そして、抱える想いの結び目は


 朝風が吹き込み、朝の空気が部屋を満たす――なんて、爽やかな状況ではなくて。

 ティアは混乱していた。

 何か起きたのか。何を――されているのか。

 見開かれたティアの琥珀色の瞳が、状況を理解しようと細められる碧の瞳を凝視する。

 その碧の瞳は苛立ちげに揺れていた。

 なんで。そう思うも、シシィからは小さく嗤う気配がもれる。

 次いで、彼が瞳を閉じたかと思えば、口付けられたままにそれが深さを増し始めた。


『――――っ』


 その感触にティアの身体は硬直し、瞳は固く閉ざされる。

 どうしたらいいのかわからず、思考は混乱を極めてばかり。

 知らず目尻に涙が滲むのはどうしてか。

 息をしようと喘げば、すぐにその声もシシィに呑まれてしまう。


『……――っ!?』


 流されるままになっていたティアによくわからない感覚が走る。

 何かを割って入って来ようとするそれに、ほぼ本能的に突き飛ばしていた。

 が、力任せに突き飛ばされたシシィは、数歩よろめいただけで、ティアを恨めしそうに見やる。

 ティアも荒く息をつきながらも、負けじと彼を睨みつけ。


『――ど、どういうつもりよっ!』


 その声は激昂ゆえか、それとも戸惑いの誤魔化しか。

 口元を手の甲で抑えながら問いただす。

 その頬は朱に染まっていて。


『ひ、人の成りですると、そそ、その、別の意味合いに、なるんだからっ!』


 絡まる言葉に、彼女の動揺ぶりが窺えた。


『い、犬が懐いた相手に顔を舐めるのとは、また違うんだから。そ、その辺りの、区別はしてもらわないと』


 と。ティアの言葉にシシィの眉がぴくと小さく跳ねる。

 一瞬にして、彼のまとう空気が淀んだ気がした。少なくとも、ティアの目にはそう映った。


『…………へぇ。ルゥにとっては、これは顔を舐めたのと変わらないってこと?』


 底冷えするシシィの声が床を這い、ティアをその場へと縫い留める。

 不穏な空気をまといながら、シシィが一歩彼女へ近付けば、彼女は凍りついたように微動だに出来ない。

 そんなティアの目の前に立ち、シシィは凄む。

 静かなる怒りをたずさえる彼の碧の瞳に、時折別のそれが見え隠れする。

 これは――熱だ。


『――――』


 それをティアは確かに見、息を詰めた。

 もしかして自分は、ずっと勘違いをしていたのではないのだろうか。

 先程とは別の意味で彼女は震える。

 シシィの瞳に見え隠れする熱――その意味がわからない程、幼いつもりはない。

 そんなだって、まさか。


『僕だってずっと“外”に身を置いて来たんだ。さっきのあれの人の世での意味合いも、その間柄の意味も知ってる。知った上であえてしたの。ルゥには“そっち”の感覚が強く残ってると思って――この意味、わかる……? 僕は別にの言葉だけで、ルゥの傍に居るわけじゃないよ?』


