はじまり告げるその声を


 知らないところで、知らないことが起こり始めている。

 けれども、それを聞かされないということは、自分達にはまだ、それを知る必要がないことなのだろうか。

 未だ、己の道というものを見いだせていない自分達には――。




   ◇   ◆   ◇




 ――ちあ、話があるんだけど


 始まりは、そんなシシィの声だった。




   ◇   ◆   ◇




 海街の中心にある円形の広場。

 さらにその中央に配された噴水に、ティアとシシィは並んで腰掛けていた。

 互いに落ち着かない面持ちで、気が付けば時間帯は昼下がり、いつの間にか広場は賑わいでいた。

 子供達のきゃっきゃっとはしゃぐ声に、婦人達の談笑の声。

 そこに楽師達による楽器の音色がすれば、賑わう声はぴたと静まった。

 広場を通りかかった人々ですら、その足を止め耳を傾ける。

 噴水の水音までもが楽器の音色に絡み始め、シシィがちゃぷと噴水の水へと手をつけた。


「……水も唄ってる」


 その呟きを聞き留めたティアもふと顔を上げると、風が彼女の髪をさらと撫でて行く。

 それはティアの髪だけでなく、隣のシシィや広場の人々の髪でも遊んで行く。


「風も踊ってるわ」


 互いに顔を見合わせ、ふふっと静かに笑う。


「場所を変えようか」


「そうね」


 そっと立ち上がり、静かにその場をあとにする。

 素敵な演奏会に余計な音を混ぜたくなかった。




   *




 こちらも人で賑わう市場。

 港の程近くということで、船乗りや観光客に向けた露店も多い。

 遠くから波音に混ざり、荷の積み下ろす声が際立つ。港に商船でも着いたのかもしれない。

 ティアとシシィは市場の端に寄り、外壁に背を預けながら、人の流れをぼんやりと眺めていた。

 森近くにあったあの街では、白の髪色は人の興味を引いたが、この海街では気をとめる者はいない。

 人の世にも外国の血で白の髪色を持つ人はいる。

 だが、この海街は港街でもあるのだ。

 様々な人々が歩く街であり、世界から物が流れる街。

 だから、誰も気にとめない。

 ティアとシシィは人の流れを眺めやるだけで、話をするために場所を変えたはずなのに、シシィはその話を切り出せずにいる。

 ティアもティアで話を促すことも出来ず、露店で買った揚げ菓子を摘む。

 彼女の手にある包みの中には、砂糖を遠慮なくまぶした、スティック状の揚げ菓子が数本。

 それを手持ち無沙汰に一口かじる。

 瞬。ティアは僅かに顔をしかめた。

 これは甘すぎないだろうか。

 ちょっと失敗したかもしれないと、手元の包みを覗き見た。

 そこへふいに。


「ちあ、話があるんだけど」


 シシィの声がティアへ降り落ちる。

 やっとか。待ちくたびれた心境でティアが顔を上げれば、シシィの碧の瞳と目が合った。

 彼がこちらを見て声をかけたのだから、彼と目が合うのは当たり前だ。

 なのに、どうしてうろたえるのか。

 うろたえているのに、彼から目が逸らせない。


「――っ」


 息を詰まらせてしまったのは、碧の瞳が思いの外に真剣な色を宿していたから。

 今からシシィは真剣な話をしようとしている。

 瞬。どくんと鼓動が脈打った。

 精霊の人の成りは、所詮見せかけのものなのに。

 なぜ鼓動はそういった場面できちんと、それらしく脈打つのか。

 皮肉げな気持ちが胸中に渦巻く中、過ぎる気持ちがある。

 幼い頃に交わした拙い約束。

 それが今の彼を縛っているのでは、と。

 あれからずっと、彼は自分を選び続けてくれている。

 だから、自分は言わなければならないのだ。

 もう、大丈夫だよ。あの娘を探しに言ってもいいんだよ。と。

 そう思うのに。心が決まらない。嫌だと駄々をこねる。

 今がとても心地が良いから――。


「……ずっと前からね。ちあに伝えなくちゃって、思ってたことがあるんだ」


 ティアが揺れ惑う中、シシィが言葉を続ける。

 もしかして彼は、今の関係を終わらせようとしているのか。

 ティアの琥珀色の瞳が震えた。

 待って。嫌だ。聞きたくない。

 まだ、心はちっとも決めていない。


「その上で、ちあに受け取って欲しいも――」


 だから、待って。

 むぐっ、と。シシィの言葉はそこで遮られた。――物理的に。


「あ……」


 ティアが声をもらし、我に返る。

 話を聞きたくなくて、咄嗟に手にしていた食べかけの揚げ菓子を、彼の口へ突っ込んでしまった。

 呆然とその様を見やる。

 一方のシシィは口内に広がる砂糖に、甘い、と声をもらし、反射的に突っ込まれた揚げ菓子を咀嚼する。

 咀嚼しながら、美味しい、と彼がくちごもれば。


「じ、じゃあ、この残り全部あげるっ……!」


 ティアは包みに入った揚げ菓子を全てシシィへと押し付けた。

 それをやはり反射的に受け取ってしまった彼は、戸惑うように包みとティアを交互に見比べる。


「……でもこれ、ちあが食べたくて買ったものだよね?」


「それ、私には甘すぎたの。シシィが美味しいって言うなら、あなたが食べて」


「うーん? ……ちあがそれでいいって言うなら、僕が食べるけどさ……」


「じゃあ食べてっ!」


