閑話 序曲は静かな調べ


 夜も深まる精霊界。

 四方を森に囲われた湖に浮かぶ島。

 そこに根を下ろす大樹のうろにて、王たる白狼――ヴィヴィは穏やかな寝息をたて眠っていた。

 子守唄のように森がささやく静かな夜。

 その中に気配が降り立つ。

 同時に風が走り、湖面に瞬く星を揺らした。

 夜の静寂が揺れる。

 うろで眠るヴィヴィの両の耳が立ち、ゆっくりとまぶたが開かれれば、湖の底のような瑠璃の瞳が現れた。


『…………』


 顔を上げ、ほおと息を吐く。

 ヴィヴィがのっそりとうろから出てくると、降り立った気配の主が声を上げた。


『こんな時分に申し訳ない、王』


『……いえ、構いませんよ。あなたが訪れたということは、保護をしたのでしょう? フウガ』


 フウガが夜の下、姿を現す。

 白の髪が夜の中に浮かび上がり、枯れ葉色の瞳が申し訳無さそうに笑う。

 フウガの肩口で風が渦巻くと、そこに真白の小鳥も姿を現した。

 彼の手に乗る二重の結界にヴィヴィの瑠璃の瞳が向けられた。

 そのうちのひとつに見知った波長を感じ取り、瑠璃の瞳が刹那的に揺れ動く。

 彼女の瞳の動きから、何を気にしたのかをフウガは察した。


『ああ、この結界はひとつはうちの姪で、もうひとつは王のお子のものさ』


 ヴィヴィの元へ向かうフウガの足音、草地を踏む音が響く。


『シシィはきちんとやっていますか?』


『おうさ。姪とうまいことやってるよ』


『そうですか』


 フウガの言にヴィヴィは嬉しそうに瑠璃の瞳を細めながら、フウガの手元を覗き込み、結界に囲われた精霊を視る。

 瞬間。瑠璃の瞳が見張られ、彼女は身体を強張らせた。


『――フウガ』


 フウガの名を呼ぶ声が硬い。


『王も気付かれたか』


 対して、返す彼の声も硬く。


『……なぜ、この子は身体がいるのです?』


 剣がはらむ瑠璃の瞳が、真っ直ぐフウガを射抜いた。


『姪が見つけた時には、既にほつれていたらしい。あの地は人の信が薄い。それゆえの解れではないかと、姪達はみたようだが?』


『いいえ。この解れは、そんな自然な流れのものではありません。……でもこれは、そんな……まさか――』


 瑠璃の瞳が精霊の、さらにその奥を見通そうと凝視する。

 だが、見通す中で発さられた声は次第にすぼみ、そんなまさかと驚愕が滲む。

 やがて、彼女は言葉に詰まって口をつぐんでしまった。

 その様子を見たフウガは静かに口を開く。


『……王も、そう見られるのだな』


 そこには確信したような響きがはらんでいて、言外にヴィヴィのその考えを肯定する。

 けれども、ヴィヴィは咄嗟に首を横に振った。

 彼女の気持ちが伝わったのか、大樹が、森が、落ち着きなくざわめき始める。

 ヴィヴィは落ち着こうと呼吸に意識を向けるが、滲んだ驚愕はにじり寄るように沁み込んでくる。

 緊張で身体が絡め取られ始めた。

 そんな時だ。視界の端で、夜闇の中をぼんやりと浮かび上がる白を見つけ、反射的に顔を上げた。

 ほ。細く息を吐いた。

 自然と身体から力が抜ける。


『……いえ、決めるのは早計ですね。――スイレン』


 ヴィヴィがフウガのその向こうへ視線を投じる。

 フウガも振り返れば、島の湖畔に白狼のスイレンが佇んでいた。

 二者の視線に、スイレンは一瞬びくりと小さく身体を跳ねさせたが、すぐに気を取り直してフウガに向き直る。


『フウガ、久しいな』


『おうさ。スイレンもな』


 互いに軽く挨拶をし、スイレンがふたりの元に歩み寄れば。


『なに、一介の俺が聞いてもいい話なの?』


 ヴィヴィに確認をとる。

 口調こそは軽いが、その声は幾分が硬かった。

 いくら彼女と近しい関係とはいえ、王たる彼女の前では、スイレンは一介の精霊でしかない。

 その王と四大精霊のひとつ、風のシルフが深刻そうな顔を並べて話しているのだ。

 話を終えるまで待つのは当たり前だ。

 が、そこに咎めるような声が飛ぶ。


