踏み出すは変わるため
『あーあ。転移術が使えれば、すぐにルゥのところに行けるのになぁ……』
シシィのぼやきが夜の海街に溶ける。
男を担いで歩く彼の足取りは、ざっかざっかとどこか雑でやけっぱちだ。
転移術はマナが一時的に濃くなるために、精霊以外の身体には毒にしかならない。
そのために、シシィはわざわざ男を担ぎ上げて歩いているわけだ。
『それにさ、この人お酒くさい……』
すんと鼻を鳴らせば、つんと鼻につく酒の匂い。
人の成りでもこうなのだ。
狼の成りだったのならば、もっときつく感じたかもしれない。
顔をしかめながら、だからこんな路地に居たのかと納得する。
酔っ払って歩くうち、いつの間にかその奥へと迷い込んだのだろう。
それでマナに取り入れられてしまったのは少し気の毒だとは思う。
けれども、だ。だからといって。
『……ルゥを押し倒していいわけない。押し倒していいのは僕だけだから』
碧の瞳が不穏に据わり、気に入らないとばかりにふんっと鼻を鳴らした。
と、ぶつぶつと文句を垂れながら歩くうち、気が付けば路地から表の通りへと出ていた。
『……この辺りでいっか』
運河が走る表の通り。
通りを灯す街灯の橙の灯りが水面に浮かび揺れる。
運河にはゴンドラが浮かび、時折風に遊ばれ音を立てる。
そんな通りの端へ、シシィは担いでいた男を適当に転がす。
少しだけ扱いが雑になったのは許して欲しい。
そう胸中でぼやきながら、彼は満足げにふんと鼻を鳴らすと、用は済んだとばかりに踵を返――そうとして、はたと気付く。
聞こえるのは運河を流れる水の音。
『…………』
暫しの沈黙。
『…………もしあの人が、騎士様が見つける前に目覚めたら、さ……』
ぎこちない動作で運河へと視線を投じる。
そろりと覗き込めば、知っていたことだが深さはありそうだ。
もし、運河に人が誤って落ちたら――。
『…………』
この海街に来てから、酔っぱらいが運河に誤って落ち、そのまま儚くなってしまったという類いの話は幾度か耳にしたこともある。
街並みの景観を優先したために、通りを照らす街灯は少なく、正直足元を照らすには頼りないのだ。
『…………ううぅぅ』
呻いたのちに、はああと深い嘆息。
シシィはのっそりと通りの外壁へもたれて項垂れる。
早くティアの元へ戻りたいのに。
夜空を見上げて彼女を想う。
この頃の彼女は、近くにいるのにそうじゃない気がしてしまう。
どこかに行ってしまいそうで――不安になる。
ほおと吐いた息はほんのりと白く、未だ寒さ残る春の夜に溶けた。
その消え入る様をぼおと眺めやりながら、シシィは幼き頃を思い出す。
小さな前足から絶え間なく漏れ出ていった光。
抑えても抑えてもとめどなく溢れ、隙間から漏れ出ていく様。
そして、眠りから覚めたら、隣になかった体温。
在ったはずなのに、なかった。あの時の不安――恐怖は、今でも忘れることは出来ない。
『――――』
ほお、ほんのりと白い息。
静かに目を閉じた。
運河を流れる水音が夜の静寂に響く。
『……もう、あんな思いをするのは嫌だな』
彼女が何を考えているのかわからない。
と、そこでシシィはふと気付く。
開かれた目がぱちくりと瞬き、ぽつと言葉をこぼした。
『――そもそも僕、ルゥに何も訊いてないじゃん』
自嘲気味に小さく笑った。
それは何もわからなくて当たり前だ。
何も訊いていないし、聞いていないのだ。
『……それに、僕も言ってないことあるし』
あの時口にした、大好きの一言。
その想いは今でも、あの時と変わらずにある。
けれども、そのカタチが少しだけ変わってしまった。
それをまだ、シシィもまた彼女へは伝えていない――。
そして、改めて伝えた上で問いたいこともある。
『……ちゃんと、ルゥと話をしなきゃ。――ずっと、今のままで居ることも出来ないから』
互いにやらなくちゃいけないことがあるから――。
『――……』
ほお、と。
細く吐き出した息は変わらずほんのりと白く、吹き抜けた夜風に捕らわれて行った。
*
その後、巡回中の騎士へ男を任せたシシィは、転移術を発動させながらティアの印を探っていた。
