白狼と鳥、分かつ道


 海を割って進む船。

 シシィは乗り込んだのち、甲板に出て海風を受けていたが、船員が忙しそうに行き来する様を見て端に寄る。

 端に寄ってからは船のへりに寄りかかり、流れて行く海を眺めていた。


『……結局、ちあに黙って出てきちゃった』


 はあという大きなため息が海に落ちる。

 ちょっと出かけると言って精霊の隠れ家を出た。

 それをティアは、いつも通りにいってらっしゃいと送り出してくれた。

 その普段の風景がちくりと胸を刺したが、それに構わずに港へ向かった。


『だって、ちあに何て言ったらいいのか、わかんなかったんだもん』


 随分と子供じみた言い訳だとは思う。

 けれども、彼女に面と向かって、君に抱く気持ちに自信が持てなかった、だから、少しだけ距離を置いてもいいかな、と言えるだろうか。

 シシィの答えは。


『そんなの無理でしょ』


 即答だ。

 彼の肩から腕を伝って降りたミントが、陽をきらと弾く海に瞳を輝かせて魅入っている。

 うわあと感嘆の声を上げる彼女に、彼はくすりと小さく笑った。

 やがてシシィの乗る船は別の船とすれ違い、その速度をくんと上げ始める。

 少しだけへりから身を乗り出して後方を見やれば、遠ざかって行く慣れ親しんだ海街があった。

 船風がシシィの襟足で結わえられた髪で頬を叩く。

 視界の端にちらつくようにひらひらと煽られるのは髪紐。市場で売られていた安物だ。

 ティアと揃いで買ったそれは、安物でもシシィにとっては大切な物である。

 結び目が解けて飛ばされる前に、しっかりと結び直しておこうと手を添えた時。


「あ」


 もともと結び目が緩んでいたのか、彼の手が触れる前にほるりと解け、風に拐われ舞い上がる。

 枷をなくした髪が広がり、彼の視界を一瞬白が掠めた。

 咄嗟に手を伸ばすも、触れる寸前で手は空を切り、隙をついた風が大きく吹付け空へと放り投げてしまう。

 へりではしゃいでいたミントはその事に気付くと、髪紐を見上げ、へりを蹴り上げて跳躍するも届くはずはなく、彼女の小さな身体は海へと投げ出され――る前に、シシィが危なげに手で受け止めた。


