ホットミルク


『――眠ってて、《ルイティア》』


 真名の絞り。意のままに操る術。

 シシィのその声に、ティアの意識は沈んでいった。




   ◇   ◆   ◇




 身体は熱を持ち、なのになぜか寒くて、厚手の掛布を何枚被ってもあたたまらなくて。

 熱の苦しさで喘ぎながら、たゆたう思考の中で静かに悟った。

 ああ、ここまでか――、と。

 どうしよう。約束したのに。養父と養母りょうしんと約束したのに。

 彼を護っていくからと、大丈夫だから安心してねと、約束をしたのに。

 なのに、自分まで流行り病にかかってしまうなんて。

 これでは彼を一人にしてしまう。

 ごめんなさい。ごめんなさい。熱で喘ぎながら、目尻から涙が滑った。

 そんな時、不意にざらりとした感触が目尻を舐める。

 薄ら目を開けると、不安で揺れるカッパー色の瞳が見下ろしていた。

 ああ、シオ。うわ言のように呟けば、みゃんと彼女は応えてくれた。

 だから、頼んでしまったのだろうか。

 シオ、あの子を護ってあげて。一人にしないであげて――、と。

 それを最後に、ゆっくりと思惟はほどけて、眠り落ちるように沈んでいった。


 約束を守れなくて、ごめんなさい。

 一人にしてしまって、ごめんなさい。

 だから――。




 これは、ある少女の時間の終わり。

 そして、新たな廻りのきっかけであり、ある精霊のはじまりを告げる。




   ◇   ◆   ◇




 椅子に座したまま机に突っ伏していたティアが、小さく呻きながら顔を上げる。

 妙な気怠さを覚えながら、眠ってしまったのを思い出す。

 というか、眠らされたのを思い出す。

 真名による縛りで眠らせるのはずるい。


『……そのせいかしらね。妙な心地だわ』


 身体を起こし、椅子の背もたれに寄りかかるなり軽く頭を振った。

 夢のせいか、気分が不安定な気がする。


『……ううん、違うわ。あれは夢じゃない……』


 と、すぐに思い直す。


『あれは……“ルイ”の時間の終わり……』


 うわ言のようにティアは呟く。


『……“彼女”が、終わりの際に……もう一度って、願ったから……――それが、私の始まり……で……』


 そうだ。“彼女”はただ、もう一度会いたかっただけなのだ。

 約束が果たせなくて。一人にしてしまうのが申し訳なくて。

 “彼女”の最期に流した涙の熱を知った。

 口の端に薄ら笑みが乗る。

 それでこの名を持っているのは偶然か、それとも――。

 ルイとは、ルイ。そしてまた、ティアもティア

 精霊の個を示す名は、魂に与えられる精霊としての存在を示すそれとは違い、個――つまりは心を呈するその名は、親から与えられる。

 両親がこんな自分にティアとの名を見出したのは、果たして偶然なのだろうか。

 寄りかかったままに天井を仰ぐ。


『あの子は今、一人なのかしら……』


 “彼女”は最期に彼女――シオへとあの子を頼んだ。

 けれども、シオは――。


『……シオは、猫だったもの。あれから人の世ではそれなりの時が流れてる……もう、シオも……』


 その時間は終えているはずだ。

 両手で顔を覆い、声にならなかった吐息をもらす。


『私としての、始まり……だから、“彼女”は私の一部で……でも、私は私で』


 矛盾していると思う。けれども、矛盾ではない。

 それは確かにティアの中で存在している事実であり、もう幾度と口にしているやらなくちゃいけないこと。

 ふっ、と今度は短く息を吐き出し、倒れ込んでいた身体を起こした。

 でも、どうして。胸中に言い知れない何かが燻る。

 なぜ、この時分に見たのだろうか。

 まるで突き付けるように、さもすれば、示し合わせのように。

 示し合わせ――。自ら浮かべた思考に引っかかりを覚える。

 が、今考えても仕方ないと緩く首を振った。

 意識が次第にはっきりしてきたところで、聴覚が現状の音を拾い始める。

 激しい雨風の音。

 はっとして振り返り、慌てて窓辺へ駆け寄れば、豪雨とも呼べるべき光景が広がっていた。

 いつの間にと唖然としていると、階下から上がってくる足音がし、やがて共用の場へと踏み入れる気配に振り返る。


「あ、わりい。起こしちまったか?」


 目が合うと、気配の主のジルが詫びる。

 ティアが大丈夫と首を横に振って否定すれば、そっかと彼は安心したように笑った。


「外が激しくなってきたからさ、ちょっと下の様子を確認してこようって思って」


 そう言いながら、ジルはそのままキッチンに向かい棚へ手を伸ばす。

 彼は何を始めるのだろうと首を傾げながら、ティアはまた椅子へと座り直す。

 テーブル上のミントは眠ったままで、シシィの張った水の膜が水面のようにたゆたっている。

 それにしても、ミントはずっと眠ったままのような気がして、少しだけ心配だ。


「そいつが心配?」


 声と共に、視界の端にマグカップが映った。

 顔を上げれば、彼もまたマグカップを手にし、対面の椅子に座るところだった。


「うん、そうね。心配よ。この子が眠ったままなのは、たぶん、自分を保つためだと思うから」


 それだけ消耗しているということだろう。

 ティアの琥珀色の瞳が揺らぐ。


「早く、帰してあげないと」


「精霊界ってやつ……?」


「うん」


 ふーん。ジルの返しは素っ気なくて。


「よくわかんねぇや」


 からと笑う。

