あの人


 精霊の春。それは、精霊の子の誕生を祝う精霊達の祭り。

 精霊の子の誕生は人にとっても吉報であり、今後の益々の発展を願い、祈りを捧げる。

 永らくなかった精霊の春という催事。

 それがやってくるという領主の報せは、領民へまたたく間に広がり、大いに賑わかせた。




 春という季節は終わりを告げたのに、どうして皆は春がやってくると言うのだろう。

 ジャスミンはそれがどうしても不思議でたまらなかった。

 けれども、街全体が浮き立っているような、そんな空気感は好きだった。

 天幕通りに色彩鮮やかな何とか模様に染められた柄布を、建物と建物の間を渡らせた様は、まるで通りに屋根でも出来たかのようで。

 いつも賑わう天幕通りが一層賑わい、その華やかさは目を楽しませる。

 天幕も普段と違う飾り付け。

 風に踊る紐飾りに、それを彩る小鈴がちりんと音を奏でれば、人々の耳も楽しませる。

 いろんなものがあった。本当にいろいろと。

 気持ちは伝染する。

 自分まで心が浮き立って、そのままふわりと空まで浮き上がってしまいそうだ。

 うきうき。わくわく。そわそわ。

 そんな明るい気持ち。

 だが、その気持ちが部位隠形術を容易く解いてしまう。

 獣の耳に獣の尾。バンダナもなければ、今は常のトレンチスカートでもないため、尾も耳も隠せない。

 その上、尾に関しては気持ちに正直過ぎてひょんと振れてしまう。

 気持ちは御せない。それがちょっと恥ずかしい。

 軽く睨んでも尾は振れる。

 そんな自分の尾が恨めしく、時折この尾は、自分とは別の意思を持っているのではと錯覚する。

 しばらくねめつけ、やがて諦めの嘆息をもらした。

 と。ぴんと獣の耳が立ち上がり、そのすぐあとに。


「ジャジィー……」


 階下から自分を呼ぶ母の声がした。

 それに、はあい、と元気に返事をしたジャスミンは、どたたと少し騒がしい足音で階下へと駆けて行く。



 あの騒動から数週間。

 ジャスミンもすっかり元気になっていた。




   *




「おっとと」


 どたたとそのまま母の居る居間へ駆け込む前に、ジャスミンは慌てて停止した。

 ふうと弾む息を整えて、心も落ち着ける。


「…………」


 落ち着いた頃合いを見計らい、ジャスミンは部位隠形術を発動させた。

 体内のオドに意識を傾け、流れを変える。

 特に耳と尾には丁寧に意識を巡らせて。

 そうすれば、もう獣の耳と尾は隠れてしまう。

 代わりにそこにあるのは人のそれ。

 それを手で触り、ないものはない、あるものはある、をきちんと確認したのち。


「よしっ、と」


 思わず片手で小さな拳を握り、肘をぐっと曲げてしまった。所謂、ガッツポーズだ。

 これで母から小言をもらわずにすむ。

 と、そんなところへ。


「ジャジィ、さっきから何をしているの?」


 居間から顔を覗かせ、首を傾げる母の姿。

 一瞬どきりと鼓動が跳ね、ついでに身体も跳ねたが、ジャスミンは何でもないよと慌てて笑顔を貼り付けて取り繕う。


「……それよりおかあさん、ちゃんとやすんでて」


 母の手を引き、居間に足を踏み入れたジャスミンは、急くように近くの椅子へと連れて行く。


「いまはおだいじなときだって、おとうさんもさん……あ? あ"? さんもいってたよ」


「産婆さんね」


 苦笑混じりに返ってきた訂正に、もういいからと何かを誤魔化すように母を椅子へと座らせた。

 頬が火照っているのは気のせい。

 はいはい、とやっぱり苦笑混じりの声をもらしながら、母はジャスミンの言う通りにする。

 母のくすと笑う様を見やり、ジャスミンは面白くなさそうにむうと口を尖らせた。


「ジャジィ、いらっしゃい」