『……何度も言いますが、スイレンは一介の精霊ではありませんよ』


『“内”と“外”を渡る精霊がなぁーに言ってんだか』


 半目になるヴィヴィと、肩をすくめるフウガ。


『つーかよ。聞いて欲しくない時には顔を突っ込むくせに、そうじゃない時には大人しくなりやがって、スイレンは妙なとこで真面目だよな』


 続く彼の言葉にヴィヴィは苦笑するだけ。

 それは少なからず彼女もそう思っているということだ。

 スイレンは苦虫を噛み潰した顔になる。

 確かに普段の振る舞いを顧みればそう思われても仕方ない。

 けれども、状況は常に見極めているつもりだ。


『ですが、そんなスイレンに助けられているのも事実ですよ』


『お、惚気か?』


 茶化すフウガの声に、いいえとヴィヴィは首を振る。


『事実です。必要な時に必要なことをする。それがスイレンですから』


『やっぱ惚気か』


 おどけてみせるフウガにヴィヴィはくすりと笑い、彼女は自分の強張っていた身体が幾分か解れたのを自覚する。

 その様を見やり、スイレンはフウガにだしに使われたことを悟った。

 けれども、緊張の解れた様子のヴィヴィを見やり、まあいいかと思い直す。

 ふう、と息をひとつ。

 気持ちを切り替え、彼らへ本題を投げかけた。


『――それで、何を深刻そうに話してた?』


 和らいでいた空気に、スイレンの声で再び緊張が走る。


『スイレンにも、視て確認して欲しい』


 フウガに促され、スイレンは彼の手元、結界に囲われた存在を覗き見た。

 と。瞬で息を呑む。


『……これ、は――』


 見開かれた空の瞳が驚愕で揺れる。


『スイレンはどうみます?』


 硬い声音でヴィヴィに問われたスイレンは、少しばかり逡巡してみせるも、結局ははっきりと告げるしかなかった。


『……これは、いるな。この解れ方は自然なものじゃない』


 ヴィヴィとフウガは顔を見合わせる。

 聞くまでもなかった。わかっていたこと。

 けれども、聞かずにはいられなかった。

 それだけ事は深刻で。

 スイレンの顔を見れば、彼もまた肯定の意で頷いた。

 三者の結論は同じだ。


『――これは、人為的なものだ。……人が関わっている、な。でなければ、この解れ方の理由がつかない』


 ざわと不穏に揺れる大樹。


『……人は簡単に過ちを繰り返す』


『人が忘れるには十分な時が流れてる、か……』


 各々がぽつりとこぼす言葉が夜の森に溶ける。

 だが、しかと聞き留めた森がざわめく様は、まるで不安に震えるようで。

 三者の間にも重い沈黙が横たわる。


『……今は』


 ヴィヴィの声にフウガとスイレンの視線が向く。


『今はまだ、波紋を広げるべきではありません』


 凛とした瑠璃の瞳が彼らを据えた。


『そーだな。だが、あいつらには……いや、まだ伏せておこう。あいつらには、まだ覚悟がねぇ』


 がしがしと頭をかき、言い淀みながらもフウガはヴィヴィの言に同意を示す。


『己の行く先も定めてねぇ奴らにゃ、荷が重い』


『ああ、悪戯に騒がせるのも得策ではない』


 フウガを見上げ、スイレンもひとつ頷いた。


『それでは』


 この場での方向が揃ったところで、ヴィヴィの声が飛ぶ。


『フウガは他の四大精霊へ報せを。その後は引き続き、あなたの地にて情報を集め、私達とは常に情報の共有を』


『おう、承知した。情報共有にはばななを使わす』


 フウガに名を呼ばれたばななが、承知したとばかりに、彼の肩口で小さく羽ばたいた。

 ヴィヴィがこくりと頷いた頃を見計らい、スイレンは彼女が声を飛ばすより先に口を開く。


『俺は明朝、パリスの元へ行って来る。人の側へも情報の共有は必要だろう』


 パリスは人の側の渡し役を担う者だ。

 スイレンが渡しの精霊として、精霊と人、両者の行き来を始めた際、始めは隊長の元へ赴くことが多かったのだが、何かと不都合があちら側にあるらしく、人の側にも渡し役を設けることにしたらしい。

