閑話 前奏曲のその次なる曲は
「渡しの守り役って、なんでこんな報告書多いのかね?」
個人にあてがわれた執務室。
と言っても、向き合うように配された執務机が幾つかあるだけの部屋で、個人部屋というよりは作業部屋な印象を受ける。
その中のひとつの執務机に突っ伏し、積み上がった書類を気怠そうに眺める青年の姿があった。
その青年こそがあてがわれた執務室の一応の主である。
先程の青年の呟きもやはり気怠げであり、重く吐き出した嘆息と共に下方へ落ちて行く。
文字通りにさんさんと窓から降り注ぐ陽が、今は少しだけ恨めしい。
春が色濃くなったこの頃は、いよいよ春本番という暖かな陽気が日中を包み、随分と過ごしやすくなった。
精霊との渡しの守り役を課せられてから、すっかり足が遠退いてしまったあの精霊の森も、時折風が春の気配を運んで来る。
だからだろうか。隣接するこの街にも近頃は春に染まり始めている。
春の花々が咲く様は、色が目を楽しませ、香りが安らぎを与えてくれる。
冬を耐えた街が春の陽気に促され、少しずつ緩くなっていく瞬間はわりと好きだ。
だからだろうか。先程から事務仕事に精が出ず、嘆息ばかり出てしまうのは。
「……そうだ。ダレてしまうのは、陽気が緩いせいだ」
「何を阿呆なことを言っておるのだ」
だらけきった呟きを呆れ混じり返したのは、ちょうど執務室に入ってきた小じわが目立つ男だった。
淡紅色の髪をきちりと整え、しわひとつなく服を着こなす。
小じわの目立つその顔は、厳つさというよりは人の良さを印象付けた。
初老の手前だろうと感じさせる風体の男は、生真面目な表情で。
「パリスよ。隊長殿より、近頃のことをまとめ上げて報告せよと言付かったぞえ」
執務机に突っ伏す青年、パリスへと預かったという言葉を告げる。
がばりと顔を上げたパリスはまじまじと男の顔を見返すと、執務机に積み上がる報告書の山へ苦々しい視線を投じた。
「これを、まとめろと……」
嘆いてから、座する椅子の背もたれへ身体を預け、ずるずると沈み込む。
「オレ、事務作業きらーい」
「……全く、子供のようなことを言うでない。我も補佐としてお主を手伝うゆえ、さっさと取り掛かろうぞ」
盛大なため息を落とした男は、パリスの執務机から報告書を幾つかを手にして隣の執務机に座る。
報告書を繰っては何やらをぶつぶつと口にし、まっさらの紙面にインクを含ませたペン先を走らせる。
「む。お主も手を動かさぬか」
ぼんやりと己を見やるパリスの視線に気付き、男が軽く眉をひそめて彼を咎める。
「あ、ああ、そうだね。ごめん、直ぐやる」
慌ててパリスも作業に取り掛かりながら、もう一度男へ視線を投じると。
「いつも助かるよ、ヒョオ。ありがとう」
感謝を口にして本腰を入れ始めた。
「気にするでない。我はお主の役に立つことが望みゆえ」
対して男の姿をとった精霊のヒョオは、口端を小さく緩めて笑うと、彼も己の作業に戻った。
渡しの守り。
そう呼ばれる役目を担うのがパリスである。
彼は、渡しの精霊、と呼ばれる精霊と、友人という稀有な関係を築いた人物だった。
人の世で精霊と関わりを持つと言えば、それは結びを得るということ。
精霊と人は魂で惹かれ合い、結ぶ。
多くがそうして精霊との関係を持つ中で、彼は友人というまた違ったカタチで関係を築いたのだ。
ゆえに、彼は渡しの守りという役目を担うこととなった。
と体よく言うが、要するに、ほいほいと現れる渡しの精霊に辟易した隊長が、顔役頼むとパリスに課した――押し付けたとも言う――のが始まりというのが真相である。
それからと言うもの、両者間の交流の窓口となったパリスだった。
「パリスよ、我の方はまとめ終わったゆえ」
執務机に向かっていた顔を上げたヒョオが、同じく顔を上げたパリスへ、ほれ、とまとめた報告書を差し出した。
「ありがとう、ヒョオ。オレの方はもう少しで終わるとこ」
パリスは差し出されたそれを受け取ると、ぱらぱらと軽く頁を繰り、簡単に中身を確認する。