 それが気楽で、ある意味心地が良い。

 慰めるとか、根掘り葉掘り問うとかはなくて、思わずくすりと小さく笑った。

 すると、何だよ、と顔をしかめて返すまでが彼の常だ。


「別に、何でもないわよ」


「……なんか納得いかねぇ」


 釈然としない面持ちで、しばし睨む様にティアを見やっていたジルだったが、やがて諦めたように嘆息をひとつ落とした。

 彼は自分が持っていたマグカップを既にテーブルに置いていたマグカップの隣に置く。

 ティアがその中身を覗き込むと、そこにはミルクが注がれているようで。

 そこにジルが手をかざす。

 彼は一体何を始めるつもりなのかと彼女が再度首を傾げた時。


「――――」


 室内にただようマナが震えるのを感じ取った。

 次いで、ジルのかざした手に円形の何かが小さく展開し始める。

 中空に魔力オドが走り、幾重の円を描く。

 そこへ文字が絡むと、光を帯び始めた。

 その文字を織り、言葉となって意味を持たせるそれは、陣と呼ばれるもの。


「……これ、魔法じゃない」


 いつの間にジルは魔法を覚えたのだろうか。

 ティアは驚きに満ちた目で彼を見やる。


「フウガの部屋から魔法書を失敬して少しそれを繰った程度で、使うのは初めてだけどさ、案外簡単だよな」


「そ、そうでもないと思うわよ……? 魔法の適性っていうのもあるのだし……」


 フウガはここに居を構えて長い。

 人の暮らしに溶け込んでいる彼が魔法書を持っていても不思議ではない。

 だが、それを繰った程度で陣を容易く展開でき、尚且それに意味を持たせることが出来るというのは――すごい、とティアは思うのだが。

 魔法書を繰ったからと言って、そこから読み取り、さらに理解を得なければならない。

 それを瞬時に読み解いたというのか。

 適性があるということは、もともとの素質がジルには備わっていたということか。

 彼の出自を思えば、それもあり得るのかもしれない。

 そもそもマナ溜まりから生還したということは、純な魔族に劣るとはいえ、やはり魔力耐性はそれなりで、さらには人に化ける力も手にしたのだ。

 あとは彼と魔力の親和性か。

 と、ティアが考えている間にも、陣は形成されていく。

 彼の紅の瞳が呼応して揺れ動く。

 その色になぜか既視感を覚え、眉をひそめた。思考を手繰り、閃く。

 あれに似ていると思ったのだ。あの色に。

 紅い魔結晶。紅。

 彼女の琥珀色の瞳が震えた。

 何か、良くないものを紐解こうとしている言い知れぬ予感が、不安という感情をまとう。

 漠然とし過ぎるそれが、余計に掻き立て助長する。

 あの紅い魔結晶は内から外へと、何らかの手法を用いて排出されたもの。


 排出――。その考えを今は深く思考してはならない気がした。


 そう彼女が考える間も、彼の魔法は展開していく。

 中空に描いた陣に魔力オドを流し、これを媒介にして魔力マナへと願う。

 そして、魔力マナが応えてくれることにより発現する。


「うぉしっ」


 ジルの声にはっとしたティアが顔を上げる。

 そんな彼女へ差し出されたのは、ミルクの注がれたマグカップであり、そこから湯気が立ち上っている。

 反射的に受け取ってしまえば、じんわりと優しげなぬくもりが手に伝わった。


「ホットミルクだ。それ飲んで落ち着いたらどーだ? お前、顔色ちょっとわりいぞ」


 そう言って、ジルも手にしたマグカップに口を付ける。

 程よくあたたまったミルクに満足げにひとり頷いた。

 ティアは手の中のマグカップを見下ろし、真白の水面を見つめる。

 真白と言っても、仄かに別の色合いを混ぜた白が柔らかくたゆたう。

 ゆっくりと彼女もそれに口を付ければ、ほんのりとした味わいが舌に広がり、優しくあたたかな後味が残った。

 それが自然とほっと穏やかに息をつかせる。

 顔を上げるとジルと目が合い、だろ、と彼がふっと笑う。

 柔らかに細められた彼の紅の瞳に、ティアは何かに突き動かされたように言葉を口にしていた。


「ジル、不用意の外出はしないでね。外出しても、なるべく人のいるところを選んで。一人にならないで」


「なんだよ、急に」


 驚いたように瞬く紅の瞳を見つめたまま、彼女は言葉を重ねる。


「勝手なこと言ってるってわかってる。でも、とにかく気を付けて欲しいの」


 マグカップを持つ手に力が籠もる。


「――お願い」


 訝るようにして彼女を見ていたジルは、懇願するようなその声に、やがて観念したのか。


「よくわかんねぇけど、わかったよ」


 と、頷いた。頷いてくれた。

 それに対し彼女は、ふわりと仄かに笑みを乗せ、ありがとう、と安堵した。


「絶対だから」


「わかった、つーの」


 さらに念を押す彼女に、彼は呆れながらも再度頷いて見せる。

 否、見せてくれた。

 その気づかいに嬉しさを感じながら申し訳無さも抱く。

 すごく勝手なことを言っている自覚はある。

 理由は言えないし、言える程に明確にもなっていない。

 けれども、どうにも何かが不安を感じさせる。

 その不安を紐解いてしまえば、もう後戻りは出来ない。

 そんな予感がして、震える気持ちをホットミルクを口にして流し込む。

 宥めるように仄かな後味が舌に残り、マグカップからはほんのりと湯気が立ち上った。

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