精霊の春(2)
――ちゃぷん
水音を立てながらシシィが湖へと降り立てば、彼が動く度に、凪いでいた湖面に波紋が生じる。
『ちあもおいでよっ!』
シシィが振り返る先。
ティアを含める複数の精霊の子供達が湖畔に集まっていた。
精霊の森に囲われた湖に浮かぶ島。樹冠広げる大樹が根を下ろす。
その周囲に精霊達は集まり、子供達は湖畔に集められていた。
大樹の葉からは絶えず光が滴り、地や湖面に落ちては燐光となりて散る。
だが、それは不思議と湖面は揺らさない。
『ちあーっ、こないのぉー?』
――ぴちょん、ぱちゃん
シシィが跳ね、波紋と共に水音も響く。
それをティアは困惑げに見つめ、湖面を覗き込んだ。
星が瞬く湖面には滴り落ちる光が映り込み、またそこに、訝しむティアの顔も映り込む。
『……どういう原理で歩いてるのよ』
ティアがちらりと肩越しに振り返れば、他の精霊の子らも困惑げな視線をシシィへ向けていた。
なにあれ。なんで浮いてるの。
ひそひそ、子らが声を潜めてささやきあう。
ティアにも彼らの気持ちはよくわかる。
何がどうして水面の上を歩けるのか。
自然のしくみを思いっきり逆らってはいないだろうか。
つい最近まで大樹の周辺は結界に覆われていた。
それはティア達精霊の子らが生まれるよりももっと前からで。
だから、ここに居る子達は初めて目にする光景。
『ちぃーあぁーっ! はやくぅーっ!!』
焦れたように叫ぶシシィの声に、考えるのを放棄したティアが、嘆息と共に湖面に足をつける。
ぴちょん。波紋がひとつ広がった。
と、ふいにシシィが耳を立て他所を見やった。
それに一瞬訝ったティアだけれども、その理由はすぐにわかった。
――あれが精霊王のお子様なのね
――確かにお美しいお姿だ
――白の毛並みもお綺麗で、碧の瞳もお二人に似たのね。透き通っててお綺麗だわ
――だが少し、お騒がしい方だな
――そうだね。精霊王様はお静かで凛とした方なのに
――そこは夫君に似たのでは……? あの方も少しそういった面もあるから
――確かにそうなのかも
幾つものささやき声。
声を潜めていても、風の精霊であるティアにはしっかりと届く。
称賛するものから、あまり聞きたくない類いの言葉まで。
精霊王の子。それだけで見方が変わってしまうものなのか。
思わず顔をしかめて、それから彼は大丈夫かと視線を向ける。
『…………』
ささやきの方を見やるシシィ。
そんな彼の視線に気付いた精霊は慌てた様子で口をつぐむ。
その様子にティアはまたむっとするも、シシィの表情が気にかかった。
そこに滲む色は何か。それを見出そうとしても、何かわからなかった。
在るのは、ただ凪いだ何か。
シシィに声は届いたのか。届いたとして、意味は伝わっていたのか。
『……――』
――ぴちゃん、ぴちょん、ぱちゃん
波紋を幾つも広げて、ティアはシシィへと歩む。
気配に気付いたシシィがティアの方を振り向き、驚いたように目を見開いた。
そんなシシィへティアは手を伸ばし、隠すように彼を抱える。
『ちあ……?』
不思議そうにシシィは少女の姿へと転じたティアを見上げた。
それに緩く笑んでから、ティアが口にしたのは別のことだった。
『シシィはこの湖、初めてではなかったの?』
『え?』
何のことだろうと、ティアの腕の中でシシィが首を傾げる。
『だって、水面の上は歩けものではないわ。私、びっくりしてるんだけど』
その言葉でああと合点したシシィは、へへっと少しだけ得意げに笑った。
『なんかいかね、ちちうえとあそびにきてたの』
それから嬉しそうに、えへへと笑う。
『それからね、ははうえとたくさんおはなしとかもしたの。あ、あと、ちちうえともいっしょに』
そういえば、シシィの父であるスイレンと共に何処かへ行っていたこともあったなとティアは思い出す。
そうか。母親の元へ行っていたのか。
それならば、この湖のことを知っているのも納得だ。
その時のことを思い出しているのだろう。
シシィがえへへと緩みきった笑顔を浮かべる。
それが堪らなく可愛い気がして、ティアも自然と顔を綻ばせた。
シシィと他愛のない会話をしながら湖面を歩けば、いつの間にか大樹が根を下ろす島へと辿り着いていた。