ヒョオらしい綺麗で丁寧なその筆跡にパリスはいつも感嘆する。
自分も見習わないとな。ちらりと視線を滑らせて己の執務机を見下ろす。
人に見せても恥ずかしくない筆跡だという自信はあるが、ヒョオのそれと比べると、少しばかりの見劣りはしてしまう。
それがちょっと悔しいなと感じながらヒョオからの書面を机脇に置くと、苦いそれを飲み下して再び机に向かう。
彼が紙面に走らせるペン先は、先程よりも幾分か丁寧だった。
「では、我は茶でも淹れて来る。この間取り寄せた茶葉は、香が良いと近頃評判らしいゆえ、楽しみにしておれ」
声と共に席を立ち執務室から出て行くヒョオの背を見やると、その足取りがどこか軽やかな気がした。
余程その茶葉で茶を淹れるのが楽しみだったらしい。
その様子に苦笑をもらし、そんな背を見送ったパリスは作業に戻る。
パリスが渡しの守りに就いて数年。
その間、彼は渡しの精霊であるスイレンと交流することが多くなり、その繋がりで精霊と接することも多くなった。
ヒョオのように人の傍で在ると決めた精霊らを気にかけてみたり、精霊の森にマナ溜まりはないか、濃度は正常か気にかけてみたり――この数年、わりと忙しいながらも楽しい日々を過ごしている。
と言っても、隊の中で新たに班というものが組み込まれてからは、パリスはその編成された班の長を任され、以降、そういった行いは業務となってしまい主に班員が担ってくれている。
だから近頃のパリスは、班員が上げた報告書のまとめを行ったりなどの事務仕事が主になっている。
その関係かはわからないが、ヒョオも己の立ち位置を見出したのか、精進してくると告げ、ある日突然その姿を消したこともあった。
そして暫く。ヒョオのいない生活にもパリスが慣れ始めた頃、一人の男が彼の前に現れた。
その男が醸し出す気配が、あの蛇の精霊のものだと気付いた時には、さすがのパリスも驚きのあまり腰を抜かしてしまった。
中位から上位へと精霊間では、位、と呼ばれるそれを上へと移した彼は、それからは人の姿でパリスの傍に在ることが常となる。
人が扱う言葉や文字も学んでからは、パリスの補佐役として、騎士隊の中での地位も確立していたから舌を巻く。
以降、他の隊員との交流を通じ、人の世の文化に触れてはヒョオなりにこの暮らしを楽しんでいるらしい。
先程の茶葉もその一貫だろう。
「――ん、こんなもんかな」
まとめた書を立てて、机に数度とんとんと軽く当てて端を揃えてから、ヒョオがまとめた書の上に重ねる。
班員が上げた報告書をしまうため、立ち上がったパリスは執務室の棚へ向かう。
年代の月別に分類された棚は、過去の事柄を振り返る時に探しやすい。
今回の報告書を棚へ差し入れた当月に割り当てられた場所は、他月分と比べても多くの報告書がしまわれている。
「今月分は多いよなあ。まあ、それだけ細かな調査がされてるってことで、仕方ないと言えば仕方ないけど」
報告書の背表紙を指でなぞりながらパリスは振り返る。
ある日、スイレンが厳しい顔をして現れた。
それから頼まれたのは、水面下で精霊の周囲調査をして欲しいと。
様子のおかしな精霊や、姿を消してしまった精霊はいないか。
水面下と言えど、それは隊長から領主、そして国へと伝達されたと聞いた。
それだけ大きなことが、どこかで動き出そうとしているということなのだと思う。
それから間もなくだったと記憶している。
ひとつの可能性が示唆された。
――人が禁を犯したかもしれない、と。
そしてそこに、精霊の関わりもあると睨まれている。
今はまだ解析中だとか調査中だとかで、それ以上の情報はパリスにまでは下りてきてはいないが。
「……今のとこは、オレらの周囲に変化がないのが幸いだけど――」
その点に関しては安堵するも、胸中に疼く不安は消えない。
それは時間の問題かもしれないから。
流れてくる情報で姿を消した精霊の話を耳にすることも、近頃では珍しくなくなってきた。