 そのまさかに思い至った瞬間、朱に染まっていた頬は、熟れた果実のように深く色付いた。

 その様を確かに見たシシィは。


『……ああ、やっと気付いたって顔だね』


 満足げな笑みの形に口端を吊り上げ、舌がちろと唇をなぞる。

 その動きが先程のことを思い出させ、堪らずティアは目を逸らした。

 彼から色付いた顔を隠すために手を顔に被させたが、それを彼の手に絡め取られてしまう。

 そのまま後方へと追い立てられ、背に壁が触れたかと思えば、絡め取られた手は上方で押さえつけられ、動きを封じられる。

 追い詰められた。本能的な恐怖がぞくと這い上る。


『――……』


 口を引き結び、シシィを見上げるティアの瞳に滲むのは――怯え。

 まるで追い詰められた獲物だ。

 暫しの間ののち、シシィは軽く息をつくと、諦めたように彼女の手を離して距離を取る。


『……今は何もしないよ。約束する。だから、今は僕の話を聞いて欲しいんだけど』


『………………は?』


 警戒の色を強めるティアに目に見えて不満そうに顔を歪めた彼は、暫し沈黙したのちに、やがて肩をすくめて渋々白狼の姿へと転じた。


『わかっ、た。は、何もしない』


『………………、は……?』


『ルゥの返答次第では、その先の保証は出来ない』


 さらりと返された言葉。

 それはもう、もはや脅しではないだろうか。

 そう思ったティアだが、とりあえず大人しく折れることにした。

 これ以上問答を繰り返しても、きっと状況は進まない。


『…………わかった。……話は、聞く』


 白狼のシシィと目線を合わすため、ティアはその場にすとんと座る。

 離れた距離はそのままに。

 シシィも離れた距離はそのままに、その場にお座りして話を続けた。


『先に言っておくよ。僕はルゥを手放す気はないから』


『……っで、でもっ! ず、ずっと一緒なんて無理じゃんっ!』


 何度もその事実を突き付けないで欲しい。

 膝上で握る手に力が入り、その度にティアの目頭が熱を持つ。

 けれども、決して泣きはしない。

 泣くのはずるいから。ここで泣くのは、本当にずるいから。


『――そう、それ。僕が気に入らないの、そこなんだよ』


 ふいにシシィの碧の瞳が半目になった。

 そこに揺れ動くのは不機嫌の色。


『なんでそこで終わりになってるの? なんでその先があるって思ってくれないの?』


『……え?』


ってルゥは言うけどさ、僕はまだ、って思い返せる程の時を持ってないよ。まだなの』


『…………』


『……僕達は確かに幼くはないけど。でも、精霊としては若いって呼ぶには、まだ幼いよ?』


 見開かれる琥珀色の瞳が、真っ直ぐシシィを据える。


『言葉としては矛盾してるかもしれないけど、僕の言ってること伝わってるかな?』


 こくり。ティアがゆっくりと頷き、俯いた。

 手を膝上で重ね合わせる。

 自分の感覚のずれを突き付けられ、意識する。

 確かに自分はそこで終わりにしていた。

 その先はないものだと無意識に決めていて。

 だって。“彼女”の心残りの行く末を確かめるということは、それは人が人として終えるまでを見守って行くということで。

 人の一人分の時間を過ごしたその後は――その先があるなんて、思わなかった。思ってなかった。


『…………』


 口を引き結び、噛む。

 改めて痛感する。己は未だ、精霊としては未完成だ。

 だが、感覚などどうやって養えばいいのか。

 それがわからなくて途方に暮れる。

 一気に寄る辺を無くした心もとなさは、まるで迷子のようだ。

 膝上で重ね合わせた手を、きゅっと握る。


『――そこで僕からの提案なんだけどさ』


 そこでシシィの声が落ちる。

 その声は何か引力を伴っていて、吸い寄せられるようにティアは顔を上げた。

 シシィと目が合い、彼の目元が和らいだ。


『僕の真名を受け取ってよ。……それをルゥの寄る辺にして』


 はっと見開く琥珀色の瞳。もう幾度目がわからない。


『そ、それって……』


 じわじわとその意味を解し、冷め始めていたティアの頬に熱が灯って行く。

 そんなティアを満足そうに眺め、シシィはふわりと微笑む。


『うん、そう。僕の番になってよ、ルゥ』


 真名は魂に与えられた名。

 それを知られてしまえば、魂を縛り、意のままに操ることも出来てしまう。

 だから、精霊は真名を隠す。

 精霊達は己が外へと与える影響力を知っているから。

 ――その真名を、彼は受け取れという。

 それは、あなたになら縛られてもいい。

 それは、あなたなら悪しき方へは扱わない。

 そこに信があるから、受け取って。

 精霊同士が己の真名を与え、受け取る。

 それは、つまり。

 感極まったゆえか、衝撃の強さゆえか、言葉の継げないティアに。