『ミント無茶しない』


 眉をひそめて苦言を落とせば。


『でも、シシィさまのあれ、飛んでっちゃうの』


 ミントは悔しげに遠くなってしまった髪紐を見上げる。

 それを同じようにシシィも見上げ、切なく碧の瞳を細めた。


『……もう、届かないよ』


 そして、ミントへ視線を投じて。


『ちあに黙って出てきちゃったこと、咎められてるのかもね』


 くしゃりと苦く笑った。

 そんな彼を、ミントはただ黙って見上げることしか出来なく、持て余した気持ちが尾をゆさと揺らした。

 と。刹那だった。


『――当たり前よ』


 ここに居ないはずの慣れ親しんだ声に顔を上げる。

 驚きで身体を跳ねさせたミントは、シシィの肩へ慌てて移って身を寄せた。

 次いで彼らの視界の端に影が横切り、反射的に目で追いかければ、その影は海面を滑る様に飛び、やがてぐんっと垂直に空へと向かう。

 余波で散った海の欠片は水飛沫となりて陽をきらと弾いた。

 天頂へと届いた陽は傾き、振り仰いだシシィらの目を鋭く射っては影の姿を隠す。

 しかし、流れる雲がすぐに陽を遮り影に色を落とした。


『ちあ……』


 雲の切れ間から射続ける陽を手をかざしてしのぎながら、シシィが影――否、尾羽根と頭の飾り羽根をなびかせながら降下してくる白の鳥の姿を認め、吐息と共に名を呟く。

 その後に呟いた、どうして、の言葉は声にならなかった。

 鳥は船に着地する前に両翼を広げて勢いを殺し、甲板に足を付ける頃には少女の姿へと転じていた。

 その肩に何かの荷だろう布鞄を担いでいる。

 緩く編まれ背へと流した彼女の髪が風で翻り、束ねられていないシシィの髪は風で広がる。

 それを見た彼女――ティアが何事かを口の中で呟けば、彼女から風が小さく巻き起こり、それが障壁となって吹き付ける風の勢いを削いだ。

 追従するように大気のマナも動き、微弱ながら認識阻害も働く。

 これで他者は、ティアの姿を認識すれど、違和は抱かない程度の認識となる。


『あ、ティアさま』


 シシィの陰から顔を出すミントが喜色の声を上げると、今度は彼の肩からティアの肩へと跳び移る。

 頬を寄せるミントに柔く目を細めながら、ティアは指で頭を撫でてやりながらシシィへと向き直る。


『私に黙ってったこと、咎めに来たわよ』


 彼を据える琥珀色の瞳が、僅かながらの怒の色で揺れていた。

 見え隠れするのは、不満やいじけに――寂しさ。

 そんな瞳からシシィは目を逸らしてしまう。何と言えばいいのかわからない。

 彷徨う彼の瞳の前に何かが差し出され、ひらりとはためくそれに視線をむけた。


『あ、それ』


『そうよ、あなたの髪紐』


『取ってくれてたんだ』


 シシィは緩く笑って、ありがと、とティアを見る。

 少しだけふてくされる彼女の手から髪紐を受け取ると、彼は少し雑に髪をまとめて、けれども結びはしっかりと結わえた。

 柔い風が束ねた髪と髪紐を揺らし、同じ髪紐で結わえた彼女の髪も共に揺らす。

 それを視界に認めたシシィは、さらにその笑みを深めた。


『――やっぱり僕、ちあのこと好き』


 へへっとはにかむ彼に、ティアは瞳を瞬かせてしばし呆けると。


『な、何? 急に』


 言葉の意味が沁み込んだ途端に狼狽え始める。

 頬を朱に染め、狼狽する彼女の姿を面白そうに眺めながら、シシィは言葉をさらに継ぐ。


『急じゃないよ、ずっとそう。ずっと好きで、ずっと大好きで、ずっと僕にはちあだけで……』


 彼女の頬が朱から熟れた果実のように色を深めるも。


『だから、僕はちあとしばらく離れるんだ』


 続いた彼の言葉で、熱を灯した彼女の頬は急速に冷えていった。

 好きと言ったそのままの顔で、好きと言ったその口で、なぜそんなことを言うのか。


『……それは、なんでって訊いたら、答えてくれる?』


 ぐっと服の裾を握り、ティアは声が震えないように努めた。だが。


『それは……』


 シシィからその先の言葉の続きはなかった。

 それどころか、彼は言い淀むと彼女から目を逸らす。


『――っ』


 咄嗟に飛び出しそうになった言葉を口を引き結んで堪えた。

 代わりに、服の裾を握る手にはさらに力が籠もる。

