閑話 精霊様の頼み事
騎士団基地。
本土からも本部からも離れて海街に存在するその基地は、支部にあたる。
海街とその近海を担当する基地だ。
夜になると共に荒れ始めた空は、海も不機嫌に荒れる程に雨風は強い。
がたがたと窓が激しく打ち鳴る様は、まるで立て付けが悪いよと文句を垂れているように彼女には感じた。
「いやまあ、実際に立て付けは悪いよね」
ぼやく声が部屋に響く。
室内の照明に施された魔法意匠に
紙や書物が乱雑する研究机を見やり、散らかしたなあと呑気に考える。
書物は開いたままで、散らばった紙には書き殴られた何かの文字列に、図式は何度も書き直した跡がある。
この後の片付けを憂鬱に感じながら、直ぐ側のサイドテーブルへと手を伸ばした。
ゆうるりと湯気を立ち上らせたカップを手にし、ゆっくりと口を付けると眼鏡が曇った。
一息つくために入れたレモンの果汁入り白湯だ。
眼鏡が曇るのも気にせず口に含めば、ほんのりと舌に広がる酸味がほっと息をつかせる。
彼女は本日、外のこの荒れ具合により、夜勤めでもないのに泊まりが確定した。
それなら仕方ないかと落胆することなく、嬉々として作業に取り掛かっていた。
近頃気になっていた他国が扱う陣を解くべく、解読した術式を紙へインクを含ませたペンで書き殴り始めてしばらく。
一区切りついたところで一息ついたところだった。
この陣をもう少し噛み砕き、少々手を加えれば、この国の解釈で新たな魔法として扱えるかもしれない。
まあ、それは彼女の仕事の領分からは外れており、あくまで彼女は可能性を見出し、それを王都の研究室へ報告を上げるだけなのだが。
それにより審査され、この時代において発展に繋がると判ぜられれば、開発段階へと至る。
その際に協力を要請され、王都に赴き登城することもあったりするが、基本的に彼女は見出すのが仕事だ。
新たな魔法の可能性にはうきうきと心が浮き立つ。
そんな彼女は騎士団勤めの魔法師――は、便宜上なっただけであり、本職はこの通り魔法研究の方だ。
この海街は世界各地から様々なものが流れ行き、流れ着く。
それは人だったり、物流だったり、文化だったり、時に――知識だったり。
彼女は様々な人の手を渡って流れ着いた知識から、魔法の足掛かりはないかと紐解き、読み解き、新たな可能性を見出しては研究する者である。
実際、幾つか魔法の開発に携わったこともある、近年期待される若者研究者でもある。
彼女に個室の研究室が与えられているのもまた、その表れなのだろう。
業務柄、研究室に泊まり込みで没頭してしまうことも多々なので、今日みたいな日でも苦には感じない。
ふうと息をひとつ落とし、サイドテーブルにカップを置くと立ち上がる。
相変わらず、がたがたと文句を垂れ続ける窓辺に寄り、外を眺めやろうとする。
今夜のうちに過ぎ去ってくれればいいのだがと思うも、室内が明るいために外の様子は覗えない。
窓硝子に鏡のように映るのは自分の姿と男の姿だけだった。
「外の様子はわからない、か――?」
軽い嘆息と共に視線を落としてぼやく。が、その末尾の調子が上がった。
視線は落としたままに、彼女の瞳がはたと瞬く。
待て。待て待て待て。今しがた硝子に映ったのは、自分以外にもうひとつ姿がなかっただろうか。
それに気付いた瞬間、彼女は身体を震わせ、同時に毛が立つ感覚が走った。
弾かれるように顔を上げ、もう一度硝子を見やる。
硝子に映るのは瞳を輝かせる彼女自身と、何故か少し引き気味な男の姿。
がばりと勢いよく振り返った彼女は嬉々としていて、興奮のためか少しばかり息が荒い。
振り返った先。男が口を開く。
「……この場合はさ、普通の女の子は……少なからず恐怖を感じて震えるもんじゃねぇ……?」
苦笑する男の口端がなぜか少しだけひくついていた。
白の髪は無造作に襟足でひとつに束ねられ、枯れ葉色の瞳は苦笑で細められている。
齢は朱夏頃の見た目のその男は、しかし、見た目通りには年月を重ねていないだろうことを彼女は知っている。
「はいっ! 私、普通の女の子ではありませんからっ! というより、女の子と言える歳でもないですし」
嬉々として男の疑問に応えると、彼は苦笑をさらに深めた。
「その様子じゃ、俺が
