歩む先は未だ見通せず
ドーマーから屋根へと上がったフウガは、夜に染まり始めた海街を眺めていた。
『覚悟が出来たら訊きに来いって言って、そもそもが教える気もないくせにな』
自嘲気味な笑みが口端にのる。
眼下に広がる街灯の灯りは不安げに揺れて映るのは、強く吹付けながら海街を駆ける風が、厚い雲を引き連れ星を隠してしまったからか。
風に髪を乱されながら、フウガは屋根上に佇む。
心にずんと重い何が凝る。
脳裏に過るのはかつての光景。過去のもの。
形容するのもはばかられる、まさに惨事。
その過去の情景が尾を引き、仄暗い感情が胸中に凝って燻る。
『あんな光景は……俺だって、未だに思い出すだけで気分が悪くなる』
言葉は汚いが、胸くそ悪いとはこういうことか。
未だ遠い記憶とは言えないそれ。
あの光景を若い精霊となる彼らが知る必要はない、とフウガは思うのだ。
未だ多くの精霊があの光景を覚えているのだから。
これからの精霊には、出来れば知って欲しくはない光景なのだ。
どさりと少し雑に座り込めば、背後から風が吹き付け、襟元で適当にひとつに束ねた髪が雑に暴れる。
水を普段よりも多く含む重い風は雨の予感をも連れこむ。
『…………』
びちびちと活きが良い髪に、眉間にしわを寄せて渋面をつくった。
顔を叩きつける髪が少しだけ地味に痛い。
吹き付ける風に嘆息が混じり、次の瞬間にはフウガの姿形が変わっていた。
くたびれた雰囲気のおじさんから、大鳥へと転じる。
それは成人した人が背に跨がれる程に大きく、実際に跨ったのならば足も浮いてしまうだろう。
白の色に身を包んだ大鳥は頭に飾り羽根を有し、尾羽根も長く美しい。
だが、それらは今、背から強く吹き付ける風により、なびくどころか煽られそり返る。
それがぴしぴしと顔や身体を打ち付け、やはり少々鬱陶しい。
大鳥の姿では渋面はつくれないが、代わりにまとう空気が剣呑なものへと変じて行く。
それを敏感に察した風がフウガに吹き付ける勢いを落とした。
けれども、海街を駆ける風はそのままに、強さは増して吹き荒ぶ。
ひゅおと唸る風はその荒さを示し、遠くからざざんと荒い波音を運ぶ。
そんな吹き荒れる中、ぽつ、細やかな冷たさがフウガを刺した。
瞬間。吹き荒ぶ風が水を抱き込み始める。
横殴りの雨になったのは、それから間もなくのことだった。
『おぉ、おぉ。見事なもんだな』
感嘆したように呑気に呟くも、叩きつける雨がフウガを濡らし、既に濡れねずみならぬ濡れ鳥。
吹き付ける風は気を利かせ彼を気遣うも、雨は遠慮なく風の勢いを借りて彼を叩きつける。
濡れたからと言って別段飛べない程でもないが、もはや豪雨と呼べる中を積極的に飛ぼうとは思わない。
だが、胸中に燻る不快なそれを洗い流すには丁度良い気もする。
枯れ葉色の瞳をゆっくりと閉じた。
雨風が唸る中、かたと小さな物音を聞き留め、フウガはまぶたを持ち上げた。
『来たか――』
振り返った先。フウガが一瞬動きを止めた。
『シシィ……か――?』
彼が思わず確認してしまったのは。
『んーっ? なんて、言ったのっ! 聞こえなーいっ!』
濡れそぼった白狼のような白いかたまりがそこに在ったから。
その白いかたまりが何事かを声を張って叫ぶ。
だが、もはや豪雨と言っても差し支えない勢いの雨風が、その声を呑み込んで聞き取れない。
『…………』
フウガが空を仰ぐ。
彼自身は風の気遣いもあり、あまり雨以外の影響は受けてはいない。
だがしかし、この状況下では会話すらままならないかと、一鳴き声を上げた。
声が空気に溶け、風が巻き上がる。
『――――』
瞬間。吐息が、落ちた。
静かに空間を震わす吐息に、白いかたまりが碧の瞳を瞬かせた。
戸惑いの色を滲ませた瞳が周囲をぐるりと眺めやる。
激しい雨風が自分達を避ける様は、まるで別の空間に切り出されたかのようで。