そっとシシィを下ろし、ティアは小鳥の姿へと転じる。
思わず樹冠広げる大樹を見上げ、その圧倒ぶりに息を呑んだ。
もともとの大樹の大きさも相まって、光をまとう光景が息をも忘れさせるくらいに、幻想を通り越して圧倒される。
『――――』
暫し見上げて呆けていると、さくと草地を踏む音にはっとして振り向く。
『あ、ははうえー』
ティアの隣で嬉しそうな声を上げたシシィが、大樹の根本に立つ精霊王、ヴィヴィへと真っ直ぐ駆けて行く。
凛とした空気をまとった彼女が、瑠璃の瞳で駆けるシシィを一瞥した。
それに怯んだシシィは足を止める。
困惑げに母親を見上げるシシィへ、ヴィヴィは一呼吸ののちに口を開く。
『――シシィ。今ここに在るのは、精霊王ですよ』
少しだけ咎の色をはらんだ声音。
ヴィヴィがちらとシシィの背後へ視線を投じたのを、ティアは見逃さなかった。
ああ、なるほど。ティアは合点する。
ここに在るのは、精霊王と精霊の子なのだ。
ヴィヴィとシシィという精霊の親子ではない。
そして彼は今、精霊王の子、という色眼鏡付きなのだ。
そうなれば、相応の振る舞いというものがある。
それをわからせようということなのか。
戸惑うように母親を見上げるシシィの耳が、ぺたんと倒れる。
目に見えてしゅんと沈む彼の様子を、ティアは見ていられなかった。
仕方ないとひとつ息をついて、ティアはシシィの隣へ立ち並ぶと、ヴィヴィを見上げて。
『ティアがご挨拶申し上げます』
頭を垂れる。そして、呆然と彼女を見やるシシィへちらりと視線を送る。
一泊置いたのちに、はたと思い至ったシシィも慌ててヴィヴィを見上げ。
『シ、シシィがごあいさつもうしあげます』
ティアと同じように頭を垂れた。
少しぎこちない動きながらも、まあ及第点だろうとティアは視線を戻す。
彼だって別段、何も知らない子供でもないのだ。ただ、真っ直ぐなだけで。
『…………』
横たわる沈黙が重い。
いつまで頭を垂れていればいいのか。
時折、ちらちらと不安そうな視線がティアに突き刺さる。
それを、こっちだって不安なんだと軽く睨み返して黙らせる。
水面下でそんなやり取りがされている中、厳かな声が響いた。
『顔をお上げなさい』
声に促され、二匹は静かに顔を上げる。
と。ヴィヴィが大樹を見上げ、大樹がざわと身を震わせた。
ざわめきの中に、ぷつ、と乾いた音が響き、降り落ちる光に紛れて何かが落ちて来る。
彼女が咥えて拾い上げたのは、大樹の葉。
その葉は不思議なことに、揺れ動く度にしゃんと大鈴のような音が響く。
――しゃん。ヴィヴィが大樹の葉を振る。
――しゃん。左へ大きく振れば、燐光が舞う。
――しゃん。右へ大きく振れば、燐光が舞う。
舞った燐光がヴィヴィの体毛に絡み、まるで煌めく衣をまとったようで。
気付かず、シシィもティアも感嘆の息をもらす。魅せられているのだ。
周囲の雑多な音など、もう既に聞こえていない。
ヴィヴィが精霊の子らの前に立つと、前へ屈み、大樹の葉から子らの頭へ雫を垂らす。
――ぽろん
水音が響くも、それはまるで何かを爪弾き、奏でたような音。
『――ヒトの祈り、それは我ら精霊の意とならん』
精霊王から紡がれる祝。
ティアもシシィも、雫が自身の内へと沁み込むのを感じた。
あたたかく、じんわりと柔らかなそれ。思わず微睡みたくなる。
冬の日向。そんな心地に似ているなとティアは思った。
『――……』
精霊王から祝を受け取った精霊の子らは、静かに感謝の礼を取ると、そのまま静かに王の前を下がった。
精霊の春とは、ヒトの祈りを精霊の子へと渡す、精霊にとっての催事。祝い事。
無事に成長しますようにという、精霊達の願いも込めて。
* * *
滞りなく王から子らへの祝も終わり、精霊の春も終わりを迎えた。
あとは楽しむだけだと、湖の周辺ではあちらこちらでどんちゃん騒ぎだ。
ヒトからの供物――菓子や果物、酒やら――を分け合い、あとは食べて騒いでと大いに賑わっている。
シシィとティアは、喧騒から少し離れたところに立つ木に登っていた。
大人達の騒ぎに早々に辟易し、親達に断ってそっと抜け出した。
さわあと撫でる夜風が心地よい。
白の髪を遊ばせながら、太枝に腰を下ろした幼子の姿のシシィは、目を閉じてその心地を楽しむ。