 何か言わなければ。けれども、口を開いてしまえば、感情にまかせた言葉しか出て来ないような気がして、結局何も言えない。

 ティアが俯きかけた時、シシィが口を開いた。


『……これは、僕の問題。だから、ちあには言えない』


『は?』


 短な声ひとつと共に、ティアが顔を上げる。


『――なによ、それ』


 見開かれた瞳に、多分に含まれた苛立ちの色。


『私には、一人で結論を出さないでよって言っておいて、それをあなたは――』


 しかし、ティアは突然口を閉ざした。

 琥珀色の瞳を歪め、口を引き結んで小さく噛む。

 そして、その瞳が伏せられたかと思えば。


『って、似たようなことをした私が、あなたにどうこう言うことなんて……出来ないわね』


 力なく呟き、苦く笑う。

 それに反して、シシィははっとして彼女を見やる。


『待ってちあ、それは――』


 それは違うよ。

 シシィが咄嗟に口を開くも、彼女はそれを拒むように声を荒げた。


『何も言わないでっ!』


 ぐっとシシィが息を詰め、彼女の肩に乗るミントは身体を大きく震わせる。


『もう、何も言わないで。これ以上、後味の悪い別れにしたくないの』


 懇願するようにティアはシシィを見やり、揺れる琥珀色の瞳が潤んだ。

 自身の肩へ手を伸ばすと、そっとミントを船のへりへと移動させる。


『ごめんね、ミントちゃん。驚かせて』


 小さく笑むと、ミントが不安げな表情で見上げてくる。

 そんなミントはふるふると緩く首を振ると、小さな両の手をティアへ差し伸ばした。

 けれども、何かを掴む前にティアの方からふいと顔を逸らされてしまい、行き場を失った小さな手は振り下され、すがるようにシシィへ視線を向ける。

 が、そこへ彼に何かが投げ込まれた。

 反射的にそれを受け取ったシシィが視線を落とせば、それはティアが担いでいた布鞄だった。

 それなりに重みのある布鞄を手に、呆然とシシィがティアを見上げると、彼女は彼らへ背を向けていた。


『それはおじさんからの預かり物よ。いくら精霊で衣食に困らなくても、人に紛れて旅人を装うなら、荷物くらいは持ってないと不自然だからって』


『ちあ――』


 彼女は振り返らない。


『じゃあ、私もう行くわ。……気を付けて』


 刹那。障壁となっていた風が崩れ、大きく別の風が吹き付けた。

 よろめきそうになるのをシシィは足でふんばり堪え、へりを転がるミントを拾い上げる。

 風が静まった頃には周囲のマナは常のそれを保ち、認識阻害の働きも薄れていた。

 そして、そこにティアの姿はなく、途方にくれたように視線を走らせれば、やがて海街へと飛び去っていく白の鳥の姿を見つけた。

 思わず甲板を駆け、船の最後尾から身を乗り出す。

 けれども、それに関係なく船は海を割って進んで行く。

 遠ざかる鳥の背を、シシィはただ見つめ続けることしか出来なかった。

 そして、鳥がこちらを振り返ることも、なかった。


『ははっ……』


 乾いた笑いが口からもれる。

 そのままずるずると座り込むと、船壁を背に預け、ティアが残した布鞄を抱え込む。


『なんで、こうなったんだろう』


 さらに、ぎゅうっ、と布鞄を抱え込む。


『シシィさま……』


 ミントの呼びかけにも応えない。

 彼女はただ、そんな彼を見上げることしか出来ない。

 何があって、何がどうしたのか。

 それを知らない自分に出来ることはない。それだけはわかって。

 何だかよくわからないけれども、それが、とてももどかしかった。

 ざぶんと音をたて、それでも船は海を割って進んで行く。

 彼らを乗せたまま――。




   ◇   ◆   ◇




 暮らす者に何があろうと、海街には皆に平等に夜は訪れる。

 海沿いの民家。その屋根上にて少女、ティアはふてくされていた。

 腰を下ろし、膝を抱え、海風に髪を弄ばれながら、はあと重い息を吐き出す。


『シシィ、何か言おうとはしてたわ。でも、それが何かも聞かずに私は……』


 所謂、自己嫌悪。

 膝を抱える手に力が籠もる。

 彼に一線を引かれたようで寂しかった。

 一緒に、とあの時言ってくれたことがとても嬉しかったから、その分だけとても寂しかったのだ。

 だが、だからと言ってあの態度はないだろうと己を罵っていたら、気が付けば夜になっていた。