事実、雨風が自分達を避けている。
自分らを避ける風に巻き込まれ、雨も自分らにまでは届かない。
だからか。常のように呼吸が出来る。
『これで声が届くだろう?』
少し見上げれば、得意げに笑う大鳥の姿。
しばし呆けたように見上げ、そして、ふいに白いかたまりは尾を振った。
すると、白いかたまりと大鳥の身体から弾かれるように水滴が飛び、身体が幾分か軽くなる。
水をたっぷりと含んだ体毛から水気が飛んだことにより、白いかたまりがきちんと白狼の形を持つ。
『お、やっとシシィっぽくなった』
くくと低く笑うフウガに、シシィは半目を向ける。
『最初から僕は僕だよ。そもそも部屋を出る時に、ばななに言付けてここへ呼んだのはフウガさんだよ?』
『ああ、そうだったな。悪い悪い』
悪びれた様子もなく身体を揺らす彼に、シシィは渋面な雰囲気をまとった。
切り離されたような空間の外では、相変わらず唸る風に雨は横殴り。
外へ視線を巡らせば、海も不機嫌に荒れているのがシシィにも伝わる。
ふっと短く息を吐き出し、それにしても、と改めて思う。
『これも、さすがは四大精霊って感じなのかな』
『ん? 何のことだ?』
シシィの呟きを聞き留め、フウガが反応を示した。
『風の精霊が自分から風を起こすのとかは見たことあるけど、自然の風を操るのは初めて見たから』
前足でそっと空間を切り離している風に触れてみる。
痛みはなく、ただ、己らを避けてくれているだけだとわかる。
まるで意思を持ったかのようなそれ。
触れてわかる。フウガの気をはらみ、何かの意思に促され避けているのだ。
そう、文字通りに操っている。
『操ってるとも言うが、言う事をきかせていると言った方が近いのかもしれん』
『それはどっちも同じ意味じゃ?』
シシィがフウガを振り返り、首を傾げる。
『いや、違うね。言う事をきかせるとなれば、風はしばらくの間は気を悪くしちまって、そこはしばし無風となる』
え、と。シシィは目を丸くする。
魔法、と人が呼ぶそれは、想い描いたものを、媒介を通じてマナが応えてくれることによって発現するもの。
それを。
『当たり前だよな。有無を言わさず従えたんだ。へそを曲げるのも道理。――俺なら、この豪雨を止めることも出来るぞ』
フウガの呟きに拒むように、風が一瞬強く唸った。
それに対し、しねぇよ、と彼は風へ向けて苦笑する。
はじまりの精霊と呼ばれる、人の世に初めて姿を現した精霊らも、もとは自然の精気の集まった幼精が昇華した自然霊だった。
それを人の祈りに触れ、かの存在と約束を交わす条件として身体を賜った。
ゆえに、時を重ね力を蓄えた精霊は、自然へも時に干渉することもあった。
だが、己の影響力も知っている精霊だから、そういった力を持った精霊らは奥でひっそり暮らす者が殆どだ。
フウガが変わり者なのだ。
『自然は自然のままがいいさ。意味もなく干渉すれば、何処かで何かの
『じゃあ、これは……? いいの?』
シシィが鼻先で自分らを避ける風を指し示す。
何処かで何かの歪みをうむ。その何かは何なのか。
漠然とした何かが燻る。
強張る彼へ、フウガはふっと笑う。
『なあに、これは自然に対しては些細なことさ。風の邪魔はしていないだろ?』
フウガの言葉の意味を掴みあぐね、シシィは困惑げに首を傾げた。
『激しいこの雨風の中だ。俺たちを避けるぐらいの程度は些細なことさ。それだけ自然は大きいってことだよ』
傾げるシシィの首の角度が、さらに急をついて傾く。
それを今度は、フウガがははっと豪快に笑った。
『まあ、そのうちに解るようになるさ。未だ若いとも言えぬ、精霊よ』
『むうー……』
面白くなさそうに唸るシシィに、こういうところは成長しないなと、フウガは苦笑を噛み殺すのだった。
*
『ところで、シシィ。ティアの様子はどうだ?』
