その音がしるべ
『ぐわんぐわんって、混乱したってことかな?』
『ぐわんぐわんは、ぐわんぐわんなの』
シシィの問いかけに答えるミントの表情は真面目だ。
彼の肩に乗った彼女の様子から、ふざけているわけでないのは見てわかる。
が、それ以外の答えも引き出せないゆえに進展もない。
軽く肩をすくめたシシィは、どうすればいいかなとティアを見やる。
人通りもない通り。静かに風だけが通り過ぎる。
ここで困ったような視線を向けられても、ティアも困ってしまう。
ちらりとミントを見やれば、彼女はシシィとティアの両者を見やって不思議そうに首を傾げるだけ。
何を問いたいのか、訊き出したいのかわかっていないようだ。
確かに、ぐわんぐわんは何との問いに、ぐわんぐわんと答えるのも間違ってはいない。
間違ってはいないが、そうではない。
はてさて、困ったな。うーんと低く唸る。
と。
『ばなな、みんとのこと、きづかなかった』
そこへ、ティアの肩に留まるばななが声を上げた。
ぱちと琥珀色の瞳が瞬き、ばななの方を見やる。
『……待って、ばなな。気付かなかったって、彼女の存在を今知ったってこと?』
小さな真白の小鳥がこくと頷く。
『ふうがにいわれて、ばなな、まちのけはい、ずっと、さぐってる』
『……なのに、気付かなかった……?』
これはいよいよ違和が強まる。
フウガに言われて、のその“言われて”が、どのようないきさつがあってのそれなのか。
それは気になるが、たぶん今はそれを気にする場面ではない。
それよりも気にするべきなのは、風が気付かなかったことだ。
言い知れない不安がティアの胸中に重く淀む。まるで、沈澱するように。
『ティア、どうかしたの?』
『ばななが、ミントちゃんがこの街に訪れたのを気付かなかったんだって』
『どういうこと?』
シシィを見やれば、彼の眉間には訝るようにしわが寄っていた。
『おじさんに言われて、この街に訪れる者の気配を探っていたみたい』
だよね、とばななへ確認するように視線を投じれば、彼はこくと静かに頷く。
『それなのに、風はミントちゃんの存在に気付かなかった。……これって、おかしいことだわ』
『風が情報を拾えなかったってこと、だよね……?』
『ええ』
ひゅお、風が震えるように吹き抜ける。
しばし彼女らの間に沈黙が横たわり、その沈黙に怯えたミントはシシィへ身を寄せた。
彼女へ大丈夫だよと声をかけることも忘れ、シシィとティアは互いに顔を見合わせる。
互いの瞳に滲むのは――不安と焦燥。
自分らの知らないところで、知らないことが起こっている。
『――ねえ、ティア』
緊張をはらむ沈黙をシシィの声が震わす。
『風が情報を拾えないことって、よくあることなの……?』
彼の碧の瞳が、微かな光を見出したかのように揺れる。
だが、それも意味のないことだろうと彼自身も薄々察しているから、揺れる瞳に力強さはない。
彼を据えたティアはゆっくりと口を開いた。
『……数年前とか、時がそれなりに経っているものは無理よ。例外もあるけど、風は新しいものが好きだから、常に情報収集は怠らないの』
あとはその風から情報を得られるかは、風の精霊の力量次第だ。
風に舐められれば、得たいものも得られない。
だが、それは関係ないだろう。
自分は風に好かれているというティアの自負もあるが、今はばななが居るのだ。
彼が居て情報を得られないことは先ずない。
彼にはフウガの、探れという命もあるのだから。
『でも今は、直近の情報……それもおじさんに言われて探ってた。なのに、気付かなかった。だから答えとしては、ありえない、としか言えないわ』
『……そっか』
シシィが薄く笑う。
その瞳に落胆の色を見、ティアは目を伏せた。悔しげに口を引き結ぶ。
どれだけ考えてもその理由がわからない。
どうして。それだけが後味悪く残る。
くっと顔が悔しさで歪んだ、その刹那。ティアの中で何かがひらめいた。
歪んでいた顔からふと力が抜け、表情が幾分か和らぐ。
『――ねえ、ばなな。気付かなかったって言ってたわよね?』
『うん、ばなな、いった』
ばななの返答に、そう、とだけ呟いた。
『ティア?』
そのまま彼女は、自身を呼ぶシシィの声に振り向く。
『ねえ、シシィ。気付かなかったんじゃなくて、気付けなかったんだとしたら――』
その言葉にシシィはしばし瞳を瞬かせ、やがてはっとしたようにその瞳を見開いた。
そして、彼女の言葉を引き継ぐように言葉を口にする。
『――その意味が、変わってくる』
同じものでも、立ち位置によって見え方が変わるように。
これもまた、見え方が変わってくる。
『……だとすると、いろいろと繋がってくる気がするね』
『シシィ?』
腕を組み、シシィは深く考え込む。
姿の解れた精霊。それを、壊れていると言ったフウガ。
仮にそうだったとすれば、あの精霊がいた付近のマナが濃くなっていたのも頷ける。
自然な解れならば、人が惑わされる程に濃くなることはない。はずだ。
それは幼かった頃のティアでわかっている。
器に亀裂が入っていた時、同じ部屋にいたあの娘は惑わされていなかった。
魔物の一太刀により器に亀裂が入っていたとはいえ、あれは魔物によるもの。
それを自然な解れ方とすれば、あの精霊の解れ方に違和を抱いた理由は。
『……別方向からの衝撃だから』
ということにならないだろうか。
