白狼、海を渡る


 段々と活気に満ち始めた港は賑わいをみせていた。

 そんな港の端にて、何かの資材だろう石材に座り込むシシィは港を眺めていた。

 彼の肩ではミントも同じように港を眺める。

 彼女は目を輝かせ、行き交う人々を追いかけるのに忙しそうだ。

 大勢の動く人が物珍しいのかもしれない。

 朝一の船の便に乗ろうとミントと共に港へ繰り出せば、それは海の機嫌次第だと船員に言われてしまった。

 波が落ち着けば船は出せるだろうと、再開出来れば声をかけてやるよと船員の善意に甘えることにし、港で待ちぼうけの今に至る。

 陽も天頂に登ろうという頃、にわかに港が活気始め、少ししてから商船が出港した。

 海の機嫌とやらが上昇し始めたのか。定期便も間もなくかもしれない。



『……精霊事件、か』


 ぼんやりと呟いたシシィの声は、港の雑踏に掻き消える。

 ぼんやりと港を眺めやりながら、シシィが思い出すのは今朝方のフウガの話。

 今から百と数十を数える前のことだという。

 当時の紅い魔結晶は、人の体内からオドを排出――正確には抽出――して生成された。

 そのやり口は人の側が隠匿しているために、フウガらは何も知らないようだが、たぶん、知っていてもはぐらかされるだろうなとは思う。もしくは、あえてはぐらかされたか。

 どちらにしても、気にするべきはそこではない。

 紅い魔結晶で何をしたか、だ。

 紅い魔結晶の元はオドだ。それは単純に人が身に余る魔力を手にしたようなもので、もしかしたら、それでならば精霊の真名を暴く事も可能だったのかもしれない――と、フウガは言っていた。