ふううと細く長い息をついて、つかれたあとひとつぼやけば。
背後から腰に手を回され、頭に重さがのしかかる。
『……私も疲れたわぁ』
少し投げやりなその声はティアのもの。
彼女もシシィと同じく少女の姿で、後ろから彼を抱える形で太枝に腰を下ろしていた。
シシィの頭に顎を乗せた彼女から盛大な嘆息がもれる。
『何でああも、大人達は騒げるのかしらねー? 疲れないのかしら』
多分に呆れが含まれる声に、シシィがくすと笑う。
『でも、ぼくはこのさわぎ、きらいじゃないよ?』
『……まあ、あなたはそうでしょうけど。私は風の精霊だから、風から余分な情報もらって頭が混乱するわ……』
やれ、誰が何の話で盛り上がっただの。
やれ、あそことあそこの精霊がいい感じだとか。
ティアにとっては必要のない情報で既に思考は鈍っている。
御することも覚えなくちゃ。ティアがぽつりと呟く。
疲れ滲むティアの声にシシィが身じろげば、頭に乗っていた重さがなくなった。
くるんと上半身だけで振り返り、心配になってティアの顔を覗き込む。
『ルゥ、だいじょーぶ?』
『ん?』
『ルゥ、つかれたって……』
不安げに揺れるシシィの碧の瞳。
それにティアは小さく苦笑した。
あの一件以降、彼は少しだけ過保護になった。
『私は大丈夫よ。風がちょっと、素直すぎるだけだから……』
ティアがどこか遠くを見つめる。
『風に好かれるっていうのは、風の精霊としては嬉しいし、たぶん有り難いことなんだと思う……。思うけど、さ……』
そこで、はああと深いため息。
『だからって、あれもこれもって情報教えてもらったって、私にも許容量ってものがあるのよ……。扱いきれないわ……』
あの時――“外”へと飛び出してしまった、あの一件だ――に必要な情報だけを取捨選択出来たのは、おそらく火事場のなんとかだろう。
あの時はいろんな意味で自分の身が危うかったから。
それがない平時となった今は、ただ精霊としての己の未熟さを痛感するだけだ。
『ごめん。ちょっと愚痴ったわ』
へにゃと力なく笑うティアに、シシィは咄嗟に口にした。
『ねえ、ルゥ。ぼくにできることって、ある……?』
シシィの言葉に、ぱちくりとティアの琥珀色の瞳が瞬く。
しばらく瞬いたあと、そっと彼女は彼の身体を引き寄せた。
『……じゃあ、傍に居て』
シシィの顔を見、ティアはふわりと笑む。
『それだけで元気が出て、また頑張ろって思えるから』
『――――』
そんな彼女の笑顔に、シシィは無意識に手を伸ばした。
彼女から目が逸らせなくて、触れたくて。
頬に触れる。衝動的に嘴を食みたくなった。
相手の口を食むのは狼の愛情表現。
スイレンがヴィヴィにするのを幾度も見てきたシシィにしてみれば、それは当たり前の衝動だった。
けれども、そこで思い出す。今は互いにヒトの成り。
それがもどかしく、だが、すぐに思いつく。
ならば、唇を食めばいい。
そのまま引き寄せるように、本能が促すままに顔を近付けようとして――ぴたと動きを止めた。
『…………』
圧倒的に足りないものがあった――背の、高さだ。
思わず碧の瞳が据わった。
圧倒的に足らない、背。
『シシィ、どうしたの?』
訝るティアの声に、はっと我に返る。
突然彼の瞳が据わったのだ。
何事かと彼女が訝るのも当然だった。
姿勢を戻して前に向き直ったシシィは、べつになんでもないよと不貞腐れる。
『……はやく、おっきくなりたい』
ぼそりと呟いた言葉は、果たして彼女に届いたのか。
後ろから抱き込まれるようにして、頭に彼女の顎が乗る。
『今は、こうしてていい……?』
彼女が小さく問う声に、こくりと頷くので精一杯だった。
そもそもこの体格差が不満で。この体勢が不満で。
何だか今は、自分が彼女の庇護下にある気持ちになってしまう。
せめて逆がいい。逆になりたい。
思えば彼女に助けられてばかりで、今日だって彼女に助けてもらったばかりで。
酷く情けない心地に打ちひしがれるシシィであった。
はやく、おっきくなりたい。
ティアに抱え込まれながら、シシィは強く思った。
――第二部 続――
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