「ええ。精霊様であらせられますよね? 認識阻害をかけていらっしゃったようですが、それはあくまで認識という事象に働きかける魔力操作であり、対象に直接映った事象にまでは干渉しません。その上、魔力操作が出来るのは精霊のみ。ゆえに、精霊様であると判ぜられます」
目を輝かせながら早口でまくし立てて、つかつかと男の方へと近付く彼女に、彼は気圧されたように身をのけぞらせる。
「ああ、そうだ。そうだから、取り敢えず少し離れてくれねぇか……?」
「おっと。これは失礼を」
そう言って彼と少し距離を取った彼女は、改めて、と挨拶をする。
壁掛けハンガーに掛けてあった紺のローブをさっと羽織り、彼女は優雅に礼をした。
それは敬う相手にするとされる最礼のもの。
「ここらを仕切る騎士団に所属する魔法師、ミルウェイと申します。魔法師とは便宜上なったものであり、本職は魔法研究をする者でございます」
彼女――ミルウェイが羽織る紺のローブには、守護を込めた陣を柄に見立てた刺繍が刺されている。
金糸で飾られたそのローブは、騎士団所属ゆえに、時たま戦いの場に赴くこともある魔法師を少しでもその手から護るため。
紺の意味は少しでも魔を高めようと願う色でもある。
マナの最たるものが白ならば、その対となるオドの最たるものは黒。
オドは命に巡る色、その赤が深まるは黒。象徴としては理になっている。
が、人の世では黒の衣は喪を意味するために、魔法師は紺のローブをまとう。
「へぇー、なるほどね。探究する者ってことか」
落とされた声にミルウェイはゆっくりと顔を上げた。
男は顎に手を添え、面白そうに枯れ葉色の瞳を細める。
そんな彼を風が取り巻き、煽られた白の髪は、照明の明かりを弾いて銀にきらめく。
「敬いはすれど、傅きも傾倒もしない。あくまで探求の心が優先。ゆえに好奇心が面立って、あれな反応なわけか」
あれな反応。皮肉が込められた揶揄にも、ミルウェイは表情一つ動かさなかった。
それは自覚している。
くっくっと低く笑う男に、ミルウェイが首を傾げる。
「いいね、気に入った。ミルのお嬢ちゃんなら、人の領分は人の領分で判断がくだせそうだ」
「はて、何のことでしょうか?」
「あ、そーいや、まだ名乗ってなかったな。俺はシルフの名を冠する精霊だ」
ここでミルウェイの瞳がはたと瞬き、次いで予想以上の大物に喜色で輝く。
ごくりと喉を鳴らしたのは、緊張をしているからか。
シルフと言えば大精霊の括りに入り、四大精霊とも呼ばれる高位の存在ではないか。
最後に姿を確認されたのは、確か五十年以上も昔だったはずだ。
それがどうして自分の目の前に現れたのか。
それに、だ。文献では、かの精霊は大鳥の姿と記されていた。
それが己の目の前にあらせられる、かの精霊は人の成りである。
これはまさか歴史的瞬間なのではないだろうか。
緊張で身体が震える。
これは畏れる緊張というよりも、興奮に近い気がするなとミルウェイは内心で苦笑した。
「まさか、大精霊様であらせられるシルフ様にお会いできるとは……光栄です」
「俺も嬉しく思うよ。風の導きに従ったかいがあるってもんだ」
シルフの言の意味が掴めなく小首を傾げれば、こちらの話だと愉快そうに笑われた。
だが、ミルウェイはさして気にする事なく口を開く。
「それで、なにゆえシルフ様のような高位精霊がこちらへ?」
文献でしか見たことのない存在が目の前に在る。
これ以上に興味のそそられることは現状ないだろう。
ずずいと足を踏み出し迫れば、その分だけシルフは下がる。
負けじとさらに迫ってみせれば、シルフが両の手を目の前にかざして見せたので、訝しげに彼の顔を見上げれば。
「あら、失礼ですね。そんな奇怪なものを見る目をなさって」
「……それ以上は近付かないでもらえると有り
あははと乾いた笑みを浮かべられるのも心外だが、精霊様に静止をかけられればさすがに従う他ない。
ミルウェイが不満顔で渋々引き下がると、目に見えてシルフがほっと安堵したようだった。
それも面白くない。
「――では、お聞かせ願えますか?」
ちょっとふてくされてしまうのは見逃して欲しい。
窺うようにちらりと見やれば、シルフが懐から何かを取り出すところだった。
布包を丁寧に解き、そこに包まれていたのは紅い結晶。
ミルウェイは瞬時にそれが魔結晶だと気付く。
不思議に思って彼の顔を見上げると。
「貴女に頼みたい事があるんだ」
改まった彼の言に、彼女は目を丸くしたのだった。
*
――はいっ! 頼まれますっ!
と。二つ返事で引き受けたミルウェイは、騎士団支部にある資料室に足を運んでいた。
資料保存のために窓もないその部屋は、年代毎に並べられた書棚が並び、壁面はもはや書棚で見えない。
詳細に記されたものは、王都の、それも王城まで赴かねばならないが、基本的なことを知りたければここでも十分だ。
資料を広げるための席に座り、ミルウェイは書棚から取り出した書物を繰った。
光源は灯したランプ。少しばかり明るさが足らず火力を上げる。じじっと小さく火が空気を食んだ。
揺れる光源が頁の文字を照らし、彼女の目がそれを追いかけ始めた。
シルフから紅い魔結晶を託された時、奥底で記憶が震えた。
その記憶を手繰りながら、導かれるままに書物を手にして今に至る。
「……ああ、やっぱり」
それは感嘆か、はたまた落胆の呟きか。
ふうと深く息を吐いて、背もたれにもたれた。
揺れるランプの灯りが眼鏡のレンズを染める。
「これは、上に報告しないと……。私一人の手に余るね。先ずは支部長かな」
頼まれた紅い魔結晶の解析は自分一人でも可能だとは思う。
それだけの力量はあるつもりだ。
だから、自分などを頼ってくださったシルフのためにも、一肌どころか、二肌も三肌も脱ぐ心つもりもある。
だが、しかし――。
「……精霊事件、か」
紅い魔結晶に既視感を覚え、当たりをつけて文献を開いてみれば案の定だ。
「精霊事件でも紅い色をした魔結晶が使われてる」
その上、思い出すシルフの言葉。
――人の領分は人の領分で判断がくだせそうだ。
妙な引っ掛かりを感じたが、こういうわけだったのか。
「つまり、人が精霊の領分を侵してるってことで。それも、人が人の領分で裁かなくちゃだめって程に……?」
それほどに、既に人は精霊の領分を侵してしまっているのか。
人は人の領分で、と言ったのは、精霊は人の隣人として、精霊らはそれを侵さず、事の成り行きを見守っているということだ。
――今のところは。
ミルウェイは再び頁に視線を落とす。
「……――」
がたっと大きな音を立てて彼女は立ち上がる。
次いで書物を閉じ、両手に抱えるとランプを手に廊下へ飛び出した。
慌ただしい足音を響かせながら廊下を駆けて行く。
彼女が向かうは支部長室。
夜も深いが支部長のことだ。きっとまだ仕事をなさっているはず。
「……事が今よりも大きくなる前に、人は人の領分で動き始めないと」
人の身で憶測するのはおこがましいが、そうするために、シルフはきっと訪れてくださったのだろうから。
通称、精霊事件。
人の間では、精霊統治未遂事件や精霊使役事件とも囁かれるもの。
今より百と数十を数える前のことだ。
精霊に魅せられた人がいた。
彼らが秘める力に惑わされたのだろう。
当時はまだ戦火が絶えない時代だった。
愚かにも、それを手にしたいと希ったことが発端だったと、文献には記されている。
精霊の真名を暴き、己の意に従えようとしたところで、何とか幕を下ろした事件だ。
当時の人の世も精霊の世も騒がした、歴史に残る事件となった。
その際に用いられたのが、オドを抽出して造られた紅い魔結晶とされている。
オドは生き物が体内に保有する魔力。
それを何から抽出したのか。その部分は朧にされて記されるも、酷く非人道的だったと書き残されている。
その抽出方法は当時の人の王が禁とし、国が厳重に封をしたとされている。
そしてまた、水面下ではあるも、当時の人の王は当時の精霊王へ、二度と領域は侵さないと誓ったとされる。
なのに、それがまた世に出てきた。
それが意味することは――。
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