 そんな様子の娘を母は手招きをで傍へ呼ぶ。

 けれども、当のジャスミンは不貞腐れたように視線を床へ落とし、意味もなく足をぷらぷらとぶらつかせる。

 ちらと時折母を見やる金の瞳は、少しばかりの甘えの色が覗く。


「……いらっしゃい、ジャジィ」


 今度は柔らかな声音で母は娘を呼んだ。

 招くように両手を広げ、おいでとさらに促せば、ジャスミンは金の瞳を目一杯に見開いた。

 ジャスミンの顔にじわじわと喜色が広がり、母の腕へと飛び込もうとして――ぴたと止まる。


「ジャジィ?」


 訝しむ母の声。その声がするりとジャスミンの耳を通り抜ける。

 母の体調や腹の子ことを思い出してしまい、ジャスミンは寸前で踏み止まった。

 飛び込みたい。けれども、そのせいで悪いことが起こったら。

 口を歪めて俯く。それは、嫌だ。

 じわりと視界が滲むのはどうしてだろう。

 ぐすと鼻を鳴らしそうになったときだ。

 吐息の音がした。細い吐息。


「――――」


 ジャスミンの上に影が落ちる。

 かさり、小さな音と共に首に硬質な感触。

 次いで髪をすくわれ、俯いた視界で小さなものが揺れた。

 それが何かを見たジャスミンが、弾かれたように顔を上げて母を振り仰ぐ。

 咄嗟に首元で揺れるそれを掴んで、どうしてと戸惑うように見詰めた。


「これ、おかあさんのおだいじなもの」


 動揺として伝わっているのか手が震え、それ――ネックレスの飾り毛も揺れる。


「ええ、そうよ。それはお母さんがずっと大事にしているもの。――でも、ジャジィが持っていて」


「なんで……?」


 ジャスミンが自身が掴むネックレスへと視線を落とした。

 飾り毛に革紐が通された、ネックレスというよりも、首飾りと言った方がしっくりとするそれ。

 飾り毛は栗色で、何かの動物の体毛のように見える。

 ジャスミンがもっとずっと小さい頃。

 いつも母が大事にしていたそれに興味を持ったジャスミンが、欲しいと言ったことがあった。

 その時は諭すように、だめよ、と母に断られてしまったけれども。

 それでも、それが気になって仕方なかったジャスミンは、母の隙を突いて奪取することに成功する。

 が、それが見つかった時の母の慌てぶりは、未だに鮮明に覚えている。

 今思えば、大切にされているものに勝手に触れてはいけない、と叱られたのは、あれが初めてだったかもしれい。

 それだけ大切なのだ。大事なのだ。

 それを、どうして今更自分になんかに。

 ジャスミンの金の瞳が揺れる。


「それを持っていれば、もしかしたらその時に、あの人が気付くかもしれない」


 落ちてきた母の声に、気になる言葉を聞き留め顔を上げた。


「……あのひとって……?」


 どくん。脈動を強く感じる。

 触れたときから予感がしていた。

 掴むネックレスの飾り毛からは、己と波長の似たオドが巡っている。

 とてもよく似ているから、自分のそれかと一瞬思ってしまった。

 それ程に似ているのだ。

 だから、本当は母に問い返さずとも、ジャスミンはその言葉の意味を知っている――気がする。

 目元を和らげて笑う母の顔は、ジャスミンと誰かの面差しを重ね見ている様だった。


「ジャジィは聡い子だもの。きっと知っているのよね」


 なにを、とジャスミンはまた問う。

 わからない、ふりをしたかった。

 だが、それを母は許してはくれなかった。


「お父さんが、お父さんじゃないってことを」


 柔らかな声音で、残酷なことを言う。

 母がジャスミンへ手を伸ばし、両手で頬を包みながら指で撫でる。

 父が父ではない。

 ジャスミンは幼い頭で言葉を繰り返し、その意味を咀嚼しようした。

