第四章 精霊、分かつ道
ハグレモノ(1)
夕暮れの船着き場。
ざざと静かに波音が響く。
藍と橙の色合いの空を背に、今日も仕事を終えたゴンドラ乗り達が戻って来る。
遠くからの喧騒を耳にし、ぴくりと木箱で寝そべる猫のそれが動いた。
暇だったと言わんばかりに、くわあと怠そうにあくびをひとつ。
彼女は寝そべっていた木箱から飛び降りた。
流されぬ様にとゴンドラをしかと固定し、運河沿いに家路へと急ぐそんな彼らへ、愛想を振りまきに行くのは暇つぶしだ。
みゃーん。甘く声を上げて足元へ擦り寄れば、大抵の人らは相好を崩して撫でてくれる。
「おー、ミケじゃねぇかい」
一人の男が膝を折って屈むと、よしよしと彼女の喉元を撫で始めた。
三毛猫だからミケ。何とも安直な呼び名だといつも思う。
けれども、この男の手は嫌いじゃない。
仕事柄ゆえか大きく、ごつとした硬い手ではあるが、撫でる手付きは繊細で手練れである。
うっとりと目を細めて喉を鳴らす。
「お前、ホント懐っこいよなあ」
さらに男が相好を崩した時。
「なんだ、またミケを撫でてんのか」
彼女を撫でる男の後ろから、通りかかった別の男が声をかけた。
「おうよ」
「しまりのない顔しやがって」
振り返った男の顔を見、呆れて苦笑したその男も、ぽつぽつと家路へとつく人の流れから外れ、彼女――猫を撫でる男の隣へ並び立つ。
「ミケってよく夕暮れにふらっと現れるよなあ」
「ああ、そーだな」
「野良かな」
「うーん、野良じゃねぇとは思うよ」
と言いながら、猫を撫でる男は指を猫の片耳の方へ滑らせる。
しゃらん、と軽やかな音を奏でたのは、猫の左耳を飾る耳飾りだ。
猫のカッパー色の瞳と同じ石を耳飾りへと施した意匠。
こんな洒落たものを身に着けているんだ。
こういった類いのもので、対としてもう片方もあるのを目にしたことはある。
きっと、仲間の猫かあるいは飼い主自身か。
「お前、大事にされてんだなあ」
男は朗らかに笑い、猫が喉を差し出すので撫でてやる。
満足そうにごろごろと喉を鳴らす猫を撫でる毛並みも、艷やかで滑らかに手を滑る。
きちんとされているだからだろう。
「ミケはホント、懐っこくてめんこいよなあ」
だらしなく顔を崩す同業仲間に、その横に立っていた男はそろそろ飽いてきた。
膝で同業仲間の背をつつき。
「おい、今夜は
早く行こうやとせっつく。
既に他の同業の者の姿はなく、船着き場に残るのは彼らだけだった。
ざさと変わらず響く波音が、少しだけ寂しげに聞こえる。
気が付けば藍と橙の色合いだった空は、藍の色を深め星を抱いていた。
運河を流れる水音に、橙の灯りが灯り始める。
路地の方からは、路地通りに軒を連ねる
漏れ聞こえて来るその声に、男は仲間をつつく膝に強さを乗せる。
まるで早く早くと急かす子供のようだ。
猫を撫でる男が苦笑混じりに振り返る。
「仕方ないなあ」
そして、猫に向き直った男は、ぽんと軽く頭を撫でてから。
「じゃあな、ミケ。また撫でさせてくれや」
立ち上がった。
隣の男がやっとかと肩をすくめ、彼の肩へ腕を回しながら、連れ立って路地へと消えて行く。
猫がみゃあんと甘える声を出すも、男らは、じゃあな、と振り返らずに片手を上げるだけだった。
猫は男らが消えた路地を見つめ、やがて諦めたように空を仰ぐ。
深まる藍の空に、まあ暇つぶしにはなったかと思い直す。
気怠げにくわあとあくびをひとつ。
風に吹かれ、片耳の耳飾りがしゃらんと軽やかな音を奏でた。
「――……オ。――……オ」
自分を呼ぶ声に猫の耳がぴくと跳ね、木箱に寝そべっていた彼女は顔を上げた。
「シオっ!
