抱える想いは絡みてほつれ
精霊の隠れ家。その二階の一室。
空は白らみ始め、部屋を満たす闇が明るさを帯びて薄闇になった時分。
その中で何かがうごめいた。
白を帯びた淡黄色の鳥。
彼女は自身を包むように身体を丸めて眠る白狼を起こさぬよう、そっと彼から抜け出す。
が、突如くんっと後ろへ引かれ、ティアは前へとつんのめた。
振り返れば、起きていたらしい白狼が、ティアの尾羽根を咥えて引きとめていた。
『どこに行くの』
薄闇で瞬く碧の瞳が剣呑に揺れ、シシィが発する声からは、行かせまいとする強い意志が垣間見えた。
『……ちょっと、窓から外を覗くだけよ』
『…………本当に?』
『ええ。だから、離して』
ティアが言い切るその声に、少しばかりの剣がはらむ。
しばし逡巡したのち、シシィは渋々従う。
ふうと嘆息を落としたティアは、くるりとシシィに背を向け羽ばたいた。
ふわりと身体が浮き上がり、留まった先は窓枠。
器用に嘴で鍵を開け、窓を押し開けた。
ふわと舞い上がった埃は、顔を出し始めた朝陽を弾くときらときらめく。
ティアは目を閉じ、暁風を身体全体で感じて、ふ、と息をつく。
その様を、少し離れたところからシシィが眺め、のそりと彼は身体を起こした。
その高さは大人の腰ほどで、彼が後ろ足で立ち上がれば、優に大人の背丈は超すだろう。
のっそと歩き、シシィも窓辺に寄ると、その枠に顎を乗せて目を閉じる。
さわと暁風が彼の純白の毛並みも撫であげ、その心地良さにふすうと息をもらす。
ちらと横目でティアがそんなシシィの様子を窺う。
『…………』
翼を使ってひとつ跳躍。
彼の頭に着地したティアは、もぞと動き、落ち着ける位置を見つけて自身の羽根に身体を埋めた。
再び目を閉じて暁風を感じる。
今日は風がよく吹く。
風が彼女の耳元で何事かをささやくのだが、彼女はそれらを全て意識から弾いていた。
だがら、風が何をささやいているのかは知らない。
必要な情報は取捨選択する、というやつだ。
今のティアは何も情報を欲してはいないし、取り入れたくもなくて。
そう、今はゆっくりとしたかったのだ。
もう、心は決めたから。
琥珀色の瞳が開かれる。
そして、彼女もまた風にささやいた。
『――私が、ティアとしてやらなくちゃいけないことはわかってる。忘れてないわ。……ただ、今が心地よくて、長居をしてしまっただけ。だから、少しだけ静かにしていてちょうだい――お願い』
最後の懇願するような一言に風がふつりと押し黙ると、しんっと静寂の音が響く。
突然静まった風に、シシィの瞳は不思議そうに瞬いた。
『もしかしたら、ずっと風は、私に訴えていたのかもしれないわね』
『ルゥ……?』
『やらなくちゃいけないことを忘れないでって。……ずっとばななが傍に居てくれてたから、きっとあの子が制限してくれてたのね』
『ルゥ』
自嘲をはらむティアの言葉に、シシィは彼女の名を呼んで遮ろうとするも、その言葉は止まらない。
『おじさんがまだ帰ってないから、ばななも傍には居ないし。頃合い的には丁度よかったのよ』
ばななはフウガの眷属であり、ティア付きの存在で、ばななの優先はフウガとティアである。
けれども、そのどちらかとなれば、それはやはりフウガとなる。
だから、精霊界へ向かった彼に、当然のようにばななは一緒に行ってしまった。
別にそれを咎める気はないが、少し間が悪かった。
その頃合いを計り、ばななの不在を知った風がささやく。
テディ――セオドアがこの街に居るよ、と。
その手始めとして、昨日セオドアの気配を運んできたのだ。
まさか、と思った。まさか、同じ街に居たなんて。
『……私、ぬるま湯に浸かった状態だったもの』
『――ルゥ』
咎めるようにシシィが強く名を呼ぶが、ティアは構うことなく続ける。
『きっと、喝を入れたかったのよ。風は“彼女”のことを好きだったから』
元から風に好かれる存在だったのだろう“ルイ”。
どうしてなのか、何をそんなに気に入ったのかはわからない。
けれども、時折居るのだ。特定の性質に好かれる存在が。
“ルイ”の場合は風。ある存在は森や水だったりもする。
何にそんなに惹かれるのか。ティアにはさっぱりわからない。
“ルイ”は別段、魔法が扱えたわけでもなく、風と触れ合うことは出来なかったのに。
特別な力を有していたわけでもなかったのに。
『…………そうなのよね。“彼女”と同じそれを持つから、私は風に好かれているだけで、私が好かれているわけじゃない。――なんてね』
なんてね。
と、茶化すように言おうとして。
『ルゥっ!』
言葉を遮り、シシィの声が鋭く飛んだかと思えば、一瞬だけ強く風も吹き付け唸る。
