精霊の隠れ家


 夜。

 長年の人の往来により、その円形広場の石畳は磨き上げられ、回廊を照らす街灯の橙の色が反射する。

 そのうちのひとつに、“精霊の隠れ家”の灯りもあった。


 ドアを押し開けばカウンター席が目に入り、丸椅子が三つ並ぶ。

 左手にはテーブル席が二つ。

 こじんまりとした印象だが、窓に面したテーブル席からは、広場が一望出来ると日中では割と人気席だ。

 しかし、今は夜も深まる頃合い。

 遠くから波音届く、静かなそれが横たわる。

 そんな室内を、ゆらゆらと揺らめくランタンの灯りが穏やかに照らす。

 きゅっきゅっと響く音は、少年がカウンター奥でカップを布で磨く音。

 布を一巡に巻いた少年の頭は、巷で洒落だと話題のターバン巻き。

 布の隙間から銀灰色の髪の束が幾つか飛び出ているが、その様すら少年は洒落だと思っている。

 こと、と磨いたカップを棚に戻し、少年が次のカップへと手を伸ばした――瞬だった。


『おじさんっ!』


 静けさを裂く鋭い声が誰かを呼ぶ。

 次いで、ごたと多数の賑やかな物音。気配。

 その中を、ヂ、と短な音が――否、声が少年から漏れ出て、するりと紛れ込む。

 一瞬のうちに少年の姿が掻き消え、彼が手にしようとしていたカップは支えを失い降下する。

 が、床に叩きつけられる前に風が走りカップの衝撃を殺した。


《じる、かっぷおとす、だめ》


 咎める声、風が鳴く。

 割れることなく床に落ちたカップ。

 その影に銀灰色がちらと見えた。


「あれは不可抗力……」


 おずと姿を現したの銀灰色に包まれた、手の平程のねずみ。頭はターバン巻き。

 何かを探るように、ねずみの髭が忙しなく動く。

 ねずみの隣で風が渦巻けば、真白の小鳥が姿を見せた。


「かっぷ、われる、こまる」


 なおも咎めようと詰め寄る真白の小鳥に、少し怯みながらねずみは繰り返す。


「だから、あれは不可抗力」


 誰しも予期せぬ出来事には動じるもの。

 それが少し過敏になるのはねずみの性だ、許して。

 懇願する思いで真白の小鳥を見返す。


「われる、ふうが、こまる」


 けれども、この真白の小鳥は折れる気はないらしくて、ねずみも主張を譲る気はないので声を張り上げ――。


「だから、あれは不可こ――」


 ――ようとしたところで、ひとつの声が割って入った。


『ねえ、ジル。おじさんは?』


 カウンター越しに身を乗り出し、顔を覗かせたティアの声が降る。

 その声にねずみ――ジルと、真白の小鳥――ばななが振り仰いだ。


『ねえ、ジル』


 答えを急かすティアの声に焦れが滲むも、ジルは眉間にしわを寄せる。

 紡がれた言葉が、言葉としての意味を伴わない。音としか認識が出来ない。

 彼女の声から焦りは感じる。

 ゆえに、ジルには解することの出来ない言葉のままなのか。

 が、じっと自身を捉えるティアの瞳に剣が増した気さえし、気圧されたジルは慌てて言葉を紡ぐ。

 まるで猛禽に獲物として狙われた心地だ。


「……お、俺は精霊じゃねぇからお前らの言葉はわかんねぇけど、フウガの奴なら部屋でぐーすか寝てんぞ」


 瞬間。ジルは冷や汗が噴き出す感覚に襲われた。

 もちろん、気のせいなのはわかっている。

 が。目に見えて、ティアのまとう空気が冷えたのはわかった。

 ひえぃ。恐る声が情けなくもれ、うまく息が吸えない。


「わかった。ありがと」


 そんな彼の様子に構うことなく、ティアはそれだけ言い置くと、奥へと消えて行った。

 おそらく、階上でぐーすかと呑気に寝ているフウガを起こしに行ったのだろう。

 ティアが居なくなったことで、周囲の空気が軽くなった気がする。

 身構えていた身体から、ふっと力が抜けた。

 気持ちを切り替えるためにぶると身を震わせ、ジルは人の姿へと変じさせる。

 立ち上がりついでに、先程落としかけたカップを拾い上げるのも忘れない。

 決して、下からのばななの鋭い視線で、カップの存在を思い出したからではない。


「……洗い直しだなあ」


 ぼやき。のちに、嘆息。

 カップをカウンターに置き、だらしなくそこへ突っ伏す。