 幼子には少し難しい言い回し。

 けれども、咀嚼するまでもなくジャスミンはすぐに理解する。

 ああ、やっぱり。それが最初に抱いたこと。

 知っていた。知っていた。けれども、わからないふりをしていた。

 でも、父が向けてくれる想いは本物だ。

 それも知っている。

 でも、でもだ。じわりと視界が滲むのはどうしてだろう。

 母に頬を包まれながら、涙が滲む金の瞳で母を見詰め返した。

 自分と同じ母の金の瞳も、揺れていた。

 そっと母は娘へと問う。


「お父さんのこと、嫌いになっちゃった?」


 その声が、少しだけうわずっていた。

 ジャスミンは黙って首を横に振る。

 その弾みで涙が零れ落ちた。

 ジャスミンの頬を伝うそれを指で拭い、母はへにゃりと笑う。


「ごめんね。本当は、ジャジィがもっと大きくなってから、伝えるつもりだったのに」


 頬を熱い何かが伝う。


「何となくなんだけど、伝えるのは今かなって思ったの」


 ジャスミンはふるふると、黙って首を横に振ることしか出来なかった。

 けれども、今度は彼女が母へと手を伸ばし、彼女の頬を滑る熱いそれを拭う。

 母の金の瞳が小さく見開かれたのち、柔らかく細められたかと思えば、その娘の手を握って頬へ寄せる。


「ジャジィ」


 柔らかな優しい声音。

 母が目を閉じると、その弾みで最後の涙がぽろと零れ落ちた。




   *




「さあ、お目々を冷やしてらっしゃい」


 くるりと娘の身体を変えさせ、背を軽く押す。

 向かせた方には水場がある。

 が、娘は向かおうとしない。


「もうすぐお父さんが帰ってくるわ。そんなお目々では、精霊祭に行けないでしょ?」


 このあと夫が所用から帰ってくる。

 そしたら一緒に精霊祭の屋台を回ろうね、と娘と約束しているのだ。

 さすがにこんな目の状態では外へ行かせられない。

 促すように言うも、やはり動こうとしない様子の娘に、どうしたのと問いかける。

 すると、くるりと振り返った娘が見上げてきた。

 目元を赤くした金の瞳に真剣の色が窺える。

 ジャスミンは口をきゅっと引き結び、しばらく逡巡したのちに、ようやく口を開く。


「おかあさんは、あのひとってひとのこと……すきだったの?」


 娘の突然の質問。母は面食らったように、ぱちくりと目を瞬かせて。

 そして、ふわりと笑った。


「違うわ」


 なのに、彼女の返答は否定。

 ジャスミンの顔に落胆の色が広がる。

 何かを期待していた。

 それは何か、何の期待かはわからない。

 けれども、母のその返答はジャスミンを落胆させるには充分だった。

 だが。


「あの人のことは、今でも大好きよ」


 俯きそうだった顔が再び上がる。

 自分を見下ろす金の瞳があたたかな色を宿していて、知らず頬に熱が灯った。

 何だか照れくさい。恥ずかしくなる。

 堪らず視線を逸した。

 いつの間にか獣の尾が姿を現していたが、今は気に留めるところではない。


「刹那的な恋だったわ……。あの人と気持ちが通じたと思った。なのに、突然あの人はいなくなってしまった」


 ぽつりと落とされる言葉。

 ジャスミンにはよくわからない、難しい言葉。

 顔を逸してしまったから、母の表情は見えない。

 けれども、その声は何だか寂しそうで、少しだけ痛そうで。

 今は何となく、母の顔は見ないほうがいい気がして背を向けた。


「……本当に聡い子ね」


 娘の胸中を悟った母が、所在なさげに揺れる彼女の尾へ手を伸ばす。

 ジャスミンは一瞬驚いたように身体を跳ねさせるも、尾を撫でる手付きが思いの外心地良く、いつの間にか耳までも獣のそれになっていた。

 あの人と同じ反応ね。言葉と共にくすくすと笑いながらも、母は撫でる手を止めない。