けれども、ティアが吹き飛ばないようにと加減が感じられた。
『――わかってるわ』
それは誰に対しての呟きか。
自身の言葉への肯定か。はたまた、シシィや風への返答か。
ぱたと羽ばたいたティアは、シシィの頭の上から離れて飛び上がる。
床に着地する頃には彼女の姿は人の姿に転じており、こつ、と靴音が響いた。
『私をティアとして見てくれている存在も、ちゃんとわかってる』
その想いはきちんと自身の根底に在って。
だから、自分はもう大丈夫だと思えた。
シシィを真っ直ぐ見据え、笑う。
『私が何を思っているのか。それを知って欲しくて、独り言を呟いてみただけ』
茶目っ気に笑うティアに、シシィは黙って彼女を見つめる。
それは続きを促しているようで、話の本題はここから先だと見抜かれている気もして、ティアは気恥ずかしさを覚えた。
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
『……この街にね、“彼女”の心残りが在るの』
『それはあの時言っていた、ルゥのやらなくちゃいけないこと?』
ぱち、と琥珀色の瞳が瞬く。
『あの時……?』
シシィの言葉に違和感を感じ、ティアは思わず呟き返す。
それをシシィは忘れと受け取り、あの時のだよ、と思い出させるように言葉を繋ぐ。
『ほら、僕とルゥが初めて“外”に出ちゃって、精霊界に帰る時の話』
窓から風がそよぎ、ティアの片目を隠す前髪を揺らせば、縦一文字の傷痕がちらと見えた。
『……ああ、あの頃の話……』
歯切れ悪く呟く。
先程感じた違和感の正体は、この感覚のずれか。
そこでふいにシシィが首をひねって。
『…………あの、頃……ねぇ……。もしかして、ルゥってさ――』
目を細めたシシィが声を上げる。
何かに気付いたような響きを持ったそれだったが、今は話の方が先だと気にせず彼女は話を続けた。
『私、その“彼女”の心残りに探さなきゃ。探して、確かめなきゃ』
『………………確かめるって、何をさ』
たっぷりと間を持ったぶっきらぼうなシシィの声に、ぱちくりとティアの瞳が瞬いた。
『何を拗ねてるのよ』
『……拗ねてない。呆れてるの』
『は?』
『何かさ。僕とルゥとの間に、微妙なずれがある気がするだけ』
『ずれ……?』
怪訝な顔をするティアに、ほら、わかってないじゃん、と肩をすくめる雰囲気をまとったシシィ。
『……まあ、いいや。とりあえず続けてよ。――で? 何を確かめるって?』
前足をひょいと動かし、投げやりに続きを促すシシィ。
ティアは釈然としない面持ちでしばらく黙したのち、渋々と再び口を開く。
『……だから、その行く末を』
『行く末?』
こくりとひとつ頷き、続ける。
『私は見届けなくちゃ。……“彼女”が途中でその手を離しちゃったから、それを受け取った存在として――』
そこで、だから、と一度言葉を切った。
『……――』
切ったのだけれども。
『――――っ』
いざ言葉にしようとすると、喉で言葉が絡まって言い出せない。
どうして。ちゃんと決めたのに。決めたはずなのに。
唇がわなないて、息が震える。
そこへ、窓から風が吹き込んだ。
まるで撫でられるような心地で、ほ、と息をもらす。
風が耳元で小さく鳴いた。
励ますようなそれに身体の力が抜けて、その言葉は、ティアからぽろりと自然にこぼれ出た。
『――だから、シシィはシシィのやらなくちゃいけないことをして。……私はもう、大丈夫だから』
ふ。息を吐く。
言えた。言い切った。よかった。
ほおと安堵からゆっくり息を吐き出し、胸をなでおろす。
心が少しだけ軽くなった気がするも、くすぶる少しの寂しさが鈍く重く凝る。
これでもう、彼は傍から離れてしまう。
つんと一瞬目頭が熱くなった気がして、ティアは俯いた。
泣くのはだめだ。泣くのはずるいから。
『――――』
静寂を震わすそれは、誰の息遣いか。はたまた風の動きか。
降り積もる沈黙。
時折、暇を持て余したかのように風がカーテンをなびかせる。
そこに、突如深い息が落とされた。
反射的にティアが顔を上げると、碧の瞳が彼女をしかと捉えていて、その瞳の強さにびくと身体を跳ねさせた。
きらめく碧の瞳に滲むのは――苛立ち。
シシィが怒っている――? 何に。
琥珀色の瞳が困惑で瞬く。
その様子に彼女の胸中を察したシシィが、もう一度深く息を落とし、のそりと立ち上がった。
ティアの前まで歩み、その場にどっしりと座って見上げれば、当の彼女は戸惑ったような色を滲ませて。
『……お、怒ってる……?』
おそるおそる問いかける。
『別に怒ってはないよ。ただ、気に入らなかっただけ』
言葉は否定しているも、その声音には不機嫌や苛立ちがはらんでいて。