 そんなジルへ、今度は申し訳無さそうな声が落ちた。


「……驚かせてごめんね。僕達も急いでいたから」


 カウンター席の丸椅子を引いて座ったのはシシィ。

 ぱたた、小さな羽ばたきの音。ばなながカウンター上へと上がる。


「かっぷわれる、ふうが、こまる。じる、きをつけて」


「だから、あれは不可抗力だ……。けど、まあ、努力はする……。いつまでも、昔の感覚引きづってる俺も良くねぇし……」


「うん、そーして」


 気を付ける、ということで互いに落とし所をつけたようだ。

 ばななは風の精からうまれた自然霊であり、フウガに連なる眷属。

 今はティアの補助のために彼女に付いている。

 ゆえに、ばななはフウガとティアを優先する考えを持つ。

 けれども、大事にならなくてよかった。

 と。シシィがほっと胸をなでおろしたところで、ジルが顔を上げて問いかける。


「そーいや、今夜はあんたら仕事だったんだっけ?」


 俺、聞いてねえけど。

 言外に、それならそうと知らせろとカウンターに肘を付き訴える。


「ごめん。伝えてなかった」


 申し訳なさそうにシシィは苦く笑い、言葉を続けた。


「別にフウガさんに仕事を頼まれてたわけじゃないよ? でも、ちあが声が聴こえるって言ってたから」


 風に紛れて小さな声がする、と。

 そこまで口にすれば、ジルも合点がいったと頷く。


「ああ、それで見回りか」


「うん。それで精霊の子を見つけて、急いで帰ってきたところ」


 シシィの視線が手元に落ち、釣られてジルの視線も落ちた。

 そこにはカウンターにそっと置かれた、風の層に包まれた精霊の姿。

 今は落ち着き、すうすうと寝ているようで静かだ。

 シシィの碧の瞳が揺れ動く。


「あんまり状態が良くないから、早く精霊界へと帰らせてあげたいんだけど」


 と言って、意味ありげに奥をちらりと見やって。


「見回りに行ってくるって、フウガさんには伝えてたはずなんだけどねえ」


 苦笑。そりゃ、ティアの機嫌も悪くなる。

 過去のことがあるからか、このような状態の精霊に彼女は弱い。

 早く、と気がいているのだろう。


「……なあ、あんたらが送り届けるわけにはいかねぇの?」


 ジルのもっともな疑問に、シシィは悔しそうに緩く首を振る。


「そーいうわけにはいかないんだ。ううん、出来ないんだ」


「出来ない?」


「ここから精霊界のある森までかなり離れているから、座標の特定が難しい。精度が悪すぎて誤差も大きくなる」


 それに、シシィはまだ眷属がいない。

 余計にその精度は落ちるだろう。

 それになにより、不得手だ。情けないことに。

 転移術の精度も上げていかないといけないのはわかっているが、苦手意識が先行してやる気が削がれる。

 だめだなあと知らず息をこぼす。


「……なんか、そのてんいじゅつってのも、便利そうで難しそうなんだな……」


 ジルが複雑そうな表情を浮かべた。


「うーん、僕の場合は不得手な部分も大きいから。もしかしたら、ちあなら――可能性はあるのかも」


 ついとシシィはばななを見やる。

 視線を向けられたばななは、なんだろうと首を傾げて彼の視線を受け止める。

 ばななは風の精からうまれた、ティア付のフウガの眷属。

 姿は真白の小鳥ではあるが、その正体は風そのもの。

 ばななの役目は、風から多くの情報を読んでしまい、自身の容量を超えてしまうティアの補助。

 だから、ばななの助けがあれば、ティアにも可能なのかもしれない。

 フウガがこの地からでも精霊界に転移出来るのは、風からあの森の場所を読み取り、割り出すことが可能だから。

 ティアが風から必要な情報だけを読み取り、不要なものは切り捨てる。

 という取捨選択が出来ることが前提ではあるが、素質はあるだろう。

 現に彼女の転移術は、自分よりも位置が正確なのだから。

 自分は迷子になりやすい。

 と、そこではたとシシィは碧の瞳が瞬いた。

 それって、情けなくはないか。と。


「ししぃ、おちこんでる?」


 はななは傾げていた首を反対に傾げ、シシィの顔を覗き込む。


