第二部

第三章 白狼と鳥の精霊、色付き絡まるその想い

色付き深まる想いの色ゆえに


『ココ、ドコ』


 ひゅおおと、寒さ残る春の夜風が吹きすさぶ。


『クルシイヨ』


 潮の気配もはらむ夜風が、苦しげな声を巻き上げた。


『ダレカ、タスケテ……』


 助けを求めるその小さな声を、彼女へ届けようと風は走る。




   ◇   ◆   ◇




 本土から離れ、まるで孤島のように築かれた都市があった。

 四方を海に囲われたその都市には、縦横無尽に運河が走る。

 大小様々な広場が点在し、大通りから枝分かれする小道。

 その様はまるで迷宮さながらに入り組み、路地裏に至るまで運河はそのすぐ側を走る。

 幅の様々な運河に架かる石橋は既に数え切れない程で。

 本土から離れているために、陸路の主な通行手段である馬車も断たれるその都市では、主な通行手段としてゴンドラが人々の生活に溶け込んでいた。

 民家のすぐ横を通る運河に、人を乗せたゴンドラが通る。

 日の傾きによっていろんな表情をみせる運河に、夜には立ち飲み屋バーカロの灯りが浮かぶ。

 それゆえに、その都市は“水の都”と呼ばれていた。




 夜。海街に風が走る。

 立ち飲み屋バーカロも店を閉め始める更け頃。

 ただ静かに流れる運河を走り抜け、風が探す彼女はその石造りの民家の屋根上にいた。

 少女の琥珀色の瞳が何かを探すように彷徨っている。

 長い前髪が左目を隠し、時折鬱陶しそうに彼女がそれを掻き上げれば、縦一文字に走る傷痕が見えた。


《てぃあ、みつけた》


 風にとける声。

 ひゅっと、少女――ティアの耳元で風が鳴き、緩く編み込まれた彼女の髪が風でふわりと浮き上がる。

 その髪は、淡黄色にところとごろ白が散らばる、少し不思議な色を持っていた。

 彼女の肩口で風が渦巻いたかと思えば、瞬きひとつで姿が現われる。

 真白の身体はまるで団子のように丸っこく、小さな翼先と尾羽根は黒い。

 つぶらな瞳が、より愛らしさを際立たせる。

 言葉通りの小鳥が、彼女――ティアの肩口にちょこんと留まっていた。


『たすけてって、こえする』


『わかったわ。ばなな、案内して』


 ティアが頷き、小鳥――ばななは小さな翼を広げて飛び立つ。

 とっ。屋根を軽く蹴り上げたティアも、瞬きひとつで人から鳥の姿へと転じると、ばななの後を追うように羽ばたいた。

 二羽の鳥が夜の空を泳ぐ。

 白混じりの淡黄色の鳥。彼女の頭の飾り羽根と尾羽根がはためく様は、夜空に映えてさながら流星のよう。

 やがて二羽は高度を下げるなり、街を走る運河を滑り、路地へと入り込む。

 とっ、軽やかな靴音が路地に広がる夜闇に響いた。

 再び人の姿へと転じたティアが、肩口に留まったばななへ告げる。


『シシィへ知らせて来て』


『ばなな、ししぃ、よんでくる』


 ぴるぅ。一鳴きしたのちばななの姿形がほどけ、風が走り去る。

 その余韻がティアの髪をなびかせた。


『この先って、ことよね』


 ばななの風の痕跡を辿り、ティアが路地奥へと足を踏み入れる。

 こつと靴音をわざと響かせながらも、慎重に歩を進めて行く。


『私は精霊、あなたを探しに来たわ。声が届いていたら、あなたの場所を教えて欲しいの』


 奥へと進みながら、何かへ呼び掛けるように声を発する。

 騒ぎは起こしたくない。けれども、目的は果たしたい。

 わざと靴音を響かせるのも、自身のことを知らせるため。

 こちらの存在に気付いた相手が、己の存在を示してくれるかもしれない。

 と言っても、こちらもただ、相手の反応を待っているだけでもない。

 こつこつと靴音を響かせながら、ティアはマナの動きを探る。

 瞬間。肌に微弱な痺れを感じた。