「だから、お腹にジャジィがいるってわかったときは、嬉しかったんだから」


 ジャスミンの獣の耳が、心地良さにぺたんと後ろへ倒れる。

 尾を撫でる母の手付きは魅惑的だ。

 こんな手業を隠し持っていたとは。

 心地良さではない、これは快感だ。

 やばいと本能が訴える。けれども、もう手遅れだった。

 抗うことを身体が拒否をする。

 だが、これだけは確かめないと。

 快感に溺れそうになる意識を総動員させ、ジャスミンは母へと問いかける。


「……おとうさんのことは、すきじゃないの……?」


 ぴたっ、尾を撫でる母の手が止まった。


「…………」


 おそるおそるジャスミンが振り返る。

 尾はもっと撫でろと母の手を小さく叩く。


「――お父さんも大好きよ」


「も?」


 そこに妙な引っかかりを覚え、思わず繰り返す。

 ええ。それに頷き返した母の瞳に別の色が一瞬滲み、そわとしたジャスミンが咄嗟に顔を背けた。

 その色は今までに見たことのない色だった。

 何を意味する色なのか、ジャスミンにはわからない。

 不快な色ではない。けれども、何だか恥ずかしくさせる色。

 少なくとも、“母”としての色ではない気がした。

 そのせいだろうか。頬が熱い。

 そこに母の忍び笑いが聞こえ、むっとして母を見やると。


「お父さんはね、お母さんが“一緒に今を生きたい”って思った大切な人」


 母は柔和な声で言葉を続けた。

 けれどもそこへ、ジャスミンが反射的に問いを重ねる。


「じゃあ、あのひとってひとのことは……?」


 ちょっぴそとそこに怯えが滲む。

 母は娘のそれには気付かぬふりをして答えた。


「あの人は忘れられない大切な人。過去の人だもの、忘れられないわ」


 そこに含まれるのは愁い。哀愁。

 が、ジャスミンにはわかるはずもなく、ほっと安堵に表情が小さく緩む。

 どうして安堵したのか。今はやはりわからない。

 不思議に思ったジャスミンは、頬をうにうにと手で揉みほぐしてみる。

 娘の行動を微笑ましげに見やり、さあ、と母は声を少し張って。


「ジャジィ、先ずは水場でそのお目々を冷やしてらっしゃい」


 くるりとジャスミンの身体を変え、急かすようにとんとその背を押してやる。


「お父さんがもう少しで帰ってきてしまうわよ」


 悪戯に笑うと、時間があまりないことを悟ったジャスミンの尾が、瞬時にして跳ね上がった。

 いそがなきゃ。言葉と共に、ぱたぱたと軽快な音を奏でながら、小さな姿が水場へと消えて行く。

 次いで、ばしゃと勢いのある水音が響く。

 これはあとで水回りを拭かなきゃならないかなと。

 母の顔に苦笑がこぼれ、刹那。

 くっと彼女の顔がしかめられる。

 何かを堪えるように眉がひそめられ、咄嗟に口元に手をあてがう。

 が、努力虚しくごほごほとその手から咳がもれでた。

 咳音はジャスミンがたてる賑やかな水音に呑まれて届かない。

 やがて咳の波が過ぎ、母は乱れる呼吸を整えようと深く息をつく。

 それも落ち着いた頃に、水場からジャスミンが戻って来た。

 やはり予想通りに娘は服を濡らしていた。

 苦笑を滲ませながら着替えを促し、階上へと駆け上る後ろ姿を見送ってひと息つく。

 と、腹の子が心配だよと訴えるように動いた。


「……大丈夫よ。まだ時間はあるから」


 腹を擦りながら呟いた。

 押し付けるカタチでごめんね、と心で謝りながら。

 どうか、あの子との繋がりになってあげて、と願いながら。


 時折、軽咳が部屋に響いていた。

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