やはり、シシィの碧の瞳にも苛立ちはくすぶっており、ティアの戸惑いは深まるばかり。
彼の機嫌が悪いのだけは、ティアにもわかった。
『――ルゥ』
シシィに呼ばれ、ティアはひくりと小さく息を呑む。
油断をすれば、すぐに呑まれるような気迫をはらんだ瞳が、きろりとティアを睨んだ。
『なんで僕の話は聞いてくれないの。なんでひとりで結論だしちゃうの。なんで――』
言葉の羅列。
それがふいに途切れ、気迫のはらんだ瞳が陰った。
『――なんで、僕の傍から簡単に離れようとするのさっ』
拗ねたような声が響き、感情に任せた言葉は勢いを増して行く。
『あの時言ったよね? 僕はルゥの傍に居るから、ルゥも傍に居てってっ!』
そして。そこに滲むのは、拗ねたからこその苛立ち。
彼女が簡単に自分の傍から離れようとしていたのが気に入らなくて。
『それなのに、ルゥは――!』
『――っ! 簡単じゃなかったもんっ!!』
が、そんなシシィの声にかぶさる悲鳴にも似た声。
その声が室内に響き渡り、きんと音の余韻を残した。
はっとしたようにシシィはティアを見上げ、その見上げた顔に二の句が継げなくなってしまう。
『……簡単じゃ、なかったもん』
先程の悲鳴から一転。
か細い声が彼女からもれ、口を引き結ぶ様は何かを堪える様子で。
そんなティアは、泣き出す一歩手前にも見えた。
『私もシシィも、もう、幼くないんだもん。……言えるわけないじゃない』
消え入りそうな声に、ぐっと、ティアは服の裾を握りこむ。
『――傍に居て、なんて簡単に言えないよ……。私にもあなたにも、やらなくちゃいけないことがあるんだから。…………もう、あの頃とは違うの』
それなのに、簡単にとか言わないで。
ティアが責めるようにシシィを見やれば、彼は嘆息をひとつ落として白狼から人の姿へと転じる。
そんな彼の瞳――その瞳が、据わった。
『……ルゥがルゥなりに一生懸命考えてたのはわかったし、僕も感情任せに言って、ごめん。……でも、僕が気に入らないって言ったのは――』
ふいにシシィの腕が伸ばされて。
『――ふぃふぃー……!?』
がしとティアの頬を摘んだ。
頬を摘まれたゆえに、うまく言葉を発せない。
『なんでひとりで結論だしちゃうのってことで』
つまり、とシシィの顔がティアの眼前にまで迫る。
『つまり、なんで僕とふたりで結論を出そうとは思わなかったか、ってことだよ?』
『あ……』
『その顔は、思い付きもしなかったって顔だね?』
シシィに頬を摘まれたまま、ティアの琥珀色の瞳が泳ぐ。
ようやく彼が怒っている理由に思い至ったティアだった。
彼女のその様子に、シシィの不機嫌さは増し、頬を摘む彼の手にも力が増す。
『いひゃいっ! いひゃいよ、ふぃふぃーっ!』
『当たり前じゃん。痛くしてるんだから』
さらりと返すシシィをティアは軽く睨むも、彼に動じた様子はなくて。
さらに彼は、悪戯を思いついたかのように口端をつりあげる。
『僕、思うんだよね』
にやり、楽しげに笑う。否。これは愉しげだ。
『……ふ、ふぃふぃー……ひゃん……?』
反射的に、シシィさん、と呼んでしまうような、そんな愉しげな笑みだった。
『僕とルゥに感覚のずれがあることも気になってたけど』
『はひ……?』
『ルゥに“彼女”の感覚が残ってるの、僕も忘れてたけど』
シシィがにこりと笑った。
あ、怒ってる。これは、本気で怒ってる。
ティアがひくりと息を呑む。
先程のとは違う意味合いで、ひくりと息を呑む。
これは、そう。あれだ。
まるで、獣の前に飛び出してしまった獲物の心地。
『僕も僕でさ。いろいろ考えてたんだよねー、これでも。でも、まぁいいかな。――そもそも、ルゥは僕のものだったよなって、思ったんだよね』
『は……?』
『だって、ルゥは僕に真名を渡してくれたんだもん。だから、ルゥは僕のだよね?』
ティアの瞳が瞬く。
確かにシシィはティアの真名を知っている。
けれども、あれは渡したのではなく、勝手に視られたというか、視られてしまったというか。
決して、彼に自らの意志で渡したわけではないのだけれども。
『ね、そうだよね――ルゥ?』
どうしてここで、名を呼ぶのか。
そんな圧で迫られたら。
『う、うん……』
頷いてしまうではないか。反射的に。
『ふふっ、よかった』
嘘だ。そんな軽く言い放つ顔じゃない。
嬉しそうに笑うシシィに、ティアの背にはなぜか冷や汗がふきだす。
そして、ふいに顔へ影が落ちたかと思えば。
『――――っ』
ティアはシシィに口付けられていた。
風がカーテンを大きく煽り、夜明けを告げる。
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