そして、パリスが怖いと感じることは、それらの情報に聞き慣れてしまうことで――。
「ああ、やめやめ。暗い話はやめよう」
かぶりを振って、思考を振り払う。
ヒョオが淹れて来るであろう茶を楽しみにしよう。
自身の執務机に戻ったところで、ちょうどよく執務室のドアが開いた。
「あ、ヒョオ。オレの方もまとめ終わったよ」
ドアの方を見やりヒョオの姿を認める。
だが、彼の手にはポットもカップも茶葉も何もなかった。
顔を見やれば、其の顔も真剣みを帯びており、瞬時に何かを察したパリスは口を開く。
「何かあったのか?」
「給湯室に向かう途中、廊下で隊長殿に呼び止められてな。至急、あやつに連絡を取りたいと言付けられた」
少しだけ不愉快そうに言うヒョオのあやつとは、渡しの精霊であるスイレンを指す。
ヒョオは瞬きひとつの間で男の姿から淡紅色の蛇の姿へと転じた。
「我は使いとして精霊界へ赴く。お主は隊長殿の元へ先に参っておれ」
ちろと蛇の舌が動く。
「何があったのかは聞いてない?」
至急とは只事ではなさそうだ。
パリスの声も緊張と幾分かの不安で声は硬く、表情も強張っている。
「気になるならば、隊長殿よりお伺いするしかあるまい。我はただ、解析の中途結果の報があった、と耳にしただけだ」
では。と言う声を合図に、ヒョオの姿がその場から掻き消える。
精霊界へと転移したのだろう。
「解析の中途報告ってことは、あれのことか……?」
通称として呼ばれるようになった紅い魔結晶だ。
それの報告ということだろうか。
どくんと鼓動が嫌な感じに脈打ち、言い知れぬ不安がパリスの胸中で吹き荒れる。
「……とりあえず、行かないと」
静かに椅子から立ち上がった。
*
静まる執務室の中、隊長の吐息が落ちる。
執務机には数枚の書が放り出され、椅子に座した彼が深く沈む。
呻くように息をつく様子から、彼の疲労具合が窺えた。
「……紅魔結晶のオドの質は、人のものとは微妙に一致しないということは――」
それはつまり。
隊長が手を額にあてがい、深く息をつく。
「魔族のオドということか」
動植物が保有するオドではこの純度の魔結晶の精製は難しく、かといってオドの質から人の物ではないと判じられた。
そこからたどり着く結論。その可能性は除外していた。
基本的に魔族は、マナの濃さの関係を理由に人の国にはいない。
マナの濃い地で人が生きられないように、活動のうえである程度の濃さを必要とする彼らは、マナの薄い地では生きていけない。
だから、人の国と魔族の国とで分かれたのは自然な流れなのだ。
だが、魔族にも大差はある。
マナの濃い地では生きられない魔族も少なからずいる。
混血の魔族だったり、魔物から魔族へ昇華した者だったり。
各々抱える理由は様々だが、そういった者たちは、人の国と魔族の国との堺の地で暮らす者が多い。
人の国の奥地ではマナが薄すぎ、魔族の国の奥地では濃すぎる。
そして、彼らが見つけ出したのは、人の国の中でも少しだけマナが濃い、魔族の国に程近い端の地だった。
そうしたことから、そんな彼らをハグレモノと揶揄する言葉もあるくらいに、彼らの立場は弱く――軽んじられやすい。
「本当にまいったな……」
椅子に深く沈んだまま、隊長は天井を仰ぐ。
「その上、未だ断定されていないとはいえ、精霊も関わっているとすれば……予想以上に大事だ」
彼の疲れ切った呟きを肯定するように、執務机に広がった書に走る文字は告げていた。
――結界魔法の意を込めた陣あり。
――それは、認識阻害の働きを促す及び、保持するために多量のマナを封じる目的の結界。
――現在、用いられた陣の言葉から場所を特定中。陣に現地の言葉が含まれている可能性あり。
と。
それぞれの場所で、それぞれがひとつの
それはゆっくりと。
――第二部、完――
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