序曲の調べはゆったりと
ジルに別れの手を振ったあと、シシィは通りを曲がるなり、そこで立ち止まった。
彼との会話を無理やり打ち切ってしまった自覚はあるも、気配が時折ちらつくのがどうにも気になって仕方がなかった。
『――ねえ、僕に何か用事?』
シシィが何かへ問いかけた言葉は、精霊らが扱うそれ。
彼の問いかけに、外壁の影でびくりと小さな何かが震えた。
『ん?』
優しく促すシシィの声に、その小さな影はおずと顔を出す。
『……精霊王、さまじゃ……ない……?』
小さな耳は愛らしく、背に流れる茶の縞模様。
くりんと円を描く尾は体長と同じくらい。
リスの姿をした精霊が、ひくと鼻をひくつかせながらシシィを見上げた。
『母う――精霊王様と僕の気配が似ているから、勘違いさせちゃったかな』
膝を折り、リスの精霊と目線を近付けたシシィは申し訳無さそうに笑う。
『ごめんね、精霊王様じゃなくて』
『ううん。シシィさまでも、安心するの』
リスの精霊はゆると首を横に振り、にへらと柔らかく笑い返した。
けれども、シシィの碧の瞳が不思議そうに瞬く。
『あれ、僕のこと知ってるの?』
『精霊王さまのご子息って、みんな言ってるの』
『そーなんだ。……まあ、そーだよね』
複雑な色を滲ませ、シシィは苦笑した。
いつまで経ってもこういうのには慣れない。
知らぬ間に、自分が知らない相手へと名と顔が知られていく感覚。
精霊の森にいた頃はよく声をかけられた。
大きくなったね。将来が楽しみだね。とか、いろいろと。
自分に声をかけ、何か得があるのだろうかと首を傾げたものだ。
いくら精霊王の子とはいえ、自分は次代にはなれない。
その器がないことは自分がよく知っている。し、周りもそれは気付いているだろう。
なのに、接点を持とうとするのは、やはり自分が精霊王の子だからか――。
『……シシィさま?』
リスの精霊の呼びかけにはっする。
『あ、ごめん。ちょっと考え事してた。――それで、何か困り事かな? ええと……』
リスの精霊の名を訊いていないことに気付き、そこで少し言い淀んでしまう。
けれども、彼女は特に気にする様子もなく。
『ミントはミントっていうの』
と答えると、とたたとシシィの膝を伝って肩まで駆け登り、そのまま彼女はシシィの頬へ身を寄せた。
『シシィさまの雰囲気、気持ちいいの』
すりと擦り寄られるが、シシィも困ったように笑うだけで、彼女を拒むようなことはしなかった。
彼女から伝わる気が、土をはらんでいる。つまりは、ミントは土の精霊。
だからか、彼としてもそれは決して不快ではない。
土は水を得て緑を育む。
ゆえに相性で言えば悪くない組み合わせであり、彼女もまたそれを無意識下で感じ取っているのだろう。
すりと擦り寄せられる心地に目を細めながら、シシィが指を伸ばして彼女の首を撫でやる。
『…………』
触れ合う箇所から気を通じて感じる彼女のマナの乱れ。
でも、これは――と。言い知れない違和を抱く。
この感覚は前にも感じたあれに似ていた。
先程とは違う意味合いで目を細め、目元には剣が滲む。
『――ねえ、ミント。君って、この街で暮らす精霊ではないよね?』
少しだけ硬い声でミントに問う。
この街は人の精霊に対する信が希薄だ。
ゆえに、己という存在の保ちが不安定になりやすい精霊は、本能的に近寄ろうとはしない。
彼女は中位精霊。この街で暮らすしては、精霊として少しだけ未熟で足りない。
『うん。ミント、気が付いたらこの街にいたの』
『人に惹かれて船に乗り込んじゃったとか?』
実際、そういう経緯でこの街に辿り着いてしまう精霊は多い。
彼女もそうなのだろうか。
だが、それにしては――違和がやはりある。
シシィの重ねる問いかけに、ミントはそっと彼から身を離して首を横に振った。
『ううん、違うの。ミントはミントが未熟って知ってるの。だから、お船には乗らないの』
『ん? じゃあ、なんでこの街に?』
『それは……ミントもわかんないの。ぐわんぐわんってなって、気が付いたらミント、お船に揺られてたの』
要領をいまいち得られないミントの返答に、シシィが困惑げな表情を浮かべる。
そんな彼がわかっているのは、言い知れない違和が、不安という形をまとい始めたことだ。
『……ミント、そのぐわんぐわんってどういうこと?』
『ぐわんぐわんは、ぐわんぐわんなの』
それからミントは、再びシシィの頬へ身を寄せ、すりと擦り寄せ始める。
シシィとのやり取りに飽いた様子で、今はこれ以上のことを彼女から訊くことは難しいかと、シシィは短く嘆息をもらした。
軽く肩を竦めて立ち上がる。
ミントが身を寄せるのは、無意識下でシシィからの気――つまりはマナを得ようとしているのかもしれない。
彼女のマナは何故か乱れている。