 その役目を課せられたのがパリスだ。

 それ以降、先ずは彼を通すのが常となった。

 全く、いつの世も人というのは面倒だとスイレンは常々思う。


『……そう、ですね。いずれは、人の世にて対処させることになるでしょうし、そちらとの連携はスイレンに任せます。よろしいですか?』


『ああ。――ミナモ』


 彼女に応えたのち、スイレンは眷属の名を喚ぶ。

 少しばかりの沈黙が降り積もり始めた頃、騒がしい声がざわめく森に響き渡った。


『はーいっ! みなもちゃん、ただいま参上ですっ!』


 どこから現れたのか。

 水面色の蝶の翅を動かし、くるりとスイレンの周りを一巡したのちに、彼の頭の上へちょこんと座る。


『すーさま、みなもちゃんにお仕事ですか?』


『……そーだ、お仕事だ』


 上半身を倒してスイレンの顔を覗き込むミナモに、彼は渋面をつくる。

 ミナモの新緑色の瞳が期待できらめき、そのきらめきがスイレンには少しばかり煩い。


『ミナモ、今からパリス元に行け』


『あっ! 先触れと呼ばれるあれですね!』


 みなもちゃん、知ってます。

 たいちょーさんのところでよく見かけてます。

 と、上半身を起こしたミナモは気持ちが高揚したのか、ばたばたと足をばたつかせた。

 スイレンの頭の上で。

 小さな足だが、微妙に痛い。


『……まあ、そーだな』


『りょーかいですっ! みなもちゃん、早速いってまいりますっ!』


 びしっと礼の格好を決めたミナモは、スイレンの頭上から飛び立つと、瞬きをする間にもうその姿はなくて。


『…………ああ、頼む』


 というスイレンの言葉は、間に合わなかった。

 疲れたとばかりに彼が嘆息すると、くすと笑う二者の声が空気を振るわせる。


『お前の眷属は、相変わらず賑やけー奴だな』


『それが彼女の美点でもありますよ』


『……あいつはただ、空気を読まないだけだ』


 読めないのでなく、読まない。

 だから質が悪く疲れる。

 やれやれと首を振りながらも、だが、とスイレンは静かに思う。

 ミナモの元気さが、張り詰めていた空気を緩ませた。

 それは彼女が彼女だからこそ、出来たことだろう。

 その点については素直に有り難いと思う。

 まあ、調子にのらせるだけなので、彼女には言ってやらないが。

 ふうとひとつ息を吐き、気持ちを切り替える。

 くるりと二者に背を向けたスイレンは、肩越しに彼らへと振り返り


『――それじゃ、俺はこれで』


 その場を後にする。


『おう』


『ええ、頼みます』


 それぞれの声を背に受け、スイレンは湖畔を降りて湖面を渡って行った。

 さわあと少し落ち着いたような風が吹きわたる。


『んじゃ、おれも行くわ』


 ヴィヴィへと向き直ったフウガは。


『こいつを頼んでよろしいか?』


 結界に囲われ眠る精霊を託す。

 真摯に見やる枯れ草色の瞳を受け止め、ヴィヴィはしかと頷く。

 フウガの手からヴィヴィの元へと眠る精霊が渡れば、彼はにかと笑い、彼の肩口に留まるばななが風へと姿を変えた。

 風が渦巻き、瞬きひとつの間で彼らの姿は掻き消える。

 風の余韻がヴィヴィの真白の体毛をなびかせ、彼女はほおと大樹を仰いで息を吐いた。

 ざわと大樹がざわめく。

 それにひとつ頷いてみせ、ヴィヴィは眠る精霊を伴って湖畔へと歩むと。


『――今はお眠りなさい』


 幼子を寝かしつけるような穏やかな声と共に、眠る精霊をそっと湖面に下ろす。

 ぴちょん。波紋が生じ、瞬く星が揺れた。

 眠る精霊はゆっくりと湖へと沈み、まるで揺り籠のように幼い精霊を水の気がくるんで行く。

 けれども、精霊はその感触に戸惑ったのか、ぐずるように身動いだ。

 そこへ降り落ちる柔らかな声。


『安心なさい。あなたを傷付けるものではありませんから』


 精霊が大人しくなる。

 再び水の気が精霊をくるみ始め、癒やしの波長が精霊へと沁み込み溶けて行く。

 こぽ。精霊の吐息が気泡となりて湖面へと登った。

 それを最後に、精霊の意識はゆっくりと真綿に包まれるように沈んでいく。

 そよと風が吹き渡り、湖面に瞬く星は揺り籠の如く揺れて。

 森はさわさわとさわめき、子守唄を紡ぐ。

 しっとりと夜は更けて行く中、ヴィヴィは夜の空を仰ぐ。

 その瑠璃の瞳は憂いで揺れ動き、彼女の中で、言葉に出来ない不安が渦巻いていた。

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