『つまり、人の世でいうウミボーズ。僕だって人の世のこと、少しは勉強してるもんっ』


『……それは東の国に伝わる伝承。それを言うならプロポーズ』


 シシィが得意げに語って見せれば、一気に冷めた目を向ける彼女に容赦なく突っ込まれた。


『…………少しはって、言ったもん』


 シシィの両の耳が倒れ、ばつの悪そうに顔を背ける。

 そんな彼の耳に、くすりとティアの忍び笑いが届き、拗ねた気持ちが彼の胸中に顔を覗かせ、むくれた顔をさらに背けた。

 と。


『――――っ』


 吐息が、こぼれた。

 ふいに自分とは違うぬくもりを感じ、シシィは身体を硬直させる。

 彼の懐に飛び込んだのは、鳥の姿へと転じたティアで。

 柔らかなシシィの体毛に、身体ごと埋めるようにして潜り込む。


『――私にちょうだい、シシィの真名』


 鳥が夜明けに囀るような声。

 それが番になってと言った、シシィへの答えだった。

 すりと身を寄せるティアに、シシィは恨めしげに目を据わらせ唸る。

 今日は何もしないと言った、少し前の自分を胸中で罵る。


『ゔゔん』


『シシィ……?』


 シシィからもれた変な声。

 それを訝しんだティアが体毛の隙間から彼を見上げた。

 それを据わった碧の瞳が見下ろし、そこに込められた恨めしげな色に彼女は首を傾げる。


『シシィ?』


『…………………………なんで、そっちの姿なのさ』


『は?』


『――――もういい』


 ティアにシシィの想いは伝わらなかった。

 重く深い息を吐き出したあと、シシィが今度は人の姿へと転じる。

 あぐらをかく彼の膝上に乗るかたちになったティアが、困惑げに何度も首を傾げる。

 それに再度息を――今度は長く――吐き、彼女を肩へと移動させた。


『シシィ、本当にどうしたの?』


『…………今日はルゥ、そっちの姿で居てね。僕はこっちで居るから』


『なんで』


『なんでも何も、お互いに異なる姿で居た方が、いろいろとやり辛くなるでしょ。だから、その方が僕はいいの』


『だからなんでっ!』


『………………今日はもう、何もしないって言ったもん。……言っちゃったもん』


 不満そうで、多分に不機嫌が含まれた声。


『だから、それはどういう……意味――』


 シシィの言葉の意味をじわりと徐々に解した時、ティアは反射的に逃げようと飛び上がった。


『でも、逃げるのはなし』


 が、呆気なくシシィの腕に捕まって。


『うそん』


 妙な声をもらしながら、そのままぽすりと彼の膝上に収められ、緊張と言葉に出来ない何かで身体は硬直する。

 思い出すのは、先程の彼の唇のかんしょ――そこで、ふつりと思考を停止した。


『――私は今、無になるわ』


『ルゥ?』


 訝ったシシィが上体を屈め顔を覗き込む。

 とくんと高鳴りそうな鼓動をティアは無によって抑え込みながら。


『――――』


 ふいに彼女の琥珀色の瞳が覗き込むシシィを見やった。

 落ち着いた瞳が彼をじいと見つめ、今まで視たことのないものを映す。

 シシィの奥、その奥底を――視やった。


『《流りて廻る白狼シシィ》』


 視えたままに、爪弾くように声に乗せる。

 あ、視えた。ティアは予感する。これは――と。

 彼女の淡黄色の羽毛。そこに散らばる白が広がりを見せ始める。

 精霊の白が広がる、その意味することは――。

 碧の瞳が震え、その様を確かに映した。

 ほ。シシィの吐息が、朝焼けの気配で満ちる部屋にゆっくりと溶ける。

 そんな静かな空気に響いた鼓動が。


 ――とくん。


 ひとつ、鳴った。否、重なった。

 遠くからざざと波音を朝風が運ぶ。

 かちりと何かが噛み合った感覚に、ティアがちらとシシィを見やると、彼もまた彼女を見やっていた。

 それだけで互いに伝わった。

 今、互いの存在が互いに溶け込んだのだと。


『……ねぇ、今のわかった?』


 へへっと小さくはしゃぐシシィの声。

 碧の瞳がきらめく。


『これで、僕はルゥのものだね』


 次いで、ささやくように紡がれた彼の言葉に、ティアの奥底でうずくように何かが震えた。

 そのうずきはくすぐったく、けれども不快ではなくて、心地よい。

 それでもやはり、気恥ずかしさは伴っていて思わず声を上げる。


『……そ、そういうのは、いちいち言葉にしなくていいからっ!』


『でも、ルゥには言葉にして伝えなくちゃ。またひとりで結論出されるの嫌だもーん』


 うぐと言葉に詰まり、反論のそれを探すもなかった。

 琥珀色の瞳が悔しげに揺れれば、シシィは可笑しそうにくつくつと喉奥で笑う。

 外からは、起き始めた海鳥の声が聞こえた。

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