『今は落ち着いて眠ってる。だから、眠ってるミントと一緒に置いてきた』
『そうか』
次いでフウガはシシィを改めて見やり、お前はどうだと尋ねる。
『僕? 僕は大丈夫だよ。平気じゃないけど、大丈夫』
少しぎこちなく笑う彼に、フウガは暫く見やってからそうかと頷いた。
強情な奴だと思いながらも、それを通そうとするのが彼の強さだとも思う。
フウガは外へ視線を投じた。
変わらず激しい雨風に目を細める。
今は激しいが、きっと明日頃には落ち着くだろう。
切り出すならば、この時合、この頃合いだろうか。
『――シシィ』
外を眺めるままに、隣の白狼を呼ぶ。
彼が顔を上げて応じたのを気配で察し、ゆっくりと言葉を落とした。
『お前、明日にここを立て』
そこで彼の方を見やれば、こちらを凝視したまま硬直する白狼の姿があった。
嫌だ。碧の瞳がそう訴える。
『……そ、それって……ちあと一緒に……?』
すがるような色を滲ませ、碧の瞳がフウガを凝視する。
そうだって頷いて。声なき声が木霊した。
だが、それをフウガはばっさり切り払う。
『いんや、お前だけだ。……あ、だが、ミントと言ったな? あの娘は連れてけ、というか、送り届けてやれ』
『どこに……?』
『精霊界の方の、精霊の森にだ。あの娘はすぐに帰した方がいい。ここは信が薄い上に、マナが乱れたままでは辛いはずだ』
あれだけ近くで話していたのに、これだけ雨風が激しいのに。
それでも目を覚まさないのは、ミント自身が、少しでも身体を休めようとしているからだ。
今はシシィの水の膜――結界に包まれているから、多少の休息の手助けにはなっているだろう。
水は癒しの気があるゆえ。
『それは……わかったけど……。なんで僕だけ? どうして、ちあは一緒じゃだめなのさ』
小さな不満が燻る瞳で、シシィはフウガを軽く睨む。
『……フウガさんがいつもみたいに転移術で行った方が早くない?』
『紅い魔結晶なんて出ちまったんだ。俺が離れるわけにゃ、いかねぇよ』
『…………』
それをフウガが睨み返せば、一瞬にしてシシィは瞳を見開き、顔を強張らせて逸らす。
『それだ、それ。それだぞ、お前』
『はあ?』
シシィにしては珍しく、怒気をはらむ声が低く響いた。
『ティアのことになると、随分と子供になるよな。思い通りにならねぇと、駄々をこねる』
『…………』
『シシィ、いい機会だ。ついでに見てこい。ティアの傍でじゃなく、自分の目で外を見てこい』
不満が燻るシシィの瞳に、困惑の色が混ざる。
真っ直ぐ彼を据え、フウガは真摯に告げた。
『お前らは一緒に居過ぎだ。……ん、そうじゃねぇな。お前が傍に居過ぎなんだ』
ひゆう。狭い場所を通り抜けたらしい風が高く声を上げた。
『これは、俺の個人的なあれだけどよ。――あいつで過去の寂しさを埋めようとは、してねぇよな……?』
激しく打ち付ける雨音が大きく聞こえる中で、シシィにはフウガの声がやけに鮮明に聞こえた。
『……何が言いたいの?』
シシィの返した声は随分と刺々しかった。
それでも、そこに多分に含まれた色は困惑か。はたまた、図星を突かれたゆえの動揺か。
『母の居なかった寂しさを、あいつで埋めてはいねぇよなってことさ。……お前はずっと、あいつの傍に居るからな。気持ちを混同させてはいねぇよな?』
これは、年長者としての忠告さ。
枯れ葉色の瞳が剣呑に細められる。
が、それはすぐに掻き消え、ふっと笑みに染まった。
『あいつは俺にとって可愛い姪だからな。なぁに。大切にしてくれりゃ、それで充分ってことよ、旦那さんよ』
ばしばしと、フウガは翼でシシィの背を軽く叩く。
けれども、シシィは顔を俯かせてされるがまま。
叩かれる反動に揺れる身体。
そこへ。どくん、と。嫌な鼓動を感じた。
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