転移術は万能のようでそうではない。
マナの濃さから、基本的には精霊以外には扱えない魔法であるし、転移した先の誤差も程度はあれど存在する。
空間を把握し、座標を割る。
見知った場所ほど精度は上がるも、やはり誤差は多少なりともあるわけで。
だから精霊らは、己の眷属を各地に散らしたりするのだ。
眷属の気配を探り、あらゆる箇所へ転移しやすくする。
しかし、シシィは未だ眷属というものが存在しない。
だからまあ、転移術は少し苦手だったりもするが、彼の場合は大体転移先がティアだ。
彼女には彼が施した魂の“縛り”が在る。それが印。
だから、彼女が何処にいても探るのは容易い。
あとはそこ目掛けて転移するだけだ。
『――――』
見つけた。
碧の瞳が静かに閉じられ、不可視な何かが渦巻いたかと思えば、瞬でシシィの姿はなかった。
こっ。靴音が静寂に響く。
路地奥。ゆっくりと碧の瞳が開かれると、肩口にばななを乗せたティアの後ろ姿があった。
ほら、誤差もなく正確に転移が出来た。
自然と頬が緩みそうになるのは嬉しさか。
シシィがその背へ声をかけようとした時。
『シシィ』
その彼女が振り返った。
全く驚いた様子がないのは、シシィが転移して来ることをわかっていたからか。
そう思うと、ちょっと浮かれそうになる。
微かに緩む口元を引き締めると、シシィはティアの手に浮かぶ存在に気付いた。
ぼんやりと浮かぶ光を、風の層が包み込む。
この風の層はティアの張る結界。
そのぼんやりと浮かぶ光へ視線を向けたところで、シシィの眼は正確にそれを映し出す。
碧の瞳に剣が宿った。
表情も自然と剣呑なものへと変わる。
『この子、だいぶ弱っているね』
下位精霊だ。それも、己という存在を保つためのそれが曖昧で。
シシィの声音も心持ち硬くなる。
脳裏に過るのは、かつてのティアの姿。
彼女もまた、己という存在を保つのに曖昧になったことがある。
だが、そこでシシィは表情を僅かにしかめた。
何か、違和感を抱く。
言葉にするには、それはまだ弱く。けれども、違和としてははっきりと。
何だろう、これは。というか、これは自然な解れ方なのか。
逡巡するも、明確な答えは出ない。
深く思考する手前で、ティアの声に引き上げられた。
『ええ、かなり姿が
姿が
ティアも瞳を険しくさせながら、弱々しく浮かぶ下位精霊を見つめる。
この街は人の精霊への信がないわけではない。
だが、精霊の森やかの街よりかは希薄になる。
ゆえに精霊として未熟な者は、自分という存在の維持さえ難しくなってしまう。
『急いでおじさんのところに戻りましょ』
ティアが顔を上げれば、シシィもこくりと頷き返した。
彼の抱いた違和感は消えぬままに。
◇ ◆ ◇
人が水の都と呼ばれる海街に、“精霊の隠れ家”と看板を提げるカフェがある。
海街の中心部にある円形の広場。
そこを縁取るように回廊が巡る。
広場の中央には噴水もあり、日中は人々の憩いの場となり、遊ぶ子供達や談笑を楽しむ婦人など、様々な姿とまみえる。
そして街民の楽しみとなるのが、気紛れに開かれる楽師による演奏会。
なんともなしにふらりと立ち寄って集まる楽師達。
彼らが奏でる音楽は、人々の耳を楽しませるのだ。
また円形の広場には、囲うように様々な店舗が回廊に建ち並ぶ。
灰や茶などの石造りの建物。
その色合い、また濃淡が人々の目を楽しませる。
“精霊の隠れ家”もその中のひとつだった。
そこは四大精霊のひとつ、風の精霊長シルフが営むカフェであり、ティアとシシィも身を寄せる場所。
そして、精霊達の拠り所。
港街でもあるこの海街では、人に惹きつけられ、精霊が流れ着くことも少なくはない。
こっそりと人の船に乗り込んでしまうのだ。
そして、信の希薄なこの街では、未熟な精霊にとっては危うい場所。
そんな精霊達を護るのが、シルフに課せられた役目である。
また、人の生活に溶け込み暮らす精霊達の
それが、“精霊の隠れ家”と呼ばれる所以だ。
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