしたの」


「何を習ったんだい?」


 遠く、さらさらと控えめに流れる小川の音が耳に届いた。


「おばばさまが、このとちのつかれをいやしつづけてくれてるって」


 ニニが今度は身体事振り返る。

 その瞳は好奇心を秘め、きらと輝きを見せていた。


「それって、ほんとーなの?」


 そして、手をついて身を乗り出す。

 そんなニニに白狼はふふっと小さく笑いながら、やはりゆったりとした口調で答える。


「癒してると言っても、これっぽっちしか癒せて無いけどねぇ」


 そう言って、ゆったりと頭を持ち上げて辺りを見渡す。

 常に閉ざされた瞳はそのままに、けれども、彼女の瞳にはしかとその風景は映っている。

 ささやかながらに咲き乱れる小さな花の群生は、見渡す限りに花畑とはお世辞にも言えない。

 目の届く範囲にしか咲いていない。

 少し遠くへ視線を投じるだけで、そこは乾いた地肌が顔を出している。

 あとはそれがずっと続き、時折忘れたように草地が控えめに点在するだけ。


「これでも、豊かになった方なんだけどねぇ」


 ゆったりした声に苦笑が滲む。


「そんなことないよっ!」


「おや、そうかい?」


 白狼の眉らしき部分が跳ね、ニニへ視線を投じた。


「だって、ににはしってるもんっ。おばばさまが、よくなれーっていやしてくれているから、おがわがながれて、さくもつもそだてられているのっ」


 ふんすと鼻息荒く語るニニに、白狼は笑みを深める。


「そうかい、それはおばばも嬉しいねぇ」


「だからににね、おばばさまにはありがとうっ! って、いつもおもってるの」


 えへへぇ、と満面の笑みを浮かべたニニに、白狼は虚をつかれ、しばらく微動だにしなかった。

 それを訝ったニニが白狼を覗き込む。


「おばばさま?」


「……ああ、何でもないよ。そうかい、ありがとうか」


 ぽつりと呟く白狼に、ニニは不思議そうに首を傾げる。

 そんな彼女へ白狼はくすと小さく笑い、その頬へ自身の鼻面を寄せると、彼女はくすぐったそうに小さく声をもらした。


「いいかい、ニニ。精霊への感謝を忘れてはいけないよ。あたしたち精霊は、人の想いで繋がっているのだからね」


 諭すような、穏やかで優しげな白狼の声は言葉を続けた。


「決して、ニニは忘れないでおくれよ」


 そこに切なる願いのような色を見つけ、ニニが白狼へ顔を上げた時。


「――おばば様、こちらでしたか」


 ひとつの声が割って入って来た。

 途端にニニは頬をふくらませる。


「……おにいさま、もうすこしおそくきてくださっていいのに」


「そういうわけにはいかないだろ。と言うより、領都外には出るなって言ってあっただろ」


「おばばさまのそばにいればだいじょーぶだもんっ」


「確かにおばば様の周囲なら、マナもそれ程濃くはないだろうが……」


 不満顔のニニに、彼女にお兄様と呼ばれた青年は肩をすくめた。

 やれやれと小さく嘆息する。

 精霊の去ったこの地のマナは濃い。あまり領都外に出るのは褒められる行為ではないのだ。

 そして、白狼を一瞥する。


「――おばば様」


「おや、あたしの出番かい?」


「はい。準備は整っております」


 そうかい。白狼はひとつ頷くと、ゆったりとした動作で身体を起こすと、ニニがまだ行かないでと懇願するように彼女へ手を伸ばす。

 が、白狼へその幼い手が届く前に、横から伸びた別の手が押し留めた。


「お嬢様、私と一緒にお屋敷へ戻りましょう」


 青年と共にやってきた護衛の一人である女騎士だ。

 彼女が柔らかに言うも、ニニはいやだと首を横に振る。


「お分かりください、お嬢様」


 女騎士がニニへ目線を近づけるために膝を曲げて屈むと、腰に帯剣したそれがかちゃりと鳴った。

 困った様子の彼女に見かねた青年が口を開く。


「ニニ、彼女を困らせるんじゃない」


 たしなめるような兄の口調に、ニニの顔は増々不機嫌に染まる。


「おにいさまばかりずるい。ににだって、もっとおばばさまとおはなしがしたいもん」


「これは必要なお話だ。わがままを――」


「――ロンド坊や」


 なおも言い募ろうとする青年、ロンドの声を白狼が遮った。

 何のつもりですかと彼が批難めいた視線を向ければ、老狼はまかせなさいとばかりに微笑む。


「ニニ、この次は、おばばの昔のお話をしようかねぇ」


 ニニの方を振り向いて穏やかにそう告げれば、彼女の顔に喜色が広がった。


「ほんとうっ!? おばばさま、やくそくだよっ! ――おばばさま、ににがきいてもさ、ちっともおしえてくれないんだもん」


 やっぱりなしはなしだよ、と念を押すニニに白狼の笑みは深くなる。


「ああ、約束だとも。だから、今日のところはもうお帰りなさいな」


「……はあーい」


 ニニは未だどこか不満そうだったが、大人しく女騎士に連れられながら屋敷の方へと歩いて行った。

 その背を見送りながら、白狼の隣へ並び立ったロンドは呆れたように嘆息をもらす。


「申し訳ありません、おばば様。妹には、あとできちんと言い聞かせておきますので」


「いいんだよ、ロンド坊や。ニニには何も知らないで居て欲しいからねぇ」


「ぼくもそれには同意ですが――おばば様」


 そこでロンドは改めて白狼を呼び、神妙な面持ちで彼女を見やる。


「ぼくは坊やではありません。今や領主です。いつまでも坊や呼びはよしてください」


「ああ。そういえば、そうだったねぇ。でも、おばばにしてみれば、ロンド坊やはずっと坊やだよ」


 小さくからからと白狼は笑い、ロンドは苦虫を噛み潰したような顔をした。

 さわと控えめに微風がそよぎ、彼らの髪や体毛を柔らかに撫でて行く。

 そんな穏やかに流れる空気を、じゃり、と無遠慮に足音が震わせた。

 ロンドの顔が一気に引き締まる。

 ちらりと肩越しに振り返れば、伴ってきた護衛に耳打ちをする使いの姿がった。


「ロンド様」


 続いてその護衛がロンドへ告げる。


「用意が整いました」


「ああ、直ぐ行く」


 先程までの声音と違い、幾分か硬くなったロンドの声に白狼が顔を向けた。


「あたしの出番かい?」


「ええ、頼みます」


「そうかい。それじゃあ、若人のために老いぼれも頑張るかねぇ」


 のっそのっそとゆったりした足取りで白狼が歩き始めると、ロンドはそんな彼女を案内するように先を歩くのだった。




   *




 疲弊した地は老いた精霊の手によって、長い長い時をかけてゆっくりと癒やされてきた。

 なのに、それでも地に芽生えたのはなけなしの僅かな草花と小川。

 風も遠退いた地には、微風がささやかに草花を揺らすだけ。

 その微風は小さく渦巻きながら物悲しく鳴いた。

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