『……帰ろ。おじさんもジルも心配してるだろうし』


 あの叔父のことだ。

 何があって、姪がどうしているかなど、とうに把握しているだろうけれども。

 慰めるように先程から耳元でささやく風の中に、姿形を風に解かせたばななも在るのはわかっている。

 彼がきっと叔父にも姪の様子は伝えているはずだ。

 何もかもが筒抜けているのは恥ずかしさを覚えるが、見守ってもらえているという感覚は安心ができる。

 その心地は案外いい。


『…………』


 夜の黒い海を遠く見晴らかし、彼が帰って来るのはいつかなと思いを馳せる。

 ざざん。海が波を引いて寄せる音が絶え間なく響く。

 たぶんこの先、こうやって海を眺める度に波音を耳にし、その度に想いを積み重ねていくのだ。


『それで、次に会ったら謝るんだ』


 ごめんね、と。


『よしっ。今度こそ帰ろっ』


 そう言って、すっくとティアが立ち上がった時だった。

 風が強く彼女を吹き付けた。

 ひどく慌てた様子の風が彼女へささやく。


『様子の探れない、船……?』


 彼女の呟きをさらい、こっちだと案内するように風が走る。


『――――』


 一瞬彼女は立ち竦む。

 様子の探れないということは、あの紅い魔結晶が関わっているのだろうか。

 不安が鎌首をもたげた。

 触れた刹那に感じたあの感触。呑まれそうになったあの怖気。

 ティアが小さく震えるには十分だった。

 そして、今は傍にシシィがいない。

 いつも傍で支え、包んでくれていたぬくもりがない。

 たったそれだけで、ひとり、ぽつんと世界に取り残された錯覚さえ覚える。

 そんな彼女の心中を察したのか、ばななが彼女の周りを一巡する。

 はっとした様子で彼女は我に返った。


『そうだ、おじさん』


 先ずは叔父に知らせるべきだ。

 必ず知らせろと彼も言っていたことを思い出し、精霊の隠れ家へ戻ろうと身を翻したところに。


 ――ひゅおぉ、離れたところで風が鳴いた。


 風の言が彼女をその場に縫い留める。

 緩慢な動作で振り返った彼女が本当かと問うと、風は同意するようにもう一度鳴いた。

 口を引き結び、それを解くと、ティアは風をまとって屋根伝いに駆けて行く。

 引き止めようとばななはびゅおと鋭く唸るも、ティアは振り向くこともしなかった。

 彼女が己の言葉に耳を傾ける気がないのだと悟ると、ばななはその場で渦巻いて真白の小鳥の姿を現すと、忙しくなく小さな翼をばたつかせて身を翻す。


『ふね、ようすさぐれない、ふね。こえ、おいかけたら、ふね、みつけた』


 小鳥の姿では急くには不向きだと悟り、瞬く間に姿形は風に解けて彼は走った。


《せいれい、ふね、いる。たすけて、こえ、した》


 ひゅおっと素早く海街を駆け抜ける。

 何かによって隠された船は、精霊の声を聞き留めた風が声の軌跡を辿って見つけたらしい。

 けれども。


《てぃあ、むかっちゃった、たいへん》


 運河を抜ける突風が、揺蕩う街の明かりを揺らしていく。




   *




 覚えているのは、船というよりも舟という形容が合っているような、そんな小さなものだったということ。

 その場は魔力濃度が濃く、まるで閉じた空間に魔力が集まったような気がして、軽く目眩に襲われた。

 その舟には、逃げられないようにだろう、結界の陣が彫られた囲いに幼い精霊の姿があった。

 彼らは怯えて震え、その姿形が解けかけていた。

 自分がその舟に降り立てば、安堵したように幼い彼らが泣き出してしまい、大丈夫よと慌てて身を屈めた。

 だが、その刹那に、彼らが恐怖で顔を歪めたのは不思議とよく覚えている。

 魔力濃度が濃いせいで気配が隠されてしまっていたのか。


「おい、ここで何してる」


 そこで初めて背後に立たれていることに気が付き、弾かれるように振り返ったけれども遅かった。

 迫るきらめきは何だっただろうか。

 それを視認する前に、記憶は途切れている。




 その夜。ティアがフウガ達の待つ精霊の隠れ家に帰ることはなかった。





――――――――――

これにて、第二部本編最終話となります。

次話は閑話です。

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