シオと呼ばれた彼女の前で、少年が膝に手を付き、はあはあと疲れたように息を継いでいた。
暑く蒸れたのか、彼が常に頭に巻いているターバンを解けば、汗ばんだ銀灰色の髪が広がる。
「あちぃー……」
そんな彼を労るように風がそよぐ。
ふいーと息をつき、心地よさそうにする様はまるで。
「あんたそれ、湯上がりのおやじみたい」
「は?」
少年の返しに構うことなく、シオは木箱から高く跳躍。
きれいな弧を描き、その頂点でくるりと一回転する様は、周りに人の姿があったのならば、その見事な身軽さに歓声が上がったのかもしれない。
けれども、この時分にこの辺りを通る人はいない。
着地に合わせ、しゃらんと片耳の耳飾りが鳴る。
「俺、おやじじゃねぇし、年頃の男の子だし」
「自分で年頃の男の子とかいう?」
斜に構える少年に、シオは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
ゆらりと妖しげに尾を揺らし、少年を振り返る。
「それより、さっさと行くわよ。ジル」
ほら、抱えなさいよ。
後ろ足で立ち上がり、シオは前足を上げる。
抱きあげろという彼女の催促だ。
少年――ジルは、ターバンを肩にかけると、やれやれと嘆息ひとつしてからシオを抱えあげる。
「……お前、冷えてんじゃねぇか」
彼女が抱きあげろと言ったのは、ぬくもりを得るためかと納得する。
春とは言え、まだ冬の寒さを残すその始め。
「あんたが遅いからよ」
「……それは、ホント
運河沿いを歩く。
どこかの路地からはグラスを打ち合う音と、人々の陽気な声が聞こえて。
時折思い出したように、運河で魚が跳ねる。
「そうだよ。予定があるってのに、シシィはティアに何かちょっかいかけ始めるし、ティアも始めはいなしてたけど、その内あいつに追い詰められてたし……」
フウガはフウガで、その様を眺めて笑ってるだけだし。
結局はジルだけで片すことになったのだ。
見かねたのか、途中で小さな身体のばななが手伝ってくれたのは嬉しかった。
だんだんとジルの声音が愚痴のような響きを伴っていく。
その時のことを思い出したらしいジルの、その紅の瞳が不機嫌にきらめいた。
ジルに抱えられたシオの尾が、彼を慰めるためか優しくとんと叩く。
「……あんたも苦労してんのね」
「否定はしねぇ」
「前から思ってたけど、職を他に探してみたら……?」
シオのカッパー色の瞳がむすとむくれたジルを見上げる。
途端。彼の歩みが止まった。
ひょおと風が運河を走り抜ける。
「ジル?」
「……俺みたいな奴、雇ってくれるとこなんてねぇさ」
力ない声。
シオが、あ、と息をもらした。
ジルの紅の瞳が仄かに翳る。
「――この瞳の色の意味を、知ってる奴は知ってるんだからよ」
力無げに細めれた紅の瞳はどこを見ているのか。
「……ごめん。軽率だった……」
ジルに抱かれた腕の中。シオが身体を丸める。
彼らの背から吹き抜ける風は、冬の余韻をはらんで冷たい。
「……いや、いいよ。俺がハグレモノなのは変わらねぇから……」
石畳を歩く靴音だけが、運河を流れる水音に混ざる。
ジルが歩く度、その振動が彼の腕を通してシオにも伝わった。
その振動がひどく頼りない気がして、シオは彼に身を寄せるようにさらに身体を丸くした。
「…………それなら、あたしだって……ハグレモノだよ……」
自分も、とうに猫の時間からは外れているのだから。
いや、とうにではない。それは、始めから――。
*
幅広の運河に架かる石橋。
その欄干にシオは飛び登り、ジルは背を向け寄りかかる。
欄干から見下ろせば、街中を照らす橙の灯りが運河に浮かびたゆたう。
「……今日も、集まりはあたし達だけだね」
辺りを見回したシオが口を開く。
人影は彼女ら以外になく、気配もない。
別段、そういった取り決めのある集まりではない。
何となく気分が乗れば、ふらりと集まり語らうだけのもので、その時々によって集まる顔ぶれも変わる。
だから、皆が集まる機会の方が珍しいくらいなのだが。
「この頃減ってきたなあとは思ってたけど。……他の連中は、みーんなこの街を出てっちまったんかなー?」
欄干にもたれながら、ジルは星を抱く空を見上げた。
それにしても、この頃は集まり具合が悪かった。
それは徐々に徐々にの緩やかな変化で、気付けば彼と彼女だけになっていた。
もともとが少ない顔ぶれではあったけれども。
彼らの他に三、四別の顔があるくらいで。
見上げた空は、いつの間にか藍の色合いを深め夜闇へと。
瞬く星がこの日ばかりは心もとなく思えた。
「そうなのかは」
シオの声に、ジルの紅の瞳が向けられる。
「あたしも知らないけど。――この間から姿を見せないグレイのさ……」
グレイ。彼はシオと同じく猫であり、そしてシオと同じく猫の時間からは外れた存在だった。
グレイもシオも、外れた存在だとしても、普通の猫として人に飼われる生活をしている。
「その飼い主――彼の家族が、今日は探し回ってた。……グレイの奴、黙っていなくなったのかな」
シオが俯く。
石橋の下を流れる運河の水面に、頼りない姿が浮かんでいた。
「……他の皆も黙っていなくなってさ。他の場所ならって、希望を持って海を渡ってくのかな」
そう言うと、シオは遠くを見晴らす。
運河を滑って眺めやる海に、ぽつりとゴンドラが浮いていた。
頼りなさそうな灯りひとつを共に、そのゴンドラはだんだんと小さくなって行く。
もしかしたら、あのゴンドラに乗っているのかもしれない。
夜の航海は危険をはらむと、この街に住む者ならば知っているはずなのに。
それでも、目立たぬ夜にひっそりと出ていきたいものなのか。
誰にもその行き先を告げずに。
「どこに行ったって、居場所なんてねぇのにな。……俺達みたいな、半端な魔族には」
シオと同じように遠くを見晴らしたジルの呟きは、濃くなる夜の気配に溶けていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます