閑話 前奏曲の調べはなめらかに
夜も更ける頃。
窓を叩きつける雨風は未だ激しく、けれども、段々と落ち着きは取り戻し始めていた。
月明かりも厚い雲により届かぬ、夜に満たされた部屋。
頼りなく揺れるランプの灯りを掲げながら、フウガは自身の部屋の書棚で本を探していた。
背表紙に指を走らせ、目当ての物を順に辿って行く。
と、ふいにその動きが止まった。
隙間なく整頓されたはずの書棚。
そこに数冊分の空きが出来、支えを失った本が倒れ込んでいた。
『ここは……魔法書の集まりだよな……?』
あれ、何処かに持ち出してしまったか。
記憶を手繰るもその覚えはなく、ややして思い至る。
『ああ、ジルの奴が持っていったな。たく、声かけくらいしとけって言っとかねぇと』
やれやれと嘆息を落とし。
『あれは……比較的最近見聞きするようになった陣だよな……。とすれば……ここ百年くらいで……確かこの辺に――お、あったあった』
記憶を頼りに背表紙をなぞり、目当ての物を見つけると手に取った。
ぱらと頁を繰り、とある図式――陣が記載された頁を開くと、彼はそのまま自室の机へと向かう。
ランプを机に置いて火力を上げた。
ぼお、小さくランプの火が唸って揺れる。
椅子に腰掛けるなり頁の文字を指で追い始め、ゆっくりと読み解いていく。
『――やっぱ、結界の類いか……?』
ぽつりと言葉をこぼし、頁から落としていた視線を上げて唸る。
『だとしたら、厄介じゃねぇかよ』
ちっ、と舌打ちひとつ。
机上に置いてあった布包から丁寧に取り出し、ころりと手の平に転がしたのは紅い魔結晶。
ちろちろと揺れるランプの灯りを紅が弾く。
その、瞬間だった。
狙っていたかのように、するりとフウガの意識に滑り込もうとする――不快な何か。
枯れ葉色の瞳を険しく細め、それらを直ぐ様に意識から弾き出した。
これはそこらの精霊では惑わされ、呑まれる。それ程の何か。いや――。
『何かの声……怨嗟、か――?』
どうして。嘆きの声。
どうして。悲嘆の声。
どうして。恨みの声。
これは己という存在を強く保てなければ、容易く惑わされ己を失う。
ゆえに、あの若いとも未だ言えぬ若い精霊らに言ったのだ。
近付くな、触れるな。惑わされぞ、と。
微かにだが意識にて触れることで、この紅い魔結晶の出処が垣間見えた気がした。
胸くそ悪い――。胸中のわだかまるそれを吐き出すように深く息をつく。
『――――』
紅い魔結晶を凝らすようにフウガが目を細めると、ぼんやりとだが何かが浮き上がる。
それはまるで何かの図式のようで。
紅い魔結晶に埋め込まれたかのように、結晶内で光をまとい始めたそれは。
『……マナに反応してるってことは――』
つまりは魔力に呼応しているということだ。
当たって欲しくはなかったが、当たりなのかもしれない。
『――陣、かもな』
オドも魔力。マナも魔力。互いに反発し、そして時に引き寄せ合うもの――対の存在なのだ。
結晶内で光をまとい始めたそれは、およそ視認はしにくい上に大半は欠けてしまっている。
だが、フウガが広げた頁に記載された陣と、視認出来る範囲に限られるがとてもよく似ていた。
けどなあ。彼はぼやきながら頁を繰っていく。
どの頁にも似た陣が記載されていた。
『この魔結晶は欠片みてぇだし、こんだけ欠けてちゃ、辛うじて陣ってわかるだけだなぁ……。図式からおそらく結界系統……だがまぁ、そこまでだ』
紅い魔結晶を布包に戻し、彼は苛立たしげに頭をがしがしと掻き回す。
『それに人の魔法に詳しいわけじゃねぇし、ホントに最近開発されたものじゃ、さすがに俺も知らねぇ』
いくら情報通と呼ばれる風の精霊でも、たとえ長だとしても、全てを知ることは無理と言うものだ。
情報供給過多は己という存在の崩壊に繋がることもある。
どかっと勢いよく背もたれにもたれかかり、腕を組んで思案顔。
わざとらしい態度ではあるも、フウガの顔は真剣そのもの。
『だが、これで否定できる要素もなくなっちまった。この図式の陣は人のものだしなぁ……』
ずりずりと椅子を滑り、沈み込む。
魔族も魔法を扱う際に媒体として陣を用いるが、人と魔族とでは保有するオドの量は桁違いゆえに、人は人で独自のものを発展させていった。
よくわからないが、魔力経路やら魔力巡りの違いがあるらしい。
魔族基準で開発された陣では人の身では負担が大きい為に、人が用いる陣は、それを簡素化させたものが基本になっていると聞いたことがある。
『……結界系統の陣が埋め込まれてんのは、何のため――? 何かを封する……俺たちの風から逃れるための何かをか?』
彼の枯葉色の瞳が、ランプの揺れる灯りを映して揺れ動く。
『でも、不可解なこともひとつある』
それはティアも言っていたこと。
よっこらせと沈めた身体を起こし、改めて紅い魔結晶を手に取った。
手で弄びながら、思考を深めて行く。
陣が埋め込まれて結界が発動していたのならば、それに阻まれて魔結晶の存在に気付けなかったのは、悔しいが頷ける。
だが、ここで気になる言がある。
ミントという精霊が言っていたという、ぐわんぐわんとお船。
ぐわんぐわんがマナの濃さによって惑わされた状態を表すとすれば、やはり紅い魔結晶から綻んだマナによる、謂わば、擬似的なマナ溜まりが発生している可能性を示す。
そして、そう仮定したとする。
とすれば、話の順序的に彼女はぐわんぐわんとなり、船に乗って、この海街に来たということになる。
そこが気になるのだ。
『――どーして、船にも気付けなかった……?』
気付かなかったのではなく、気付けなかった。
気付けなかったということは、つまりは感知出来なかった。
言い換えれば、認識が出来なかったということになる。
と。そこで、弄んでいたフウガの手がふと止まった。
『認識が……出来なかった……?』
どくん、と嫌な鼓動が響く。
見せかけな造りの身体のくせに、こういう時はそれっぽく鼓動するのだなと皮肉に思いながら、嫌な予感に胸を抑えた。
『……もしこれに、認識阻害の効果も編まれていたとすれば……?』
この魔結晶がどういう工程を踏んで作られたものかは未だわからない。
けれども、陣が埋め込んである時点でそれは人為的なものだ。
その際に認識阻害の効果も編まれていたとすれば――?
『――――』
窓を打ち付ける雨の音が大きく響いた。
枯れ葉色の瞳を苛立たしげに細め、はっとまるで吐き捨てるように息を吐くと、感情に任せて髪を掻き上げる。
『――精霊も関わってるってか?』
認識阻害は、文字通りに認識を阻害させるもの。
マナへ直接働きかけることで、認識というものを曖昧にさせるのだ。
より正確に言えば、対象の周囲のマナ濃度を変化させる。
これは浄化と呼ばれることが出来る精霊だからこそ、出来ることでもある。
つまりは、それが編み込まれているということは、精霊も少なからず関わっていることになるわけで。
『……自らの意思か、操られているのか』
それは現時点では定かではないが。
『どっちしても、やっかいな』
ちっ、今度は鋭く舌打ちをひとつ。
乱暴に立ち上がったフウガは、ランプを片手に部屋を後にした。
先ずはこの紅い魔結晶を人の手に託し、解析を頼まなければ。
これは人の領分だ。
ここで悩んでいてもわかることは少ない。
それもまた、フウガを苛立たせる。
風のシルフと言われても、己に出来ることは限られているのだ。
*
乱暴に部屋の扉を開け放つと、廊下から驚きの声が上がった。
なんだと苛立ちが沸き上がり、ちっとまたもや感情に任せた舌打ちが落ちてしまった。
ランプを掲げて声の主を照らす――前に、暗闇に小さな陣が展開し、次いでそこに仄かな火が浮かび上がった。
ちろちろと、暗闇の中へフウガとジルの揺れる姿を浮かび上がらせる。
「その、
起きてるかと思って。
と、抱えている魔法書を抱え直し、ジルは申し訳無さそうな様子で、窺うように紅の瞳が上目でフウガを見やる。
ちろちろと彼の手元で揺れる火が、頼りなさげにその瞳を照らす。
「……――」
瞬間。フウガから苛立ちの気配が霧散した。
同時にしっかりしろと自身を叱咤する。
普段ならば部屋の外に誰が訪れたのか気付くのに、部屋に誰かが訪れることすら気付ないとは情けない。
気持ちを乱され過ぎるな。
少しだけ気まずく笑ってみせた。
「いや、こっちこそすまねぇな」
フウガの顔を見、ジルの身体から緊張が抜ける。
だが、気まずいのは彼の方もであり、どう言葉を繋げばいいのかわからず、結果的に口をつぐんでしまう。
彼の心中を察したフウガが話を振る。
「そーいや。その火は魔法か?」
ちらりと手元で灯る火を見やった。
釣られるようにジルもその火を見て、ああ、と頷く。
「初期魔法だとは記憶してるが、そんなすぐに扱える
「そーか? 案外簡単だったぞ?」
何ともなしに応えるジルに、フウガは面食らったように彼を見つめた。
「……陣を読むだけじゃなく、それを解したってことか?」
「何を驚いてんだよ。陣とやらを見れば、すぐにどんな魔法かはわかるだろ」
「早々に読み解けるもんでもないはずだけどなぁ」
肩をすくめて呆れる彼にフウガは苦笑した。
彼は感覚的に魔法というものを解しているのかもしれない。
その読み解きの速さと、そして、それを発動させる技量には眼を見張る。
陣を読み解いたとしても、マナがそれに応えてくれなければ発動をしないのが魔法だ。
それをマナとの仲を深めることなく発動させた彼は、とても魔力に好かれる質だということ。
それを人は才能と呼ぶ。
ともすれば、獣から魔族へと転じてしまったのも、偶然ではなく必然だったのだろうか。
魔族は本来、ここらよりもマナが濃い地に住まう者であり、保有するオドも多い者。
魔力との距離は、人のそれよりも近しいのかもしれない。
もし、それゆえに喚ばれてしまったのだとしたら、皮肉なものだ。
時として何かに喚ばれ、生来の巡りから外れてしまう者がいることも、また事実。
フウガ自身も目にしたことはあるし、実際に彼の近くにそういう存在が現に居る。
脳裏にちらりと過ぎった姿は、白の髪を緩く編み背へと流した、琥珀色の瞳を持つ少女。
そしてまた、それも自然の巡りというものであり、もし、と語ったところで詮無いことだが。
「まぁいーや、これは返しとく。あんがと」
「おう。あ、今度はちゃんと声かけてから持ってけよ――って、なんだよ」
ジルから差し出された魔法書を受け取り、そのついでだとフウガが小言をひとつ言ったところで、彼から困惑する声が上がった。
すんとフウガへ顔を近付けて鼻を鳴らしたのはジルだ。
だが、当の彼はすぐに訝るように首を傾げて身体を離す。
「なんか、におったか?」
少し不安に感じたのか、フウガも自ら鼻を鳴らして匂いを確かめる。
が、別段鼻がいいわけでもない彼にはわからない。
「……べつに、フウガがにおうわけじゃねぇよ。ただ――」
「ただ……?」
ジルは言い淀むように一瞬フウガを見やってから、ためらいがちに口を開いた。
「ただ、魔族の気配がにおった気がしたんだ」
「つっても、俺に魔族の知り合いはお前以外にいねぇしなぁ」
「だよなぁ」
少しばかりジルの声に落胆の色が滲み、彼が顔見知りの魔族が街を出て行ったのかも、と話していたことをフウガは思い出した。
「で、でもよ。俺は立場上、いろんな風と触れるからな。どこかで魔族の気配をまとっても不思議じゃねぇぜ」
励ますように声をかければ、ジルが仄かに笑った。
彼の手元で空気を食んだ火がじじっと唸る。
「さ、もうお前は寝ろ」
火の唸りを合図に、立ち話は終わりだとフウガは彼の背を軽く押しやる。
部屋へと促されながら、ジル自身も己の眠気を自覚し、途端にあくびをしそうになって噛み殺す。
自室へと足を向ける途中で肩越しに振り返って。
「フウガはまだ寝ねぇの?」
と、問えば。
「ん、ああ。俺はまだ、ちと寄る
くしゃとフウガは笑った。
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