「落ち込んではないよ。ただ、いつまでも苦手なままじゃだめだよなあって、考えてただけ」


「でもさ。そんなに言うほど、お前が苦手にしてるようには見えねぇんだけど」


 ジルの声に両者の視線が向く。

 それに彼がびくと小さく身体を跳ねさせたのは、シシィは気付かぬふりをする。


「お前いつも、ちゃんと転移してくるじゃん」


「それはそーだよ。僕、ちあを印にしか転移してないもん。でないと、迷子になる」


 ちょっと待て。何か情報量多いぞ。

 ジルの紅の瞳が瞬く。

 というか、迷子って言った気がするぞ、こいつ。

 何から触れるべきだろうかと、ジルは思わず閉口する。

 そして、何とか言葉を絞り出す。


「…………あー、まずさ。印の意味がわかんねぇけど、目印みたいな……?」


「……うーん? そんな感じ、なのかな……?」


 シシィが腕を組んで暫し悩む。

 確かにジルの言う通り、目印に近いのかもしれない。

 ティアに施した縛りはシシィに通じている。

 真っ暗闇にも呑まれない一筋の光。例えるならば、夜空に浮かぶ月。

 それくらいに強くはっきりと、シシィはティアの存在を感じるのだ。


「……ちあがどこに居たって僕にはわかるから、目印みたいなものなのかも」


 と。シシィははにかむ笑顔を浮かべたが、ジルは紅の瞳を数度瞬かせ、一歩後ずさった。


「…………ああ、そう」


 それって、つきまといに近いんじゃ。

 転移した先で、相手の状況がまずかったらどうするのか。

 だって、言葉には出来ないがそういうこともあるだろう。

 こう、きゃあって叫ばれる的な展開が。ちょっと桃色的な展開が。

 だからそれは、きっとはにかんで言うことじゃない。

 と、ジルは思うのだが、これは自分が多感な年頃ゆえに、想像してしまうことなのか。

 ジルはそれ以上の言葉を紡げなかった。

 きっと、精霊ではないジルとは感覚が違うのだろう。

 転移術とはどういったものかはわからない。

 以前、興味本位で訊いたこともあるが、それは彼ら自身にも説明は難しいらしい。

 生き物が呼吸をする感覚に近い、というのが彼らの談。

 まあ確かに、それなら説明は難しいかとジルも何となく納得した。

 ジルだって、どうして呼吸をするのかと訊かれたら答えられない。

 そういうものなのだろう。

 よし。これ以上は触れるのをよそう。

 助言めいたことを言えるわけでもないのだし。


「……まあ、なんだ。その……頑張れよ」


「うん、ありがと」


 と。丁度話に区切りがついた時だ。

 頃合いを見計らったかのように、奥から絶叫がカフェ内に響き渡った。


『いっっってえぇぇ――!!』


 突如のそれに、シシィが驚きで碧の瞳を丸くし、今のは何だろうねとジルへ問いかけようとして。


「あれ……? ジル……?」


 先程まで彼が居た場所にその彼の姿がなく、辺りを見渡して気付く。

 カウンターに置かれたカップから、ちらと見え隠れする銀灰色。


「ジル……」


 シシィから少しだけ憐憫をはらむ声がもれる。

 思わずねずみの姿に変じてしまったジルがひっくり返っていた。


「し、しょうがねぇだろっ!! これはもう、ねずみとしての性だっ! 俺はもともと、ただのねずみだったんだからよぉっ!!」


 きーきーと鳴いてしまうのも、ただのねずみだった頃の名残りだ。

 ジル自身だって情けないと思っている。

 けれども、今はまだ手探り状態なのだ。己のこれからについて。


「じる、うるさい」


 そこにばななの容赦のない一言が落とされ、ジルは黙り込む。

 が、ちょっとだけ不満そうな雰囲気を醸し出す。

 やがて、諦めのような息を彼がつくと、うんしょと起き上が――ろうとして、腹がつかえたのか失敗した。

 その様を見たばなながジルの背へ回り込んで、小さな頭で押し上げてやれば、ジルも今度は起き上がることに成功する。


『本当にぐーすかぴーすか寝てるなんて信じられないわっ!』


「ちあ?」


 憤然とした声と、ばたたと激しく羽ばたく音。

 白混じりの淡黄色の鳥が奥から飛んで来たかと思えば、彼女は一直線にシシィの肩に留まった。