『……姿がほつれ始めているのかも』


 小さく焦りを滲ませた声をこぼす。

 この街は精霊に対する人の信が希薄だ。

 己という存在すら見失いかけているのだとしたら。

 じんわりと嫌な汗をかく。

 早く見つけてあげないと。

 歩を進める足を速めた。




 肌がぴりつく。

 痺れを感じさせるそれは、先程よりも僅かに強くなっていた。

 マナの動きから方向は合っているはず。

 痺れを強く感じるのは、それだけ距離も縮まっているということ。

 逸る気持ちを抑えながら、ティアは慎重に、けれども急いで、路地奥へと足を進める。

 きっと、苦しんでいる。怖がっている。

 かつての自分がそうであったように。

 そう思えば思う程に、気持ちだけが逸りそうになる。


『…………落ち着きましょ』


 ここは一度落ち着けようと、足を止めたティアが深く息を吸い込もうとした――刹那。


『――――』


 ティアが強く地を蹴り上げ、それを合図に、風が彼女の身体をふわりと宙へと舞い上げる。

 先程まで彼女の姿があった場所から、何かが掴みそこねたように空を切る音がした。


『――マナに惑わされてる』


 ぽつりと呟かれた言葉は落ち着いていた。

 こつ。軽やかな音で着地したティアは、彼女を振り返った男と相対する。

 男の瞳は彼女を見ているようで見ていない。


 ――マナを取り込んだ生き物は、魔物と成り果てる


 だが、眼前の男はまだそこまでには至っていない。

 この程度の、マナ溜まりにもならないマナの濃さでは魔物には至らない。

 今はまだ、惑わされているだけだ。

 それならば、対処の仕方はある。まだ戻してあげられる。


「――――!」


 男が声を上げた。

 ティアに再び掴みかかろうと、手を振り上げ襲いかかる。

 が、ティアは動じることなく男を凝視し、その時を計る。

 琥珀色の瞳が細められた。

 今だ。

 瞬時に屈んで身体を沈ませたティアは、一気に男の懐へ飛び込むと、男の腹へ手を添える。

 振り上げられた男の手は、彼女が身体を沈ませたことで空を切った。

 と、男の背から不可視の何かが抜ける。

 それはまるで何かが漏れ出たようで。

 マナを男の身体から追い出したのだ。

 くっと男は苦しげに呻いたのを最後に意識を手放す。


『これでよし、と』


 ほっ。安堵で身体の緊張が緩み、思わず息を吐き出したところで、ティアははっと我に返った。

 落ちる影に反射で顔を上げる。

 ずいっと迫る影は、正体をなくした男の身体。

 あ、これは受け止めきれない。倒れ込む。

 瞬時に本能が決断をくだす。あとは静かに待つしかない。

 諦めに似た気持ちで衝撃に備えようと身構えた時、ティアの視界の端から腕が伸びた。


『……ルゥを押し倒していいのは僕だけだから』


 落ちた不機嫌な声と共に、腕の主が男の身体を受け止める。

 が、瞬時にその主はティアへと向き直ると。


『ルゥもルゥだよ。なんで僕のこと待ってくれなかったの』


 ゆっくりと立ち上がるティアに、その主はさらに不満をもらした。


『仕方ないじゃない。待てなかったんだもの』


 服の埃を軽く叩きながら、ティアはその主――青年を振り返った。


『とりあえず、お礼は言っておく。ありがとう。助かったわ、シシィ』


 背はティアよりも頭一つ分程高く、短髪ざんばらな髪は、思わず眼を見張る程の純白。

 襟足まで伸びた髪は一つに束ね、髪紐で結ったそれ。ちょっと小洒落た印象だ。

 動作に伴って揺れる彼のその髪紐は、ティアの緩く編み込まれた髪の髪紐と揃いで。

 だが、ティアにとってはシシィはシシィで。それ以上でもそれ以下でもない。