魔物は自然に発生したものであり、それとは別方向からの解れ。
『つまりは、外部からの……? でも、それは何?』
外部だけではまだ不明瞭だ。これをもっと明確にするには。
『ミント』
肩で大人しくしていたミントへ声をかけると、彼女はどうかしたのと視線を向ける。
『ぐわんぐわんって以外に、ミントが覚えていることはないかな? 例えば……そう、ぐわんぐわんってなっているから、こうしたんだよーとか』
シシィの言葉を受けたミントは、思い出そうというのか、彼を真似て小さなそれで腕を組み、うーんと何事かを考え始めた。
『シシィ、さっきからぶつぶつと何を? 何かわかったの?』
横からティアの質問が飛ぶ。
『まだ何も。そのためにミントに訊いてる』
『訊いてるにしては、中身の形が伴ってる気もするわよ?』
ティアの琥珀色の瞳が、真剣な色を帯びてシシィを据える。
彼からミントへの訊ね――質問の体をとっているも、その中は具体さを持っている気がした。
シシィは彼女に軽く目を見張りながら薄く笑う。
見透かされている感じが少しだけこそばゆい。
『……ね、シシィさま』
『ん、何か思い出した? ミント』
くいくいとシシィの横髪を引き、彼らの気を引いたミントが身を乗り出して言う。
『ミント、思い出したの。ぐわんぐわんってなってね、ミントはミントにミントだよって、ずっと言ってたの』
『……うん。ちょっと待ってね、ミントが少し多かったかな』
苦笑をもらすシシィが待ったをかけて彼女の言を噛み砕く。
『つまりは、自分に言い聞かせてたってことかな』
己は己だ、と。
なるほど。シシィはひとり納得したと頷く。
横からは、何がと問いたげな鋭い視線が突き刺さる。
それにも苦笑を滲ませながら、彼はティアを一瞥した。
『ティアにも一つ訊くけど、自分を見失いかけた時ってなかった?』
『……?』
『ぐわんぐわんってした時――これって言い換えれば、混乱とか、混ぜるとか……そう――掻き混ぜる、とも捉えられるよね?』
そう言ってたこと、なかったかな――?
掻き混ぜる。
それに引っかかりを覚え、ティアは口の中で静かに呟き返す。
その感覚に覚えるがある。そう、あれはあの時のこと。
『……マナ溜まりに迷い込んだ時の、私の身体が解れた時』
そっと、左目に刻まれた傷跡に触れた。
これは魔物の一太刀で刻まれたものだ。
その際にマナが暴れ、熱を持ち――無意識のうちに彼女は己の腕を抱く。
あれは気を緩めれば己を見失い兼ねないし、実際に己を乱され見失いかけた。
かたかたと身体も震えはじ――。
『……ア、ティア――……ちあっ!』
突如。ふたつの音が耳に触れ、はっと息をつく。
あの時も己を引き上げたふたつの音。
その同じ音は、やっぱり自分にとっての道しるべ。
のろのろと声の方を見やれば、心配そうに見やるミントとシシィの姿があった。
『……ティア、大丈夫? ごめん、浅慮だったかも』
シシィの碧の瞳が揺れ動く。
それにふると首を横に振りながら、ティアは緩く笑った。
ティア、と。彼にそう呼ばれるのはくすぐったく、嬉しさももちろんある。
けれども。やっぱり、彼にそう呼ばれるのは嫌だなあと。
何かが自分へ訴えている。
『やっぱり私、あなたにはちあって呼んでもらいたい』
『ティア……?』
『違う。ちあ、よ』
『…………ちあ?』
『うん、そう』
柔らかな声音で頷き、くしゃりと彼女は笑った。
それが道しるべ。
彼がそう呼んでくれれば、きっともう、己を見失うことはない――。
と、思うのだ。
ティアのその笑顔は、シシィに対しての信の一面が滲んでいて、知らず彼は小恥ずかしさから顔を背けた。
頬が熱い気がするのは気のせいだ。
そう思いたかったのに。
『シシィさま?』
てしてしと小さな手で彼の頬を叩く存在がひとつ。
『お顔が赤いの、どうしたの?』
小首を傾げ、不思議そうにシシィの顔を覗き込むミントに、彼は誤魔化すようにひとつ、こほんと咳払いを落とす。
『……何でもない』
『?』
小首を傾げ続けるミントを横に、彼は気遣わしげにティアを見やった。
『ちあ――』
『さっきの問いだけど、確かに覚えがあるわ。あの時は自分の芯になるものが見えたから、見失わないで済んだのよ――私は大丈夫』
ティアは先程の問いの答えを述べるも、最後の言葉は気遣わしげな彼の視線に対するもの。
これは以上は気に病まないでとの意味を含んで。
『――……うん、ありがと』
少しだけ複雑そうに笑う彼の笑みは、彼女の心遣いを察したから。
心遣いと問いの答えへの礼。
しばし、微妙に重い沈黙が降り積もった。
そこに、あ、と声が落ちる。
何事かを思い出したように発せられた声は弾み、二対の視線はミントの方へ引き寄せられた。
『ミント、どうかした?』
『うん。ミント、もうひとつ思い出したの』
『何を?』
『ぐわんぐわんってした時、ミントはお船できらきらも見たのっ…!』
小さな両の手を目一杯に広げ、ひらとひらめかす様は、そのきらきらを表現しているのか。
『きらきら……?』
困惑を多分に含んだ声は、シシィとティアから同時にもれ、そしてまた同時に顔を見合わせる。
その顔は、何の事だろうかとやはり困惑に染まっていた。
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