 今では随分と平和な暮らしの出来るこの国も、当時は戦火が未だあったという。

 自国を護ろうと。はたまた、領土を広げようと戦力を得ようとしていたのかもしれない。

 しかし、精霊が重視したのはそこではない。あくまで精霊は人の隣人だ。人の世の争い事に、意志に反して干渉することを是とはしない。

 隣人とはつまり、敵ではないが味方でもない。そして時に、味方であって敵でもある。

 そこに精霊の意志がきちんとあらば、それが重視することだ。

 だから、精霊としては許せなかったのだ。意志に反して真名を暴き、人の身でありながら従えようなどと隣人としての在り方を侵す行為だ。

 だが、精霊とて人と争いたいわけでもなく、不幸中の幸いとでも言うべきか、真名を暴くその寸前で収束した。

 だから、精霊はそこで手打ちとすることにしたのだ。最悪の事態は避けられたのだから、と。

 しかし、真名の暴きの“実験”と称して行われた“失敗例”での犠牲は少なくはない。

 それが、隣人という関係に深くはなくとも、決して浅くもない亀裂は入ることとなる。

 そしてそれは、のちに精霊事件と人の世では呼ばれ、今の世では書物の中の出来事と化しているという。

 だが、精霊の感覚としては最近のことである――。

 とシシィは聞いたが、なにせ、シシィがうまれるよりももっと前のことであり、そしてまた、うまれてから百にもその半分にも満たないシシィ自身が実感するのは難しい。

 自身の歳というのも意識したこともないが、生後十数年というのは、精霊としてはあまりに幼い。

 精霊としての位が上位の、さらに“白”を持つゆえに、個が強く自我が大きいだけなのだ。


『人の世で十数年とか、生後なんて言わないって知ったけど、僕達はそうでもないしね』


 人の時よりも遥かな時を紡ぐ精霊。

 だから、精霊にとっては最近でも、人にとってはそうでもなく、それが今の状況に繋がっているのだと思う。

 百も経てば、人は容易く忘れる。

 そこへ、人の言うかつての事件の中心となった紅い魔結晶が、また今の世に出て来てしまったのだ。


『……思ったより大事だなあ』


 あははと乾いた笑みが思わずもれる。

 そんな大事件を詰めるまで黙っていたフウガも腹立たしいが、それを若い精霊には知って欲しくないという彼の思いも理解はできるつもりだ。

 彼は隔たりをつくりたくはなかったのだろう。

 精霊にとっては記憶に新しい惨事であり、そこで人と隔たりが出来てしまっても、シシィには責めることは出来ない。

 そして、はたと思ったのだ。

 シシィらの幼き頃の、あの時の精霊の森の惨状にも通ずるところはある気がした。

 紅い魔結晶がその場のマナの濃度を濃くする作用があることは、シシィは身を持って知っている。

 要するに擬似的なマナ溜まりを作り出せるのだ。それによって精霊を惑わし、真名を暴くことが出来なくとも、誘導くらいの操りは出来るのかもしれない。

 現にミントという存在がその可能性を否定出来ない要素となっている。彼女は船に乗らされて、この海街にやってきてようなのだから。

 そして、重なる事柄。マナが凝り、マナ溜まりとなりて、魔物も徘徊する森へと化してしまっていた精霊の森。

 そうなってしまった過程をシシィは知らない。だから、他にも要因はあったのだと思う。

 しかし、あれは人と隔たりが出来てしまったゆえの惨状だったのではと、フウガから話を聞いたシシィは思った。


『父上は負った役目の引き継ぎがうまくいってなかったって言ってたけど、その引き継ぎの精霊が人を忌避してたとしたら……?』


 あくまでこれは推測だ。本当のところは今となってはわからない。

 けれども、“外”の精霊の森は人の街の程近く。スイレンに課せられている役目は人との繋ぎ――渡りの精霊。

 引き継ぎ役が人を忌避していれば、役目も満足には果たせていなかったはず――。

 だから、人の足も遠退き、自然と精霊の足も遠退いてしまった結果、魔物が徘徊する程にマナ溜まりが発生してしまったのではなかろうか。


『って、僕がここで考えてても仕方ないんだけどね』


 胸に凝ったものを吐き出すように、深く長く息をついた。

 人は誰もが力を欲するというわけではない。少なくとも、人と接したことのあるシシィは知っている。

 ふと彼の脳裏に過る少女の姿があった。幼かったゆえに、その姿は朧で顔は思い出せない。

 覚えているのは、後頭部でひとつに結わえられた栗色の髪に、元気に瞬く金の瞳。

 幼い頃に出会った少女であり、またねと言葉を送った相手でもある。


『……なんで、今なんだろ』


 忘れていたわけではないが、妙に強く意識したのはどうしてか。

 なぜだかわからないが、動かなきゃという仄かな想いが浮き上がる。


『探してもみつからなかったのに』


 あの時から時が経ち、“外”へと再び降り立ったとき、あの子に会いに行かなきゃと街へと飛び出した。

 けれども、そのときにはもうあの子の姿は街になく、その時にはじめて知った。

 人にとっては決して短くはない時が流れていたことを。

 この海街に移ってからも、探そうとしなかったわけでもないが、“あの子”にはもう会えないのかなと思い始めてもいた。

 だって、決して“今”は会えなくとも、また“次”で逢える。

 “あの子”でなくとも、自分には“あの子”だとわかるから――精霊は魂に惹かれる。


『……もしかして、近くにいるの――?』


 シシィの呟きは背から吹き付けた海風に溶け、そのまま風に促されるように立ち上がってみると、次に何かがぶつかった。

 弾みで肩から転がり落ちるミントを手で受け止め、突然のことにたたらを踏んで振り向くと、こちらを見上げた金の瞳と合う。


「あ……」


 少年だった。

 自然な動作で振り向きざまにミントを肩へと戻す。

 吐息のように声をもらした彼は、ぶつかった相手が己よりも背が高いことに怯んだ様子で、さらにその視線がシシィの頭に行く。

 白の髪は、この国では外国からの人だという認識が強い。


「……外国の、人」


 シシィの肩よりも少し低い位置にある金の瞳がみるみると怯え始める。

 その瞳の色にシシィは一瞬既視感を覚えるも、次いで呟かれたの彼の声にまた一瞬で霧散する。


「どうしよ……あや、まる……? そう、謝らなきゃ……あ、でも、言葉……」


 外国の人に言葉が通じるのかな。

 ますます顔を青くする彼に、シシィは苦笑を浮かべて口を開く。


「大丈夫、言葉はわかるよ」


「えっ、ボクの言ってることわかるの……?」


「うん」


 笑って頷けば、少年は胸に手を当て肩を上下させて、文字通りに胸を撫で下ろした。

 そして、顔を上げると改めて向き直る。


「あの、その……ぶつかってしまって、ごめんなさいっ!」


 ぺこりと子供らしいお辞儀をすると、少年の飴色の短髪がさらと揺れた。


「僕の方こそごめんね。周りをよく見てなかったから」


 顔上げてとシシィが促すと、少年はおそるおそる顔を上げる。


「怪我とかはしてない?」


「し、してない……です……」


「そっか。よかった」


 安堵して小さく笑った時だった。


「おおーいっ、そこ兄ちゃんっ! 船出せるぞぉー」


 あの船員の声がした。

 振り返れば、遠くの方から大きく手を振る船員の姿があり、その後ろでは船に乗り込む人の姿もちらほらとある。

 そろそろ出ちゃうぞと茶目っ気に張り上げる声を背に、シシィはもう一度少年に向き直り。


「ってことで、ごめんね。僕もう行かないと」


 顔の前で手を合わせて謝の意。

 少年の返事も待たず、慌ただしく船の方へ駆けて行く。

 離れる間際、ばいばーいとシシィの肩ではミントが小さな両の手を大きく振っていたが、認識阻害の働く彼女の姿は少年の目には映らない。

 流れるように去ってしまったシシィを、ただ呆然と見送ることしか出来なかった彼は、気が付いた頃にはその船が港を出る時だった。

 海を割って進む船は、余波に波を岸辺に寄せ、打ち付ける。

 ざぶんと波しぶきが舞い、彼ははっと己が港にやって来た目的を思い出した。


「そうだっ! ジャジィ姉さんっ!」


 数週間前に届いた手紙に、今日か明日くらいには帰って来ると書いてあった。

 だから、待ちきれずにその迎えに来たのだった。


「お父さんはまだ着かないよって言ってたけど、そんなのわかんないじゃん」


 姉は今日明日にと手紙で言っていた。

 確かに昨夜は雨風が強く、船の出港、着港にも影響が出ているようだけれども、もしかしたら、姉の乗る船には影響がないかもしれない。

 そう思うと居ても立っても居られなくなり、迎えに行くと言い張れば、やがて父も折れてくれた。

 少し待って来なければ、諦めて暗くなる前に帰るんだよと約束をして。


「あっ!」


 と、彼は喜色の声を上げる。

 遠目にこちらの港に向かう船が見えた。

 先程出港したシシィの乗り込んだ船と入れ違いになる形ですれ違う。

 もしかしたら、あの船に姉が乗っているかもしれない。

 少年は逸る気持ちに突き動かされ、元気に駆けて行った。

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