その乱れを無意識下で正そうとしている表れなのだろう。
土が水を取り込むように。
シシィが自身のマナを彼女の方へと流れをつくってやると、彼女がふすと心地良さげな息をもらす。
そんな彼女の首筋を先程のように指で撫でていると、風が小さく吹き付けた。
びくりと身体を震わせたミントがシシィの後ろへ回り込む。
自然な動きではない風に訝しんで視線を投じれば、時を同じくして少女が舞い降りた。
その意外な主の登場にシシィは軽く目を見張る。
『ティア』
こつ、と。石畳を踏み鳴らす音が響く。
彼が名を紡げば、風を伴い舞い降りた少女は顔を上げた。
風の余韻が、少女の緩く編み込み、背へと流した真白の髪をふわりと浮かせて行く。
少女――ティアの髪は、シシィとの関係が明確になったあの時から、その色合いを変えた。
淡黄色から真白へと。精霊としての位が上がる、それはすなわち成長したということ。
精霊として確かなものを、彼女は得たということ。
それは嬉しいことだとシシィは思うのだが、その実少しだけ寂しさがあるのも事実。
彼女の淡黄色の色も好きだった。それならばもっと、あの色を目に焼き付けておけばよかった。
と、ちょっぴり残念に思っているのはシシィの秘密だ。
『…………』
そんなティアは顔を上げたまま、物言いたげな目でシシィを見つめる。
『……どうかしたの? ティア』
不思議に思い、首を傾げながら彼が問いかければ。
『ん……別に何でもない……。思ってたのと何かが違っただけ』
『思ってたのと?』
『…………“彼女”の心残りを探して街を歩いてたところに、シシィが女のコと仲良くしてるって、ばななが言うから――』
ティアの肩口で風が渦巻き、ばななが姿を見せた。
それを彼女が恨めしそうに軽く睨む。
『急いで飛んできたのに、聞いてたのと違う』
『ししぃ、おんなのこ、なかよししてる。ばなな、うそ、いってない』
シシィの方へ身体ごと向いたばななの視線が、彼とその影に隠れるミントを見やった。
彼女も釣られるように彼らをもう一度見やり、確かに嘘ではないけど、と納得いかない様子で口をへの字にする。
『ティア……?』
始めは不思議そうにしていたシシィも、やがて彼女の様子から大体の事情を察し、可笑しそうにくつと小さく笑った。
『そんなに心配しなくても、僕はティアだけなのに』
『なっ……! 別に、私はそんなっ!』
そっぽを向いたティアの頬は、仄かに熱を灯して色付き、琥珀色の瞳が軽くシシィを睨んだ。
くつくつと喉奥で笑う様子がどこか嬉しそうで、それが尚更悔しい。
何か悔しい。悔しいと思うことすら悔しい。
もう、よくわからない。
それに――。
『あ。そうだ、ティア』
彼はあの出来事――互いの関係に名が付いた――以降、自分のことをちあと呼ばなくなった。
ちあ、ではなく、ティア、と。
どうしてきちんと呼ぶようになったのかは知らないが、それが少し寂しくて。
『ティア、聞こえてる?』
やはり、少しだけ寂しい。
『き、聞こえてるし、なに?』
じんわりと滲むその気持ちは無視し、視線は逸したままに応える。
『――ミントのこと、ティアにも訊きたくて』
だが、シシィの声に緊張の色が滲んでいる気がして、彼女はすぐに顔を上げた。
『大丈夫だよ、ミント』
柔らかな声音でシシィが自身の肩口へ手を伸ばし、ミントが手に乗れるようにと差し出すも、緊張か警戒か、彼女は身を縮こまらせた。
ちらと、彼女の視線はティアへ向けられる。
その瞳に滲むのは、緊張。
そっ、と。少しだけ、ティアは遠慮気味にシシィとの距離を詰めて。
『私はティア。シシィとは……と、友達なの。よろしくね、ミントちゃん』
友達、と言い淀みながら口にした瞬間、シシィの眉がぴくりと跳ねたが、それには気付かぬふり。
彼がどう考えているのかは知らないけれども。
ふわとミントへ柔らかく笑いかけ、ゆっくりと指を差し出してみる。
そんなティアの意図を察した彼女は、窺うようにシシィをちらと見、彼がこくりと頷けば。
『……よ、よろしくなの』
差し出されたティアの指を、しずと小さな両の手で重ねた。
『――――』
瞬。ティアが一度シシィを見やった。
シシィが訊きたいと言っていたのはこれか。
ミントのマナの、乱れ。
それに真剣な面持ちで彼がひとつ頷いてみせれば、了解したとばかりに彼女も頷き返す。
そんな二者の静かなやり取りに気づかず、ミントがティアをおずと見上げた。
すると、ぱちりと琥珀色の瞳と合い、ティアは再度ふわと笑ってみせる。
それで緊張が解けたのだろう。
ミントはえへへと小さく声をもらして明るく笑った。
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