 気が付けば自分を追い抜いていた彼の背の高さに、驚きと同時に何やら苛立ちを覚えるこの頃だ。

 時折、彼へ頭突きをしたくなる衝動にかられるのは、たぶん――悔しさだ。


『ん、どうかしたの? ルゥ』


『……べつに、なんでもないわ』


 今はそれよりも。


《てぃあ、ししぃ。たすけてってこえ、このさき》


 風にとけた声がティアとシシィに届き、彼女達を導くように路地奥へとばななが走る。

 そう。今はその助けを求める声の主を探さねばならない。

 ばななが走った方を見やりながら、ティアはシシィへ言葉を投げる。


『シシィはその人を表の通りまで運んであげて。巡回中の騎士様がすぐ近くにいるから、見つけてくれるわ』


 風が騎士の足音を運んでくれた。

 それが、この路地から出た表の通りへ向かっている。


『ルゥは?』


『私は声を探す』


『じゃあ、僕も――』


『その人をそのままにしておくことは出来ないでしょ』


 苦笑を浮かべ、シシィの言葉を遮るようにティアは言葉をかぶせた。


『その人、マナを取り込んでしまって興奮状態だった。この周囲のマナも濃いし、それだけ精霊の姿が解れ始めてしまってるってこと。……のんびりはしてられない』


 琥珀色の瞳がシシィを据える。


『なら、役割分担。あなたはその人、私はあの子』


 ティアの体格では男を運べない。

 けれども、シシィの体格なら容易だろう。

 ややあって、シシィが観念したように息をつく。

 男を担ぎ上げて身を翻すなり、肩越しに振り返って。


『……わかった。さっきみたいに無理なことはしないでよ』


 と言い残せば、念を押すように碧の瞳が軽く睨み、今度こそ彼は表通りへと向かって行った。


『――――』


 ティアはその背を見送ることなく路地奥へと足を向け、琥珀色の瞳が揺れ動く。

 風が慰めるようにそよいだ。


『……べつに、さっきのだってなんとかなったもん』


 口調が子供じみている自覚はある。

 シシィが心配してくれているのもわかっている。

 きっと彼は男を表通りに置いたあと、すぐに彼女自身を印に転移してくるつもりだろう。


『…………』


 何だか、悔しい。

 そんな気持ちが胸中を燻る。

 の拙い約束通りに、今は彼が傍に居てくれている。

 本当はあの娘を探したいはずなのに。

 堪らず俯けば、力ない声音で言葉が溢れ落ちた。


『……私、もう大丈夫だよ』


 それが伝えたいだけなのに、彼を目の前にすると、どうしてか喉で言葉が絡まって言い出せなくなる。

 互いに幼かった交わした約束は、もう遠い。

 それは、拙い約束だと言える程に。


『私ももう、幼くはないわ』


 精霊としてはまだまだ若く、子供とも言われる時分だろう。

 けれども、少なくとも幼くはないのだ。

 自分も、彼も。

 幼かったから口にできた想いも、今はいろんなしがらみが絡まってしまう。

 だから、このままではいけないとわかってる。ちゃんとわかってる。

 でも、今が心地良すぎて言い出せない。

 まるで、ぬるま湯に浸かるような。

 ずるいなあ。胸中で吐露し、自虐的な笑みが口の端にのった。

 そんなティアの耳元で風がささやく。


《てぃあ、だいじょうぶ……?》


 風が渦巻けば、ティアの肩口にばなはなが姿を表した。

 愛らしい小さな瞳が心配げに揺れる。


『……うん、だいじょーぶ。今は、やるべきことをやらなくちゃね』


 くしゃりとぎこちない笑みをばななへ浮かべたティアは、路地奥を見やると駆け出した。




 あれから人の世では、人の感覚で数えて、十近くの年月が流れていた――。

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