 成長したティアは、身体の大きさ的に何とか肩に留まれるくらいであり、見た目は窮屈そうだ。

 が、羽根を膨らませ、まとう雰囲気はどこか苛立ちを感じさせる。


「とりあえず、ちあは落ち着こうよ」


 シシィが宥めるために撫でようと指を出すと、ティアは容赦なくその指に噛み付く。


「――っ」


 シシィは小さく苦悶の息をもらしたが、それ以上のことはしなかった。

 今はそっとしておく方がいいようだ。

 銀灰色がカップの影で縮こまっている。

 シシィはカウンター上で眠る下位精霊へ目を向けた。

 この場が少々騒がしくなってきた。

 少しでもこの子が休めるようにと、シシィは手をかざすと水の膜を張る。

 シシィの結界魔法。水の気が風の層ごと包み、周囲の音を遮断する。

 その頃になると、彼の肩に留まるティアも落ち着いたようで、ぴとと身体をくっつけて。


『……ごめん』


 と、一言謝る。

 別にいいよとシシィは苦笑で返した。

 先程噛み付いてしまったのは、鳥の姿を借りる精霊としての本能だとわかっている。


『たくよぉー……。確かに忘れて寝てたのは悪かったよ。けどよ? つつくくことないだろー。風穴あくかと思ったわ』


 奥から響く声に、一同の視線が向けられる。

 それから間もなくして姿を現したのは、どこかくたびれた印象を受ける、齢は朱夏な見目の男性。

 白の髪は無造作に襟元でひとつに束ねられ、枯れ葉色の瞳がシシィの肩のティアに向けられる。

 その瞳はどこかふてくされていた。

 彼がティアの叔父であり、風の精霊長、シルフの名を継ぐ――フウガ。


『なあ、ティア?』


 ティアはそんな彼の声に構わず、ぱたとカウンター上へ飛び移ると、翼で結界に包まれる精霊を示した。


『おじさん。この子を早く精霊界に送ってあげてよっ……!』


 急くティアの声に、只事ではないと感じ取った彼がカウンターへと近づいて。


『……これは』


 眉をひそめ、結界内で眠る精霊を見下ろした。

 姿がほつれ始めている。

 が、枯れ葉色の瞳に剣が滲み細められる。


『いや、これは――壊れ始めてる……?』


 ぽつと彼がこぼした小さな言葉は、誰の耳にも留まらなかった。

 風の精霊であるティアにも。

 いくら風が音を運ぶといっても、必要ないと判じれば風は届けないこともある。

 ちらとフウガがティアへ視線を向ければ、それに気付いた彼女は静かに言葉を紡ぐ。


『マナが濃くなってて、人が惑わされてたわ』


『その人はどうした?』


『シシィが騎士様へ引き渡してくれたはずよ』


 確認するようにティアがシシィの方へ振り向けば、肯定するようにシシィがひとつ頷く。


『そうか、わかった。――俺はすぐ精霊界に立つ』


 あんまり時間はかけたくないし。

 フウガは剣を宿した瞳で精霊を見、優しい手付きでそっと結界事手に収めると、カップの影に隠れた銀灰色を一瞥する。


「ジル、店の事は頼んだ」


「お、おう……!」


 慌ててカップの影から顔を出したジルを、フウガは指先で軽く撫で、次いでとばかりにティアも撫でて行く。

 そのままフウガは彼らの横を通り過ぎると、ドアを押し開けてカフェを出て行った。

 ドアが閉まる寸前に風がすり抜ける。

 いつの間にか、ジルの傍にあったばななの姿はなく、どうやらフウガと共に出て行ったようだ。


「――んじゃ、お前らも後片付け手伝って」


 いつの間にか少年の姿へと変じていたジルは、ティアとシシィへ目配せし促す。

 ティアも少女の姿へ転じると、ジルから布巾を受け取りテーブル席へと向かった。

 シシィも彼の手伝いをしようと立ち上がるも、ふと先程のことが気にかかって振り返る。

 振り返ったのはフウガが今しがた出て行った扉。


『……フウガさん、壊れ始めてるって言ってた。――あれは、自然な解れ方じゃない』


 自分が抱いた違和は確かだった。

 そして、自然なものではないと感じたそれも――間違ってはいなかったらしい。

 何かが知らないところで、動き始めている――。

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