 強く言い切ると、ティアはふいっとそっぽを向いてしまった。

 しばし、そんな彼女を物言いたげに見やっていたシシィだが、やがて小さく肩をすくめると、外壁にもたれて包みから揚げ菓子を取り出す。

 砂糖がまぶされたそれは、陽をはじいてきらきらときらめいていた。

 あむと口で咥えながら咀嚼する。

 ティアに行儀が悪いと小言をもらうかなと、少し期待しながら横目で彼女を見やってみるも。


「…………」


 当の彼女は俯き視線を落としたままで、こちらを見向きともしない。

 はあと胸中でため息をつきながら、シシィは諦めて、市場の人の流れをぼんやりと眺めることにした。

 口に広がる甘さは確かに甘すぎるのかもしれないが、別段悪くはないなとシシィは思う。イケるという奴だ。

 彼女に伝えたいことがあるのに。

 うまくいかないものだ。

 どこか彼女を遠くに感じる。感じてしまう。

 もう、間違えるのは嫌だから。

 話をして、話を聞く。たったそれだけなのに。

 気持ちが逸って、もどかしい。

 こつんと後頭部を外壁に当て、空を仰ぐ。

 今日は何だか、澄み渡る青空が腹立たしかった。

 咀嚼したものを飲み込んで、唇についた砂糖を形に沿って舌で舐めとる。

 ついでにと、指先についた砂糖も舌を絡めて舐めとった。

 そして、次の揚げ菓子をと包みの中へ手を伸ばす。

 その様を、隣の琥珀色の瞳が、食い入るように横目で見やっていた。


「――……」


 シシィは気付かないが、ティアが口を引き結んで見入っていた。むぐと黙り込むように。

 な、なんか。シシィのくせに、シシィのくせに――。

 頬が朱に染まり、熱が灯る。

 ふいっとまた顔を逸し、妙に高鳴る胸をなだめにかかる。

 あてられた。瞬時にそう思った。

 何だか妙に、シシィのあれが色っぽく見えてしまって、勝手に胸が高鳴った。

 それに焦って。焦ってしまったことにまた焦って。


「――――」


 ちらり。また彼を見やって、その横顔を盗み見て。

 その横顔がきらきらしている――その事実に気付いて、慌てて顔を背けた。

 やはり彼に対する気持ちは、それなりに育ってきてしまっている。

 そのことを改めて突きつけられて、熱していた気持ちが一気に冷えた。

 そして、残るのは残り香のような――寂しさ。

 ティアの口元が微かに歪み、琥珀色の瞳が寂しげに揺れる。

 は今のままでいいと思った。

 気持ちの振れ幅が変わったばかりだから、と。

 でも、今は――?

 今ではその気持ちの振れ幅は、さらに大きくなってしまっている。

 だから、言えないのだ。

 あの娘を探していいよ。なんて。

 少なくとも、今のシシィはティアを選んでくれている。

 例え、幼い頃の拙い約束のままに、ずるずるときてしまっているのだとしても、彼は自分を選んでくれている。


「……ははっ」


 思わず乾いた笑いがもれた。

 随分と醜い感情だ、と。

 ずるずると引き伸ばしていると自覚しながらも、そのままがいいと望んで言い出せない。

 要するに、ずっと居て欲しいのだ。傍に、ずっと。

 いつかは自分だって、“ルイ”との約束を果たさなければならないのに。

 彼だってあの娘との約束があるのに。

 いつまでもこのままではいられない。

 それは、ちゃんとわかってる。

 なのに。今は今はと伸ばし、まだだまだだと誤魔化す。

 こんなこと、気付きたくはなかった。

 けれども、同時にティアは思ってしまうのだ。


「――だって、私は“ルイ”じゃなくて、ティアだもの」


 受け取った“ルイ”の想いよりも、己のティアとしての想いが膨れてしまっても、仕方ないではないか。

 ある種の開き直りも、時には必要だ。


「――――」


 と。そう思ったのが、いけなかったのだろうか。

 風が強く吹き付けた。

 その中にはらむ色は――苛立ち。

 風が苛立っている。どうしてとティアが訝ると、次いで風は気配を運んで来る。


「――――っ」


 息が、詰まった。

 その気配に琥珀色の瞳が見開かれ、弾かれたように顔を上げた。


 ――テディ……!


 歓喜に似た叫びが、ティアの中で木霊する。

 次いで想いが溢れ出、懐かしさと嬉しさに胸を焦がした。

 ティアは直感する。これは己の想いではない、と。

 己の想いではないそれが溢れ、己という存在が呑まれそうな恐怖に駆られる。

 手が震え、唇はわななく。

 呼吸も乱れ、息苦しくて喘ぐように息をつく。

 ねっとりと仄暗い何かが絡みつくような、それは警告のようだった。

 “ルイ”という存在を忘れないで、と。


「…………っ」


 ティアは思い出す。

 そもそもが、その境界がひどく曖昧だったのだと。

 だから、シシィとの関係を見出みいだす前に、やるべきことがあったのだ。

 きちんと向き合うために、やらなくちゃいけないことが。

 の幼い自分が言っていたではないか。

 やらなくちゃいけないことがある、と。

 それはもう、目の前にまで迫っていて。

 ああ。ティアは固く目をつむる。

 このぬるま湯のような心地を、終わらせる時が来たのだと――悟った。

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